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9 リツコ(1)
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始まりがどこだったのか、明確にするのは難しい。絡まった糸がほどけないのと同じように。これだって、きっかけの一つだったのかもしれないし、もしかしたら最後の一つだったのかもしれない。
玉寄さんの二度目の来店は、二月に入ってすぐのことだった。
「こんにちは、角尾さん」
彼女はそう言って、まっすぐカウンター席へと進んだ。先にカウンター席にいた客に会釈をして座る。
「いらっしゃいませ。今日も冷えますね」
「えぇ。やっぱり立春の頃が一番寒いですね。今朝、祖母も言ってました」
俺は彼女の前にお冷を出すと、コーヒーの準備を始める。
「……やっぱり、注文しないでコーヒーが出てくるって、変な感じですね」
玉寄さんが怪訝そうな表情をしかけて、苦笑する。〈喫珈琲カドー〉のメニューを思い出したらしい。
「慣れてくると、逆にこっちが当たり前のような気がしてきますよ。たまに違う店へ行くと、うっかりしてしまう」
先にカウンター席にいた常連客が会話に参加してきた。
(たしかに)
今では客が来たらコーヒーの準備が当たり前になってしまったが、他の店では注文を聞くのが先だろう。
「つくづく、とんでもない店だよね。カドーは」
俺の考えていることを知ってか知らずか、ハナオが代弁した。
(……お前も共犯だぞ)
玉寄さんと常連客の会話に耳を傾けながら内心突っ込んだが、ハナオは「んーいい香りー」とドリップ中のコーヒーの香りを楽しんでいる。たぶん、俺の言いたいことをわかっていて無視しているはずだ。
しばらくして、常連客が「お先に」と玉寄さんに声をかけて帰っていった。
「ここの常連の方は、いい方ばかりですね」
両手でカップをはさみながら、玉寄さんが言う。そういえば彼女の最初の来店の時も常連客の三人組がいたのだったか。
「前回もでしたね。祖父の頃からの常連客です。祖父の人柄がどう作用したのか……。ご迷惑でなければよかったのですが」
見知らぬ人から声をかけられることを嫌う人もいる。不愉快な思いをさせていたら、と不安になったが、玉寄さんはふわりと微笑んで、セミロングの髪を揺らした。
「いいえ、こちらこそ。ここには、わたしのような新参者でも拒む気配がないので、居心地がいいです」
また来たいと思っていました、と言ってもらえて、ひとまずは安堵の息をつく。
(……前回と言えば)
玉寄さんの顔を見るなり声を上げてしまい、ずいぶん焦った。彼女がなじみのカフェの店員だったからなのだが、それにしてもあんな反応をしてしまうなんて。
(なんで、あんなことを……あ、そうか)
俺は玉寄さんと世間話を交わしながら前回のことを反芻し、失態を演ずるに至った経緯を思い出す。どうして忘れていたんだろう。その前があったではないか。
「そういえば、玉寄さん。お身内に〝リツコ〟さんとおっしゃる方は、いらっしゃいますか?」
思い出した瞬間、うっかり口にしていた。好奇心をかき立てられたと言っても、嘘ではない。
『……リツ、コ?』
前回、玉寄さんが入ってきた瞬間に、ハナオがまるで亡霊でも見たような顔をして呟いた言葉だ。おそらく誰かの名前。彼がそんな表情をしたのは、あの時だけだ。
玉寄さんは一瞬目を瞠った後、笑顔を消した。怪訝そうに俺を見る。
軽率だった。彼女がただの知人あるいは友人ならば問題はなかっただろう。しかし玉寄さんは客だ。俺は店を営む者として、客に対して立ち入ってはいけない質問をした。
「……何故、そんなことを?」
玉寄さんは静かな口調でそう問うた。それは彼女なりの譲歩であり、それだけ〈喫珈琲カドー〉を気に入ってくれていたからこその言葉だったと思うのだが、理由を訊かれて俺はさらに窮した。
(……しまった)
どう答える? 玉寄さんを見て〝リツコ〟というキーワードを持ち出したのはハナオである。だから正しく答えるなら「隣にいる透明人間が、あなたを見てそう言ったからです」だ。そんなこと絶対に言えない。
「ずいぶん前の話なんですが、玉寄さんの働くカフェで、隣の席に座っていた人があなたのことを見て、そう呟いたのを偶然聞いたんです。ひどく驚いた顔をされていたので、印象に残っていました。それを今、思い出して……。いきなり、失礼しました」
俺はとっさに嘘を交えて理由を言い、頭を下げる。彼女の働くカフェはそこそこの規模を持つ。ターミナル駅のそばで人の出入りも頻繁だ。〈喫珈琲カドー〉のように、すぐにどの客かを特定できることはないはず。少し心苦しいが、仕方ない。
「……その人は、どんな方でしたか?」
玉寄さんはさらに質問を重ねた。怒っているというより、ただ興味で訊いているといった様子だ。
(〝リツコ〟に心当たりがあるのか……?)
この話題を早々に終わらせようと思っていた俺は、さらなる追及を受けて、たじろぐ。「学ランを着た少年」なんて、やっぱり言えない。ハナオの言い方は、まるで昔の知人を見たようだった。ならば。
「穏やかな表情をされた、品のよい感じの老紳士でした。……すみません、何しろずいぶん前のことですし、知らない方でしたので、あまりジロジロ見るわけにもいかず……」
俺は、ハナオがもし年相応の外見をしていたら、と考えながら特徴を述べ、詳しく言いすぎてしまう前にごまかした。
玉寄さんは、そうですよね、と口元に手をやり、恥ずかしそうに微笑む。それでこの話題は終わりだった。また世間話へと戻り、やがて玉寄さんは来た時同様の穏やかな様子で帰っていった。
(……結局、答えは聞けなかったな)
常連客候補を一人失くしてしまったかもしれない、という一抹の淋しさともに、そんなことを思う。
それでも俺は、この話題はこれで終わったと思っていたし、もう二度と持ち出す気はなかった。せいぜい、頃合いを見てハナオにも訊いてみようぐらいの軽い気持ちで、扉が閉まるのを見届けていた。
だが、俺がうっかり立ち入ってしまったのは、何も客に対してだけではなかった。
「――何、さっきの?」
隣から聞こえてきた低く沈んだ声は、穏やかだったはずの〈喫珈琲カドー〉の雰囲気を一変させるのに充分な威力を持っていた。
「ねぇ、ミツ。さっきのは、何?」
店内に客がいないのだから当たり前なのだが、声の主がハナオだったことに俺は驚いた。それほどに、いつも楽しげなハナオの声からは想像もできないくらいに、暗く怒気をはらんだ声音だったのだ。
俺を見上げていないからだろうか。長めの前髪が顔の半分を覆い隠して、ハナオの表情がしっかりと見えない。
「何、って……老紳士って言ったことか? 悪かったよ、まさか学ランを着た少年とか言えないだろ」
「違うよ、そこじゃない。どうして彼女にあんなことを訊いたのか、って言ったの」
状況の急転について行けなかった俺は、ハナオが噛み砕くように言うのを聞いて、やっとわかった。ハナオは〝リツコ〟を持ち出したことを怒っているのだ。でも、何故そんなに怒る?
「あぁ、そっちか。だってハナオ、前回、玉寄さんのことを見て、驚いていたじゃねぇか。気になってたんだろ? だから……」
「だから、話ができない僕のかわりに訊いてあげたってワケ」
妙に突っかかる言い方だった。
「そんな言い方しなくても」
「じゃあ、どう言ったらいいかな? ありがとうって言えばいい?」
「――おい、ハナオ。何が言いたい」
さすがにカチンときた。
「なんで、そういう余計なコトするの?」
「余計? でもお前、気になってたんだろ。あの時、あきらかに様子が変だったじゃねぇか」
「それが大きなお世話なんだよ。僕、頼んでないよね?」
顔を上げたハナオは、バカにしたような笑みを浮かべていた。
(そりゃ、頼まれてねぇけど)
頼まれてないから、するなってことか。
「……なら、何か? 俺はお前の言いなりになって、ただコーヒーを淹れていればいいって言いたいのか?」
「余計なことに踏み込むなって言ったの。きみには関係ない」
「関係ないって……、じゃあ、なんで一瞬でもあんな表情をしたんだ? 今だって様子が変だし。リツコって誰だ」
「知らないよ、誰でもいいじゃない。興味本位で訊けば、なんでも教えてもらえるって思っているわけ? 浅ましいよ」
とんでもない暴言だった。人を小バカにした顔に腹が立つ。まるで初めて出会った時のようだ。こちらの神経を逆なでする。
(何故だ?)
同時に疑問であり心配だった。どうしてハナオはこんな態度を取るのか。だから余計に気になった。〝リツコ〟とは何者なのか? おそらくは、ハナオの過去に関わりのある名前。
俺は、心配だと言い訳をして、自分の好奇心を満たすことに躍起になっていた。だから気がつかなかった。ハナオの表情が少しずつ崩れはじめていたことに。
「ふざけんな、知らないはずねぇだろ」
「知らない」
「お前、変だぞ」
「知らないってば」
「おい、ハナオ」
「――忘れたッ」
ハナオが叫んだ。伏せた顔を再び前髪が隠す。
「忘れた忘れた忘れた、忘れたんだ!」
狂ったように叫ばれた言葉の羅列に圧倒されて、俺は息を呑んだ。最後に、疲れきったような一言がこぼれ落ちる。
「……忘れたいんだよ」
しん、と店内に静寂が戻る。ハナオはいからせていた肩を力なく落とした。
「ねぇ、ミツ。忘却がどれほど素敵なものか、知っている……?」
俺の中で、ある考えがはじけた。それは凍えそうな冷たさを伴って急速に体中をめぐる。
「お前まさか、記憶力がいいんじゃなくて」
ハナオの記憶力の話は、つい最近した話題だ。無邪気に、全部覚えているなんて言っていたけれど。
(桁外れに記憶力がいいわけじゃなくて)
忘れることができないのか。
「……いつからだ?」
「初めからだよ。透明になってからずっと。その後のことはもちろん、以前のことも、覚えていたことは全部忘れられない。……どうしてだろう。何かに熱中していれば忘れられると思ったのに。新しいモノを詰め込めば、古いモノなんか消えてなくなると思っていたのにね」
ハナオは力なく俺を見上げ、微笑んだ。
いつになくハナオが小さく見える。けど、彼はもともと小柄だったではないか。何十年も生きて、たくさんのことを知っていて、いつの間にか俺の中で大きな存在になっていた。それでもその姿は頼りなげな少年だ。いつも楽しそうに笑っている顔には、今もいびつな笑顔が貼りついている。どうして泣かない? なんで辛いって言わない?
(どうして、俺は)
わかってやれなかった。挑発にのせられて問いつめた。ハナオの過去に関わりのある名前。それはすなわち、ハナオが透明人間になったきっかけを作ったものの、少なくとも一部ではないのか。
『僕は、これを望んだのだから』
ハナオは透明人間になることを――消えてしまうことを望んだと言った。けれどその前に。
『あぁ、それは悪夢だね』
こうも言った。透明人間になることに――存在が消えてしまうことに対して。
「……ハナオ、何があったんだ? なんで、透明人間なんかになった?」
かつてハナオは、俺の問いに何度か「忘れた」と答えたことがあった。それは、本名や透明になったきっかけ。つまり、過去にまつわるものだ。
「本当は、忘れてないんだろ」
はっと目を見開いたハナオは、憎々しげに顔を顰めた。あきらかに自分の発言を失言と受け止め、後悔しているような素ぶり。一瞬見えたかに思えたハナオの素の表情は、再びなりを潜めてしまった。
「……言ってどうなるのさ。言ったでしょ? 七十五年以上も前のことだって。僕を知る人はみんな死に絶えている。きみなんかに話したところで、今さら何ができるって言うの? 思い上がりも甚だしいよ。ねぇ、若造」
後ろ手に組み、下から覗き込むように見上げたハナオの顔には、皮肉めいた笑み。まるで正論を唱え、相手を打ち破ることを楽しむような。
(拒絶、された)
ふとハナオが表情を緩める。
「もう忘れてよ、こんな終わった昔話の断片なんか。……知ってほしく、ないんだ」
ミツには。
こぼれ落ちたその言葉が、本心だと感じた。その一言が、俺に思考と冷静さを取り戻させる。惑わされるな、鎧をまとった彼の言葉に。思い出せ、彼にこんな反応を起こさせた言葉を。その行動の意味を。
(……ハナオにとって〝リツコ〟という言葉は)
扱いが違う。同じようにハナオの過去に関わるはずなのに、他とは違う。
『えー、忘れたよぉ』
いつものように、そう言ってごまかさなかったのは何故だ?
「でも本当は、忘れたくないものだってあるんじゃねぇの? ハナオらしくもない」
ハナオの頬にさっと朱が差した。つい、とその身が引かれる。
「〝僕らしい〟って、何? ミツが僕の何を知っているっていうのさ」
(そんなの、言ってもらえねぇんだから何も知らない)
けど、見ていたから知っている。
「ハナオはいつも、大切に生きてるじゃねぇか」
客の言葉に笑い転げ、種田氏にケンカを売り、コーヒーの香りを心の底から楽しむ。表情をコロコロと変えて、毎日に真正面から向き合っているハナオの姿は、死んだように日々を浪費する俺にはいつだって眩しかった。
不意をつかれたように、ハナオの表情が一瞬歪む。けれどそのまま小さく頭を振った。
「……買いかぶりすぎだよ、ミツ。僕はそんなに強くない。……知りたくないよ、昔話のままでいさせてよ。リツコに会いたい。でも、怖いんだ。僕はただの憶病者なんだよ」
「怖い?」
「ミツは、何もわかってない。僕が何を恐れているか、僕という存在がどういうことか。見えなくなることが、いつまでも変わらないことが、……時間に置いて行かれるということが、どういうことなのか。何も、わかっちゃいない……わかりっこないんだ」
「ハナオ」
「もう、よそうよ、ミツ。結局、彼女とリツコに関係があるのかすらわかってないんだよ? 他人の空似さ。こんな水かけ論は無意味だよ」
ハナオはおどけたように両手を広げてみせる。中途半端な幕切れだったが、玉寄さんから答えを聞けていないのは事実で、この言い合いに結論が出ないことはわかっている。
それに、俺自身もショックを受けていた。俺が今まで見ていたのは、喜怒哀楽を思いのままに表現していると思っていたハナオの、喜と楽でしかなかった。今回そのことを、嫌というほど突きつけられた。
だから俺は、あえてハナオの提案にのった。それから二度と俺とハナオの間で再びこの話題が持ち上がることはなかった。――玉寄さんが三度目の来店をするまでは。
玉寄さんの二度目の来店は、二月に入ってすぐのことだった。
「こんにちは、角尾さん」
彼女はそう言って、まっすぐカウンター席へと進んだ。先にカウンター席にいた客に会釈をして座る。
「いらっしゃいませ。今日も冷えますね」
「えぇ。やっぱり立春の頃が一番寒いですね。今朝、祖母も言ってました」
俺は彼女の前にお冷を出すと、コーヒーの準備を始める。
「……やっぱり、注文しないでコーヒーが出てくるって、変な感じですね」
玉寄さんが怪訝そうな表情をしかけて、苦笑する。〈喫珈琲カドー〉のメニューを思い出したらしい。
「慣れてくると、逆にこっちが当たり前のような気がしてきますよ。たまに違う店へ行くと、うっかりしてしまう」
先にカウンター席にいた常連客が会話に参加してきた。
(たしかに)
今では客が来たらコーヒーの準備が当たり前になってしまったが、他の店では注文を聞くのが先だろう。
「つくづく、とんでもない店だよね。カドーは」
俺の考えていることを知ってか知らずか、ハナオが代弁した。
(……お前も共犯だぞ)
玉寄さんと常連客の会話に耳を傾けながら内心突っ込んだが、ハナオは「んーいい香りー」とドリップ中のコーヒーの香りを楽しんでいる。たぶん、俺の言いたいことをわかっていて無視しているはずだ。
しばらくして、常連客が「お先に」と玉寄さんに声をかけて帰っていった。
「ここの常連の方は、いい方ばかりですね」
両手でカップをはさみながら、玉寄さんが言う。そういえば彼女の最初の来店の時も常連客の三人組がいたのだったか。
「前回もでしたね。祖父の頃からの常連客です。祖父の人柄がどう作用したのか……。ご迷惑でなければよかったのですが」
見知らぬ人から声をかけられることを嫌う人もいる。不愉快な思いをさせていたら、と不安になったが、玉寄さんはふわりと微笑んで、セミロングの髪を揺らした。
「いいえ、こちらこそ。ここには、わたしのような新参者でも拒む気配がないので、居心地がいいです」
また来たいと思っていました、と言ってもらえて、ひとまずは安堵の息をつく。
(……前回と言えば)
玉寄さんの顔を見るなり声を上げてしまい、ずいぶん焦った。彼女がなじみのカフェの店員だったからなのだが、それにしてもあんな反応をしてしまうなんて。
(なんで、あんなことを……あ、そうか)
俺は玉寄さんと世間話を交わしながら前回のことを反芻し、失態を演ずるに至った経緯を思い出す。どうして忘れていたんだろう。その前があったではないか。
「そういえば、玉寄さん。お身内に〝リツコ〟さんとおっしゃる方は、いらっしゃいますか?」
思い出した瞬間、うっかり口にしていた。好奇心をかき立てられたと言っても、嘘ではない。
『……リツ、コ?』
前回、玉寄さんが入ってきた瞬間に、ハナオがまるで亡霊でも見たような顔をして呟いた言葉だ。おそらく誰かの名前。彼がそんな表情をしたのは、あの時だけだ。
玉寄さんは一瞬目を瞠った後、笑顔を消した。怪訝そうに俺を見る。
軽率だった。彼女がただの知人あるいは友人ならば問題はなかっただろう。しかし玉寄さんは客だ。俺は店を営む者として、客に対して立ち入ってはいけない質問をした。
「……何故、そんなことを?」
玉寄さんは静かな口調でそう問うた。それは彼女なりの譲歩であり、それだけ〈喫珈琲カドー〉を気に入ってくれていたからこその言葉だったと思うのだが、理由を訊かれて俺はさらに窮した。
(……しまった)
どう答える? 玉寄さんを見て〝リツコ〟というキーワードを持ち出したのはハナオである。だから正しく答えるなら「隣にいる透明人間が、あなたを見てそう言ったからです」だ。そんなこと絶対に言えない。
「ずいぶん前の話なんですが、玉寄さんの働くカフェで、隣の席に座っていた人があなたのことを見て、そう呟いたのを偶然聞いたんです。ひどく驚いた顔をされていたので、印象に残っていました。それを今、思い出して……。いきなり、失礼しました」
俺はとっさに嘘を交えて理由を言い、頭を下げる。彼女の働くカフェはそこそこの規模を持つ。ターミナル駅のそばで人の出入りも頻繁だ。〈喫珈琲カドー〉のように、すぐにどの客かを特定できることはないはず。少し心苦しいが、仕方ない。
「……その人は、どんな方でしたか?」
玉寄さんはさらに質問を重ねた。怒っているというより、ただ興味で訊いているといった様子だ。
(〝リツコ〟に心当たりがあるのか……?)
この話題を早々に終わらせようと思っていた俺は、さらなる追及を受けて、たじろぐ。「学ランを着た少年」なんて、やっぱり言えない。ハナオの言い方は、まるで昔の知人を見たようだった。ならば。
「穏やかな表情をされた、品のよい感じの老紳士でした。……すみません、何しろずいぶん前のことですし、知らない方でしたので、あまりジロジロ見るわけにもいかず……」
俺は、ハナオがもし年相応の外見をしていたら、と考えながら特徴を述べ、詳しく言いすぎてしまう前にごまかした。
玉寄さんは、そうですよね、と口元に手をやり、恥ずかしそうに微笑む。それでこの話題は終わりだった。また世間話へと戻り、やがて玉寄さんは来た時同様の穏やかな様子で帰っていった。
(……結局、答えは聞けなかったな)
常連客候補を一人失くしてしまったかもしれない、という一抹の淋しさともに、そんなことを思う。
それでも俺は、この話題はこれで終わったと思っていたし、もう二度と持ち出す気はなかった。せいぜい、頃合いを見てハナオにも訊いてみようぐらいの軽い気持ちで、扉が閉まるのを見届けていた。
だが、俺がうっかり立ち入ってしまったのは、何も客に対してだけではなかった。
「――何、さっきの?」
隣から聞こえてきた低く沈んだ声は、穏やかだったはずの〈喫珈琲カドー〉の雰囲気を一変させるのに充分な威力を持っていた。
「ねぇ、ミツ。さっきのは、何?」
店内に客がいないのだから当たり前なのだが、声の主がハナオだったことに俺は驚いた。それほどに、いつも楽しげなハナオの声からは想像もできないくらいに、暗く怒気をはらんだ声音だったのだ。
俺を見上げていないからだろうか。長めの前髪が顔の半分を覆い隠して、ハナオの表情がしっかりと見えない。
「何、って……老紳士って言ったことか? 悪かったよ、まさか学ランを着た少年とか言えないだろ」
「違うよ、そこじゃない。どうして彼女にあんなことを訊いたのか、って言ったの」
状況の急転について行けなかった俺は、ハナオが噛み砕くように言うのを聞いて、やっとわかった。ハナオは〝リツコ〟を持ち出したことを怒っているのだ。でも、何故そんなに怒る?
「あぁ、そっちか。だってハナオ、前回、玉寄さんのことを見て、驚いていたじゃねぇか。気になってたんだろ? だから……」
「だから、話ができない僕のかわりに訊いてあげたってワケ」
妙に突っかかる言い方だった。
「そんな言い方しなくても」
「じゃあ、どう言ったらいいかな? ありがとうって言えばいい?」
「――おい、ハナオ。何が言いたい」
さすがにカチンときた。
「なんで、そういう余計なコトするの?」
「余計? でもお前、気になってたんだろ。あの時、あきらかに様子が変だったじゃねぇか」
「それが大きなお世話なんだよ。僕、頼んでないよね?」
顔を上げたハナオは、バカにしたような笑みを浮かべていた。
(そりゃ、頼まれてねぇけど)
頼まれてないから、するなってことか。
「……なら、何か? 俺はお前の言いなりになって、ただコーヒーを淹れていればいいって言いたいのか?」
「余計なことに踏み込むなって言ったの。きみには関係ない」
「関係ないって……、じゃあ、なんで一瞬でもあんな表情をしたんだ? 今だって様子が変だし。リツコって誰だ」
「知らないよ、誰でもいいじゃない。興味本位で訊けば、なんでも教えてもらえるって思っているわけ? 浅ましいよ」
とんでもない暴言だった。人を小バカにした顔に腹が立つ。まるで初めて出会った時のようだ。こちらの神経を逆なでする。
(何故だ?)
同時に疑問であり心配だった。どうしてハナオはこんな態度を取るのか。だから余計に気になった。〝リツコ〟とは何者なのか? おそらくは、ハナオの過去に関わりのある名前。
俺は、心配だと言い訳をして、自分の好奇心を満たすことに躍起になっていた。だから気がつかなかった。ハナオの表情が少しずつ崩れはじめていたことに。
「ふざけんな、知らないはずねぇだろ」
「知らない」
「お前、変だぞ」
「知らないってば」
「おい、ハナオ」
「――忘れたッ」
ハナオが叫んだ。伏せた顔を再び前髪が隠す。
「忘れた忘れた忘れた、忘れたんだ!」
狂ったように叫ばれた言葉の羅列に圧倒されて、俺は息を呑んだ。最後に、疲れきったような一言がこぼれ落ちる。
「……忘れたいんだよ」
しん、と店内に静寂が戻る。ハナオはいからせていた肩を力なく落とした。
「ねぇ、ミツ。忘却がどれほど素敵なものか、知っている……?」
俺の中で、ある考えがはじけた。それは凍えそうな冷たさを伴って急速に体中をめぐる。
「お前まさか、記憶力がいいんじゃなくて」
ハナオの記憶力の話は、つい最近した話題だ。無邪気に、全部覚えているなんて言っていたけれど。
(桁外れに記憶力がいいわけじゃなくて)
忘れることができないのか。
「……いつからだ?」
「初めからだよ。透明になってからずっと。その後のことはもちろん、以前のことも、覚えていたことは全部忘れられない。……どうしてだろう。何かに熱中していれば忘れられると思ったのに。新しいモノを詰め込めば、古いモノなんか消えてなくなると思っていたのにね」
ハナオは力なく俺を見上げ、微笑んだ。
いつになくハナオが小さく見える。けど、彼はもともと小柄だったではないか。何十年も生きて、たくさんのことを知っていて、いつの間にか俺の中で大きな存在になっていた。それでもその姿は頼りなげな少年だ。いつも楽しそうに笑っている顔には、今もいびつな笑顔が貼りついている。どうして泣かない? なんで辛いって言わない?
(どうして、俺は)
わかってやれなかった。挑発にのせられて問いつめた。ハナオの過去に関わりのある名前。それはすなわち、ハナオが透明人間になったきっかけを作ったものの、少なくとも一部ではないのか。
『僕は、これを望んだのだから』
ハナオは透明人間になることを――消えてしまうことを望んだと言った。けれどその前に。
『あぁ、それは悪夢だね』
こうも言った。透明人間になることに――存在が消えてしまうことに対して。
「……ハナオ、何があったんだ? なんで、透明人間なんかになった?」
かつてハナオは、俺の問いに何度か「忘れた」と答えたことがあった。それは、本名や透明になったきっかけ。つまり、過去にまつわるものだ。
「本当は、忘れてないんだろ」
はっと目を見開いたハナオは、憎々しげに顔を顰めた。あきらかに自分の発言を失言と受け止め、後悔しているような素ぶり。一瞬見えたかに思えたハナオの素の表情は、再びなりを潜めてしまった。
「……言ってどうなるのさ。言ったでしょ? 七十五年以上も前のことだって。僕を知る人はみんな死に絶えている。きみなんかに話したところで、今さら何ができるって言うの? 思い上がりも甚だしいよ。ねぇ、若造」
後ろ手に組み、下から覗き込むように見上げたハナオの顔には、皮肉めいた笑み。まるで正論を唱え、相手を打ち破ることを楽しむような。
(拒絶、された)
ふとハナオが表情を緩める。
「もう忘れてよ、こんな終わった昔話の断片なんか。……知ってほしく、ないんだ」
ミツには。
こぼれ落ちたその言葉が、本心だと感じた。その一言が、俺に思考と冷静さを取り戻させる。惑わされるな、鎧をまとった彼の言葉に。思い出せ、彼にこんな反応を起こさせた言葉を。その行動の意味を。
(……ハナオにとって〝リツコ〟という言葉は)
扱いが違う。同じようにハナオの過去に関わるはずなのに、他とは違う。
『えー、忘れたよぉ』
いつものように、そう言ってごまかさなかったのは何故だ?
「でも本当は、忘れたくないものだってあるんじゃねぇの? ハナオらしくもない」
ハナオの頬にさっと朱が差した。つい、とその身が引かれる。
「〝僕らしい〟って、何? ミツが僕の何を知っているっていうのさ」
(そんなの、言ってもらえねぇんだから何も知らない)
けど、見ていたから知っている。
「ハナオはいつも、大切に生きてるじゃねぇか」
客の言葉に笑い転げ、種田氏にケンカを売り、コーヒーの香りを心の底から楽しむ。表情をコロコロと変えて、毎日に真正面から向き合っているハナオの姿は、死んだように日々を浪費する俺にはいつだって眩しかった。
不意をつかれたように、ハナオの表情が一瞬歪む。けれどそのまま小さく頭を振った。
「……買いかぶりすぎだよ、ミツ。僕はそんなに強くない。……知りたくないよ、昔話のままでいさせてよ。リツコに会いたい。でも、怖いんだ。僕はただの憶病者なんだよ」
「怖い?」
「ミツは、何もわかってない。僕が何を恐れているか、僕という存在がどういうことか。見えなくなることが、いつまでも変わらないことが、……時間に置いて行かれるということが、どういうことなのか。何も、わかっちゃいない……わかりっこないんだ」
「ハナオ」
「もう、よそうよ、ミツ。結局、彼女とリツコに関係があるのかすらわかってないんだよ? 他人の空似さ。こんな水かけ論は無意味だよ」
ハナオはおどけたように両手を広げてみせる。中途半端な幕切れだったが、玉寄さんから答えを聞けていないのは事実で、この言い合いに結論が出ないことはわかっている。
それに、俺自身もショックを受けていた。俺が今まで見ていたのは、喜怒哀楽を思いのままに表現していると思っていたハナオの、喜と楽でしかなかった。今回そのことを、嫌というほど突きつけられた。
だから俺は、あえてハナオの提案にのった。それから二度と俺とハナオの間で再びこの話題が持ち上がることはなかった。――玉寄さんが三度目の来店をするまでは。
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※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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