スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

文字の大きさ
32 / 42

9 リツコ(2)

しおりを挟む
 二月も終わる頃。その日は、「平年よりやや気温が高く、春の陽気を感じられるでしょう」と天気予報が告げていて、実際に昼間はそのとおりだった。正午をはさんで数時間ほどは、〈喫珈琲カドー〉でも表に面した長細い窓を少し開けていたほどだ。
「んー、梅の花の香りがするぅ」
 窓際に座ってハナオがくんくんと鼻をヒクつかせている。
「もうそんな時期か?」
「今が満開みたいだよー。この健気な甘い匂いがたまらないねッ」
 うっとりと目を閉じたハナオの言動が、若干オヤジくさい。
(梅って、そんな匂いだったか……?)
 普段意識してこなかったことが悔やまれる。匂いを感じないことは百も承知だが、俺もそっと嗅いでみた。その瞬間、まるで応えるように窓から風が吹き込む。
「さむっ、ハナオ、閉めるぞ」
 どんなに春の陽気が漂っていたって、二月は二月だ。
「えー、ミツってば、情緒ないー」
「うるさい。情緒で腹が膨れるか」
 言っていることに意味はない。半分は八つ当たりである。
「僕は膨れるもーん」
 ハナオは、窓に腕をのばした俺の脇を軽やかにすり抜ける。
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」
 節をつけて歌いながら、ぴょんと小上がりを跳び下りた。今日も着地は完璧だ。
「さすがにまだだぞ。――何だそれ?」
「江戸端唄はうた。お座敷唄だよ」
「……風流なモンだな」
 そんな場所、行ったこともない。
「きみもいつか行きたまえ。……柳ャなよなよ風しだ、い……」
 俺が小上がりから下りてカウンターへ戻りかけた時、ハナオのご機嫌な唄が尻切れで止まる。
「ハナオ?」
 それで終わりか? と顔を覗き込むと、ハナオは困惑したように、その形のいい鼻に指先を当てていた。
「……ミツ、お客さんだ。でも、まさか……」
 いつになく不確定な言葉。眉を寄せて、扉の方を見ているハナオの様子が不安をかき立てる。
「まさか、そんなはずは……っ」
 扉が開いた。俺はさすがに普段の平静を装えずに凝視してしまう。
「こんにちは、角尾さん」
「……玉寄さん?」
 扉を開けて顔を覗かせたのは、玉寄さんだった。彼女は、前回のようにすぐには店内に入ってこなかった。大きく扉を開け放って、誰かを招き入れる。
「さ、おばあちゃん」
 玉寄さんが気遣うように声をかける。彼女の背後からゆっくりと現れて店内へと足を踏み入れたのは、小柄な老女。緩やかな動きながら、りんとした雰囲気の立ち姿。品のよい白髪が縁取る、穏やかな顔立ち。
「……まぁ、なんていい香り」
 どこか無邪気な響きを秘めた、静かで優しげな声音。
「おばあちゃん、こちらが、この間話した〈喫珈琲カドー〉の角尾さん」
 玉寄さんは俺を手で指し示して、老女に紹介する。そして今度は俺の方を向いた。少しはにかみながらも、誇らしげに口にする。
「角尾さん。――祖母のリツコです」
 驚きを隠しきれなかった俺は、不自然でない反応を返せていただろうか。予想だにしていなかった。けれど、同名の他人ではない。今、ここにいるのは。
「……どうして、……あぁ、リツコ……っ」
 小さく叫ばれた、嬉しそうなハナオの声を聞いたのは、俺だけだ。
 目の前に立っていたのは、〝リツコ〟その人だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―

コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー! 愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は? ―――――――― ※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

処理中です...