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9 リツコ(2)
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二月も終わる頃。その日は、「平年よりやや気温が高く、春の陽気を感じられるでしょう」と天気予報が告げていて、実際に昼間はそのとおりだった。正午をはさんで数時間ほどは、〈喫珈琲カドー〉でも表に面した長細い窓を少し開けていたほどだ。
「んー、梅の花の香りがするぅ」
窓際に座ってハナオがくんくんと鼻をヒクつかせている。
「もうそんな時期か?」
「今が満開みたいだよー。この健気な甘い匂いがたまらないねッ」
うっとりと目を閉じたハナオの言動が、若干オヤジくさい。
(梅って、そんな匂いだったか……?)
普段意識してこなかったことが悔やまれる。匂いを感じないことは百も承知だが、俺もそっと嗅いでみた。その瞬間、まるで応えるように窓から風が吹き込む。
「さむっ、ハナオ、閉めるぞ」
どんなに春の陽気が漂っていたって、二月は二月だ。
「えー、ミツってば、情緒ないー」
「うるさい。情緒で腹が膨れるか」
言っていることに意味はない。半分は八つ当たりである。
「僕は膨れるもーん」
ハナオは、窓に腕をのばした俺の脇を軽やかにすり抜ける。
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」
節をつけて歌いながら、ぴょんと小上がりを跳び下りた。今日も着地は完璧だ。
「さすがにまだだぞ。――何だそれ?」
「江戸端唄。お座敷唄だよ」
「……風流なモンだな」
そんな場所、行ったこともない。
「きみもいつか行きたまえ。……柳ャなよなよ風しだ、い……」
俺が小上がりから下りてカウンターへ戻りかけた時、ハナオのご機嫌な唄が尻切れで止まる。
「ハナオ?」
それで終わりか? と顔を覗き込むと、ハナオは困惑したように、その形のいい鼻に指先を当てていた。
「……ミツ、お客さんだ。でも、まさか……」
いつになく不確定な言葉。眉を寄せて、扉の方を見ているハナオの様子が不安をかき立てる。
「まさか、そんなはずは……っ」
扉が開いた。俺はさすがに普段の平静を装えずに凝視してしまう。
「こんにちは、角尾さん」
「……玉寄さん?」
扉を開けて顔を覗かせたのは、玉寄さんだった。彼女は、前回のようにすぐには店内に入ってこなかった。大きく扉を開け放って、誰かを招き入れる。
「さ、おばあちゃん」
玉寄さんが気遣うように声をかける。彼女の背後からゆっくりと現れて店内へと足を踏み入れたのは、小柄な老女。緩やかな動きながら、凛とした雰囲気の立ち姿。品のよい白髪が縁取る、穏やかな顔立ち。
「……まぁ、なんていい香り」
どこか無邪気な響きを秘めた、静かで優しげな声音。
「おばあちゃん、こちらが、この間話した〈喫珈琲カドー〉の角尾さん」
玉寄さんは俺を手で指し示して、老女に紹介する。そして今度は俺の方を向いた。少しはにかみながらも、誇らしげに口にする。
「角尾さん。――祖母のリツコです」
驚きを隠しきれなかった俺は、不自然でない反応を返せていただろうか。予想だにしていなかった。けれど、同名の他人ではない。今、ここにいるのは。
「……どうして、……あぁ、リツコ……っ」
小さく叫ばれた、嬉しそうなハナオの声を聞いたのは、俺だけだ。
目の前に立っていたのは、〝リツコ〟その人だった。
「んー、梅の花の香りがするぅ」
窓際に座ってハナオがくんくんと鼻をヒクつかせている。
「もうそんな時期か?」
「今が満開みたいだよー。この健気な甘い匂いがたまらないねッ」
うっとりと目を閉じたハナオの言動が、若干オヤジくさい。
(梅って、そんな匂いだったか……?)
普段意識してこなかったことが悔やまれる。匂いを感じないことは百も承知だが、俺もそっと嗅いでみた。その瞬間、まるで応えるように窓から風が吹き込む。
「さむっ、ハナオ、閉めるぞ」
どんなに春の陽気が漂っていたって、二月は二月だ。
「えー、ミツってば、情緒ないー」
「うるさい。情緒で腹が膨れるか」
言っていることに意味はない。半分は八つ当たりである。
「僕は膨れるもーん」
ハナオは、窓に腕をのばした俺の脇を軽やかにすり抜ける。
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」
節をつけて歌いながら、ぴょんと小上がりを跳び下りた。今日も着地は完璧だ。
「さすがにまだだぞ。――何だそれ?」
「江戸端唄。お座敷唄だよ」
「……風流なモンだな」
そんな場所、行ったこともない。
「きみもいつか行きたまえ。……柳ャなよなよ風しだ、い……」
俺が小上がりから下りてカウンターへ戻りかけた時、ハナオのご機嫌な唄が尻切れで止まる。
「ハナオ?」
それで終わりか? と顔を覗き込むと、ハナオは困惑したように、その形のいい鼻に指先を当てていた。
「……ミツ、お客さんだ。でも、まさか……」
いつになく不確定な言葉。眉を寄せて、扉の方を見ているハナオの様子が不安をかき立てる。
「まさか、そんなはずは……っ」
扉が開いた。俺はさすがに普段の平静を装えずに凝視してしまう。
「こんにちは、角尾さん」
「……玉寄さん?」
扉を開けて顔を覗かせたのは、玉寄さんだった。彼女は、前回のようにすぐには店内に入ってこなかった。大きく扉を開け放って、誰かを招き入れる。
「さ、おばあちゃん」
玉寄さんが気遣うように声をかける。彼女の背後からゆっくりと現れて店内へと足を踏み入れたのは、小柄な老女。緩やかな動きながら、凛とした雰囲気の立ち姿。品のよい白髪が縁取る、穏やかな顔立ち。
「……まぁ、なんていい香り」
どこか無邪気な響きを秘めた、静かで優しげな声音。
「おばあちゃん、こちらが、この間話した〈喫珈琲カドー〉の角尾さん」
玉寄さんは俺を手で指し示して、老女に紹介する。そして今度は俺の方を向いた。少しはにかみながらも、誇らしげに口にする。
「角尾さん。――祖母のリツコです」
驚きを隠しきれなかった俺は、不自然でない反応を返せていただろうか。予想だにしていなかった。けれど、同名の他人ではない。今、ここにいるのは。
「……どうして、……あぁ、リツコ……っ」
小さく叫ばれた、嬉しそうなハナオの声を聞いたのは、俺だけだ。
目の前に立っていたのは、〝リツコ〟その人だった。
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