スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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9 リツコ(3)

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 リツコさんは毅然きぜんとカウンター席を選んだ。以前、ハナオが「九十年くらい生きている」と言っていたことがある。失礼ながら、当然リツコさんも九十歳近いか、あるいはそれ以上だろう。しかし俺の心配をよそに、リツコさんは玉寄さんに手伝ってもらって、ちょこんと椅子に腰かけた。
「コーヒーを、今用意しますね」
 ひとまずお冷を二人の前に置いて、手短に告げる。
 そうしなければならない事態が起きていた。――ハナオだ。いつもなら状況を見定めて、俺の動きが不自然にならないように指示を出してくれる。そのきめ細やかさは、俺自身ですら気がつかないところにまで及ぶ。それがこの時はなかった。グラスにお冷を注ぎ終わらないうちから、コーヒー豆の種類をまくし立てたのだ。
(待て、ハナオッ)
 とてもついていけない。けれど声に出して止めることはできない。普段なら察してくれるはずの当の本人は、熱に浮かされたように頬を紅潮させて、俺の制止に気づこうともしない。
「待ってね、リツコ。今、最高のコーヒーを淹れてあげる」
 そう呟いたかと思うと、再び豆の種類を言う。俺を気遣ってではない。俺が自分の指示についてきていないことに苛立ってだ。完全に様子がおかしい。普段が可愛らしくすら思えるほどに。
 俺はどうにか不自然でない程度のスピードで、ハナオの指示するコーヒー豆を配合する。傍から見て、俺が急ぐ理由はどこにもないのだ。ハナオに合わせることはできない。
 豆を取り出しながら玉寄さんとリツコさんを窺うと、二人はカウンター脇に置いた卓上ランプを見て話していた。こちらの妙な空気には気づいていないようだ。
 俺は手早くコーヒー豆をグラインダーに放り込んでスイッチを入れる。瞬時に豆を粉砕する音が響いた。
(次は、――?)
 俺に背を向けたハナオがピタリと動きを止めた。
「……ミツ、ごめん」
 急降下した声音は、今度は感情が読めないほど静かだった。
「え?」
 おもわずこぼれた俺の声は粉砕音にかき消される。
「それ、捨てて。やり直す」
 ハナオは再度ゆっくりと指示を出す。平静を取り戻した横顔は、さっきまでの興奮が嘘のようだ。俺の手元を見つめる様子からは、何の感情も読み取れない。
 挽き終わった粉を別の器によけ、さっきとは全く違う種類の豆をグラインダーに入れて、再びスイッチを押す。
 ドリップの時もハナオの指示はいつもどおり無駄がなく丁寧で、的確だった。そこにはすっかり我を取り戻したハナオがいる。
(……いるんだと、思いたい)
 あの豹変ひょうへんぶりには驚いたが、しかし、こうもすぐに落ち着くものなのだろうか。
「お待たせしました。どうぞ」
 コーヒーを注いだカップをソーサーにのせて、二人の前にそれぞれ差しだす。
 最初に反応を示したのは玉寄さんだった。
「角尾さん、このブレンドコーヒー……」
 さすがだ。玉寄さんは〈喫珈琲カドー〉のブレンドが毎回違うことをまだ知らない。けれど味の違いはわかるらしい。今日この場でハナオが指示したブレンドは、〈喫珈琲カドー〉でも初めてのものだ。
 けれど玉寄さんの言葉を遮って、リツコさんの手元でカップとソーサーが鋭い音を立てた。
 リツコさんがはじかれたように顔を上げる。長い歳月を経て深いしわが刻まれ、同時に彼女自身の上品さがにじみ出るその顔は、少し青ざめている。
「あなた、これ……ッ」
 何度か聞いたはずの物静かな口調は消え失せていた。まるでハナオの豹変が乗り移ったかのように、動揺がそのまま声音に出ている。
「このコーヒーを、どこで……!?」
 俺も、そして玉寄さんも、言葉を発することができなかった。彼女がここまで驚愕している理由がわからない。
 しん、と静まり返った店内で、ハナオの声が俺の耳を打った。
「久しぶりだね、リツコ」
 ひどく優しい声。今まで聞いたこともないほどに。少年の高い声音であることに違和感すら覚えるほどだ。この声は、いくつもの時と感情を重ねなければ出せないだろう。それほどに、相手に対する親愛に満ちていた。
(ハナオ――?)
 一体何を意図して、このブレンドを選んだ?
 リツコさんは俺を見たまま、言葉を重ねた。
「あなた、どこでこのコーヒーを習ったの?」
「おばあちゃん。前にも話したけど、角尾さんは、彼のお祖父じい様のお店を手伝っていらっしゃるのよ」
「では、お祖父様は、どなたからコーヒーを教わられたのかしら?」
「えっと、すみません、はっきりとはわからないのですが……、独学だったと聞いています」
 リツコさんの目から力がなくなったように見えた。一瞬、抗うように眉を寄せたが、やがて落胆したように苦笑した。
「……そう。ごめんなさい。変なことを訊いてしまったわね」
 俺はその言葉にもどかしさを感じた。リツコさんは今、何かを隠した。あるいは自身の中に生まれた何かを殺そうとしている。先程、驚きとともにリツコさんの目に宿っていたのは、何かをとらえた希望。では、その何かとは。
(ハナオ)
 あるいは、今はハナオである者の存在。リツコさんにとってその何かは、その者へとつながる糸口だったのかもしれない。けれど、どうしてそんなものを彼女が感じたのか。
 その原因こそが、このブレンドだ。
「リツコ、話してしまいなよ。思ったことを呑み込むなんて、ずいぶんときみらしくない真似をするんだね。――教えてよ、きみはあれから、どう生きてきたの?」
 ハナオがささやいた。慈愛に満ちた声と淡く優しげな微笑み。――この姿が彼女たちには見えない。この声が、彼女たちには聞こえない。
(……いいのか?)
 その言葉を〝翻訳〟しても。話すように促しても。
「リツコさん、今驚かれたのは、このコーヒーの味ですね」
 俺は腹をくくって、リツコさんに声をかけた。今、俺にできるのは。
「――え、えぇ、そうよ」
「さっきお答えした以上のことを、俺には言えません。ですが、何故なのか伺ってもよろしいですか?」
 俺にできるのはここまでだ。ハナオが何らかの形で自分の存在を示した――結果的に、かもしれない。ハナオは、彼にしかできない方法でリツコさんをもてなした。
『今、最高のコーヒーを淹れてあげる』
 この言葉は本心だろう。ブレンドを変えたとはいえ、目的は同じだったはずだ。
 そしてリツコさんは彼女なりにハナオの存在を感じた。だからこそあんな反応をしたのだ。玉寄さんの驚きを見る限り、ハナオの言葉とは裏腹に、リツコさんは普段から表立って感情を出す人ではないはずだ。
(リツコさんにとっても、ハナオは特別な存在だったのか)
 そこまではわかった。けれど俺がハナオの存在を伝えることはできない。俺の隣にいるのは、誰にも見えない透明人間だ。ここまでわかった俺にできることは、リツコさんが自身の中に押し隠してしまおうとしたものを引き出せるように〝翻訳〟することだけだ。
「……このコーヒー、懐かしいわ」
 リツコさんが微笑んだ。どこか観念したような表情を浮かべている。
「コーヒーは、人から本心を引き出させる飲み物なのかもしれない。もう何度思ったことか。……角尾さん、といったわね。この年寄りの昔話に、少しだけ付き合ってもらえるかしら?」
 頷きながら、俺はハナオをそっと窺い見た。隣に立つ少年は微かに笑みを浮かべ、無言でリツコさんを見守っている。
(……何を、考えている?)
 今から話されることは、おそらくハナオの過去の一部でもある。
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