社長の×××

恩田璃星

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偶然の運命 5

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 「私の母親、不倫の末に私を置いて出て行ったんです」

 葵様の言葉に、昔の記憶が交差して、思わず息を飲んだ。

 『あんたとあの女が私のお父さんを奪ったのよ!!』

 似ても似つかないはずなのに、俯いたままの葵様に、凄まじい形相で、一方的に俺を責め立てた義姉の顔が重なりそうになる。

 違う。葵様は 義姉あの女じゃない。

 「…それ、本当?」

絞り出した声が震えているのに気づかれないだろうか。

 「冗談でこんなこと言いません」

 寂しげな口調に、これまでの苦労や孤独が透けて見える。

 俺の生い立ちを聞いたら、好きになってもらうどころか軽蔑されてしまうのではないだろうか。

 とりあえず、話を繋がなくてはと、苦し紛れに会話を続ける。

 「そんな過去があったなんて想像できないくらい真田さんの持つ空気明るかったから」

 「幸い、母がいなくなっても環境にはかなり恵まれてましたから」

 この時の俺は自分を立て直すのに必死で、葵様の言う「かなり恵まれた環境」にまで考えが及ばなかった。





 立ち直りは早い方だ。
 そして、発想の転換力もある方だと思う。

 総務部に戻りたいという葵様の主張を躱しながら、次の策を練る。

 俺の出生の経緯は、どうやったって変えらえない。
 だから、そんなこと関係ないと言ってもらえるくらい好きになってもらうにはどうしたらいい?

 自分では気づいていなかったが、もうこの時点で、『好きになってもらわなければ』という気持ちは、『好きになってもらいたい』という気持ちに完全に変わっていた。

 葵様が退職を持ち出してまで、利加子との不適切な・・・・関係をやめろと言ってきた時、漸く閃いた。

 どうせ正式に社長に就任するまで、利加子との本当の関係を葵様に明かすことができないのなら、それを利用すればいい。

 元々ありもしない利加子との関係をやめる代わりに条件を出すなんて、少々やり方が汚い気もするが、噂を鵜呑みにした葵様にも非があるということで許してもらおう。

 さっきロッカーから一度離した手を、もう一度ゆっくりと着ける。
 絶対に『NO』とは言わせない。


 「社長との関係を止めさせたいなら、俺を誘惑してみて?」






「へ?」


目の前には見開かれた、葵様の大きな瞳。
その下には小さな桜色の唇。
ちょっと驚かせるつもりが、さっき押さえ込んだ、キスしたいという衝動が瞬時に蘇る。


「こんなふうに」


葵様が驚いて抵抗しないのをいいことに、具体的に誘惑方法を示そうと、吸い寄せられるように顔を近づけた。

あと、数センチ。

軽く唇を開いたとき、胸を打ち付ける鼓動に連動して、浅くなった呼吸が、吐息になってそこからフッと漏れた。

その瞬間ー


「無理ですっ!!!」


俺の顔は、小さな手で思い切り押し返された。
細い指の隙間から見える、真っ赤で必死な顔、

これがまたものすごく可愛い。
しかし、そこまで嫌がらなくても…。
こういうのを、可愛さ余って憎さ百倍って言うんだっけ?

引かれるかも、という考えも過ぎったが、我慢できず、唇に触れるている柔らかな掌に吸い付いた。

思ったより大きな音がしたのと同時に、

「ぃひゃぁっ!」

という、何とも色気のない声が秘書課のフロア中に響いた。






掌が取り払われると、トマト並みに赤くなった葵様の顔。

「な、何するんですか!」

「え?俺何かしたかな?」

あまりに色気のない声だったので、本気で気持ち悪がられたかと思ったが、そうではなさそうな表情に、自然に口角が上がる。

「掌にキ、キ、キスっ!」

この吃《ども》り様…。
『キス』という言葉を口にするのが恥ずかしいのだろうか。

中学生じゃあるまいし…まさか、今までまともに恋人がいたことがない?
そんなバカな。

ありえないと思いつつ、その可能性を考えると、笑い出しそうなくらい喜んでいる自分がいる。

「...その反応は計算?本物?」

期待と違った時のダメージを回避するために、遠回しな聞き方をしたせいで、答えに詰まる葵様。
結局、答えを聞く前に昼休みが終わってしまった。

直後、葵様のお腹から、キュルーッと可愛い音。
さっきとは別の種類の羞恥に耐える顔も堪らない。

今日はこのくらいで勘弁してやることにして、昼休憩を促すと、葵様は財布を持ってピュッと秘書課のフロアから出て行った。
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