隠世の門

海谷ノ

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第1話《隠世の門》 「黒いツタの夜」

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◆ 序章──境界のほつれ


──この国には、昔から境界がある。


生きる場所と、

還る場所。



見える世界と、

見えない世界。



かつて人々は、その二つを明確に分けて生きていた。
海の彼方、山の奥、結界の向こう。
そこに広がる世界を、人は隠世かくりよと呼んだ。


隠世かくりよには、
神、精霊、死者の魂、
そして“人ならざるもの”が住む。
現世と交わらぬよう、静かに、淡く。


──本来ならば。


しかし現代は、境界という境界を曖昧にしすぎた。


土地の差も、
時間の差も、
死生の差さえ、

ひとつの平面に押しつぶしてしまうほどに。


夜の光は強すぎ、
人の暮らしは速すぎ、
この世とあの世を分ける“厚み”は薄らぎ続けている。


ほころびに最初に揺れたのは、人ではない。
隠世の住人たちだった。


帰るべき気配が霞み、道が捻れ、
迷子となった存在が、静かに現世へ滲みだす。

彼らを討つのではなく、

“本来の場所へ還すかえす”者たちがいる。



──還し手かえして



人知れず、世界の形を支える影の職能。



その一端に触れるのが、

一人の少年──晴翔はると、十六歳。



まだ何も知らず、何も疑わないその夜から、
世界の境界は静かに形を変えはじめる。

     ◆

◆ 第1話「黒いツタの夜」



夏の終わりの風が流れる夜だった。

家の裏の林を、晴翔は静かに歩いていた。
胸の奥がざわつくとき、森に入ると落ち着く──
そんな性分だった。

落ち葉の沈む音。

虫の声。

風のゆれる梢。


その穏やかな気配の中に、
ひとつだけ“違和”があった。

晴翔は立ち止まり、
胸の奥のざわめきに耳を澄ます。


(……ここ、いつもと違う)


視界の端で黒いものが揺れた。
細い影のようなものが地面から伸びている。

最初は木の根だと思った。
だが、それは生き物のように震えた。

怖いはずなのに、
晴翔の胸は、先に静かに熱を帯びた。


影は晴翔を“見返した”。


視線など持たないはずなのに、
確かに、そこに意思があった。



(帰りたい……?)



声ではない。
けれど確かに、胸に響いた。


影が苦しげに蠢き、


晴翔の足元へ縋るように走り寄る。

触れた瞬間、鋭い痛みが胸を裂いた。



(……行かないで)



それは、影の叫びであると同時に、
晴翔自身の奥底に沈んだ感情でもあった。

次の瞬間。

風が止み、森が黙った。

夜全体が息を飲むように。


ザッ──と地を蹴る音が響く。


晴翔が振り向くより早く、
月明かりを裂いてひとつの影が現れた。


青年だった。


二十代半ば。
夜の現場に慣れた者だけが持つ重心と気配。

彼はポケットから細いタバコを取り出し、
火をつけずに唇へ軽く咥えた。
吸うためでなく、意識を研ぎ澄ませる癖のように。

黒いものを一瞥した瞬間、
瞳が鋭く細まる。


「……まだ暴れてはいないな。」


声は低く穏やかで、しかし冷静。
その底に、抑え込まれた怒りの熱が微かに滲む。


右手で空を撫でるように線を描くと、
首から肩にかけて薄い紋が浮かび上がった。

装置が静かに呼応する。

晴翔は意味がわからない。
ただ、夜の温度が変わったのを感じた。


青年は、晴翔を一秒だけ見た。


敵意でも警戒でもない。

“何かが引っかかった”ときに生まれる、

ごく薄い異質感。


(……お前、何者だ?)


言葉にはしない。
だが視線が確かにそう呟いていた。


晴翔は戸惑うだけだった。


青年はすぐに影へ向き直り、
咥えたタバコを口角に残したまま言った。


「無理するな。……帰りたいんだろ。」


影が震え、
その気配が晴翔の胸に触れる。


青年はその揺れを、
怖がらせず、甘やかしすぎず、

“現場の人間の手つき”で受け止めた。



「――還す」


紋が光り、
空気がたわむ。
影は引かれるように揺れ、形をほどき始めた。

祓いでも討伐でもない。
もっと静かで、もっと優しい何か。

晴翔は息を呑む。

青年は晴翔に背を向けたまま言った。


「ここに立つな。……喰われるぞ。」


脅しではない。
必要な言葉だけを渡す大人の声だった。


(この人……普通じゃない)


晴翔はそう思った。
だが、自分こそ普通ではないと
青年にすでに気づかれていることには気づかずに。

青年の名は──

斗泉とうい

この夜を境に、
二人の足並みは静かに重なっていく。



だが、それを知る者は、まだ誰もいない。
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