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10.5話 影の歩く理由──若代斗泉サイド
しおりを挟む校舎の外周に入った瞬間、空気の密度が変わった。
靄でも霧でもない。
ただ、“境界が浅い”とき特有の、重く冷えた気配が肌を撫でる。
〈第九課へ。
影揺れ値、通常域を逸脱。発生地点は区立第三高校周辺〉
通信が耳の奥で淡く弾けた。
報告を聞くより早く、現場の“揺れ”は伝わってくる。
歩く影が複数。
本来ならあり得ない現象だが、判断は難しくない。
誰かが裂け目を呼んだか、あるいは――“呼ばれてしまった”か。
「……ひとりで十分だ」
短く返すと、胸元の09番バッジがかすかに震えた。
九曜スーツ内部のノードが低く起動音を鳴らす。
直後、足元の影が寄る。
犬神が輪郭だけを浮かべた。
「噛むな。まだだ」
命じると、犬神は不満そうな気配を残して沈黙した。
現場に着く前に暴れられては困る。
校門が見える頃、空気の揺れ方が一段と不自然になる。
人間の影と怪異の影が混じり、どれがどちらのものか曖昧になっていた。
その中心に――ただひとつ、異質な静寂が立っている。
黒髪の少年。
表情は平坦。足元の影の揺れ幅は最小。
それなのに、周囲の怪異は彼へ吸い寄せられるように引き込まれていた。
(……壊れていない?)
影揺れの中心に立ちながら、精神負荷の痕跡がない。
通常の人間なら、とっくに耐えきれない。
だが少年は、ただ静かに息をしている。
(器の強度が、常識外れだな)
そして、もうひとつ。
少年の背後で、空気が冷たく収束する。
白い尾のような気配が、一瞬だけ揺れた。
白狐。
陰陽史の根幹に連なる存在。
だが、あの姓を名乗らぬ者に寄るのは、本来あり得ない。
(……何者だ?)
問いが胸に浮かんだ瞬間、校舎側で強い揺れが跳ねた。
影が本体から離れ、腕と脚の順番を間違えたように歩き始める。
あれが“兆候”の本命だ。裂け目が近い。
犬神が牙を鳴らす。
「まだだ。噛むな」
命じながら、影へ接近する。
影山と呼ばれる生徒の足元で、影は別の意志を持つように暴れていた。
完全に裂け目が開く前に止めるしかない。
ノードが白く点滅する。
式神抑制術と接続し、歪んだ影の軌跡を修復していく。
犬神が飛びかかろうとする気配を押し留めた瞬間、裂け目は深い呼吸のように一度だけ震え――やがて、溶けるように消えた。
(……俺の手柄じゃないな)
修復の速度が早すぎた。
あれは白狐の加護だ。
少年の背にいた“あれ”が、影山を守るように揺れを整えた。
ならば――なぜ、彼なのか。
その疑問だけが、喉の奥に静かに残る。
影山を安全圏へ誘導し、その後ろに立つ黒髪の少年へ視線を向ける。
彼は周囲の異変を理解していない。
それなのに、不安に押し潰される気配もない。
ただ、目の奥に少しだけ、澄んだ諦めを宿している。
(……放っておけば、裂け目に引かれる)
決断は自然だった。
守るためでも、救いたいからでもない。
ただ、**“調べる価値がある”**と直感した。
少年へ歩み寄ると、犬神がシャツの裾を噛んで引き止めた。
珍しい抵抗だった。
「わかってる」
低く告げる。
犬神は恐れているのではない。
“危険と好奇心の境界”を嗅ぎ取っただけだ。
少年の前に立つ。
細く揺れる影、静かな呼吸、残る白狐の気配。
「……君、名前は?」
少年は一拍遅れて顔を上げた。
「……倉橋。倉橋晴翔(くらはし はると)」
胸の奥がかすかに波打つ。
倉橋――九曜の系譜にはない。
なのに、白狐が傍にいる理由が説明できない。
(いい。なら、調べるまでだ)
斗泉は視線を外さずに告げた。
「危険が続く。放っておくと、君はそのうち“向こう側”へ引きずられる」
少年の瞳がわずかに動く。
恐怖ではない。理解しようとする反応だ。
「だから、俺が連れていく。九曜へ。……それが今いちばん安全だ」
犬神が低く唸る。
だが止めはしなかった。
少年は小さく息を吸い、うなずく。
その瞬間、斗泉の影がひどく静かになった。
まるで、長く探していた答えの輪郭に触れたように。
(やはり、“欠片”か)
校舎を抜ける風が白狐の残り香をさらっていく。
斗泉はゆっくりと背を向けた。
「来い。晴翔」
影が二つ、重なるように歩き出した。
──10.5話 了。
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