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二 皇女アガーテについて
キルシュヴァルト邸
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デュランツェ帝都コルンの中心部。帝宮から馬を常歩にさせて十分ほどの距離にある一等地、帝国貴族たちの屋敷が立ち並ぶ貴族街を見下ろす小高い丘の上。周囲を雑木林に取り囲まれた閑静な場所にキルシュヴァルト大公邸はあった。
職人に手入れされた薔薇園。人工の池と白鳥の噴水。東方風の四阿。面積はレンゼル王宮に勝るとも劣らないのでは、というほど浩々とした面積を誇る庭園を擁した豪邸である。
アウローラは、土を良くするミミズを捕まえたし、厩からは馬糞を、鶏小屋からは鶏糞をかき集めたし、土に捕まえたミミズと堆肥を混ぜ込んだ。侍女や庭師たちは、アウローラがミミズ拾いしているのを見るや、目を剥いて叫んだ。
だから、屋敷の主人は、いささか不機嫌そうだ。
「今度は、庭のラズベリーを勝手に収穫して、ジャムにしたと聞いたが」
「勝手にではありません。家令のヨアヒムにしっかり許可を取りましたわ」
主人は執務机の上でやんわり手を組んだ。
「ヨアヒムの許可か。……いや、そういうことではない」
二人が想像したのは、白髪交じりでも背筋のしゃんとした初老男性のことである。少々お節介焼きな所があった。
「だって、観賞用で誰も食べないというではありませんか。もったいないですわ」
「だから、そういうことでは──」
アウローラは彼の言葉を遮ってラズベリージャムパイの陶皿を差し出す。バターがたっぷり練り込まれた生地の上では、窓から射し込む陽光に紅玉色のジャムがつやつやと光って、食べる宝石という表現がまさにふさわしいのである。
「ほら、つべこべ言わず、お召し上がりなさい」
「…………」
彼は口角をやや下げて物言いたげな顔になったが、仕方なさそうな表情へと変わり、そしてフォークを掴むと一切れを口に運んで咀嚼しだす。
「ん、うまい」
「それは、よかったです」
アウローラが微笑んでみせると、彼は「腑に落ちない」と、一言ぼやいた。
ガラスティーポットの中では、茶葉が琥珀の湯の中でゆったりと舞っていた。茶を用意したのは、アウローラお付きの侍女のエリカである。
きっちりとブルネットをシニヨンにまとめた彼女は、とぽとぽ……と小気味よい音を立て、ティーポットから琥珀色の茶を白磁のカップへと注いでいく。たちまち、湯気とともに爽やかな茶葉の匂いが立ち昇った。
アウローラはひとしきり、その香る空気を胸いっぱいに吸い込んで、目を細めた。
「今日の茶葉は、マスカットブレンドかしら?」
「はい。正解ですわ、奥様」
エリカは鼻のきくアウローラに微笑んで、だが容赦なく、続ける。
「さ、大公殿下の正妃となる決心は……いえ、観念はつきましたか、奥様」
その痛烈な一言は、熱々のマスカットティーを音の立たないよう、そろそろと啜りかけていたアウローラの蚤の心臓に、棘となってぐさりと刺さる。
「お断りいたします」
「な、面倒だろう、エリカ」
ティーカップを傾けつつ、呆れたように彼はアウローラを見て、エリカを見た。
「本当でございますわね、大公殿下」
エリカは一礼して執務室を退室していく。二人はそれを見届けると、屋敷の主人の方が話を切り出した。
「このヴァルフリード・キルシュヴァルト。いい加減にきみのことを『正妃』と伯父上に報告したい」
「フィリベルト皇帝陛下に?」
「ああそうだ」
「迷惑です。お断りいたします」
「ああもう! なぜだ! 何が気に食わない!」
ヴァルフリードは、緋髪を両手で軽くかいた。
「おれは側妃などに浮気したりしない」
「そういうことではありません」
「きみだけを愛すると誓っている」
「ですから、そうでもありません」
「待遇もいい。人質としての地位も堅固なものになる」
「ですから、違います」
「……何が、いけない?」
ヴァルフリードの蒼い瞳が、正面からアウローラを見た。雨にずぶ濡れになった、大型犬の仔のような、潤んだ瞳だ。
「そんな目で見つめられても、考えは変わりません」
「木には、登るなよ」
「はい」
慌てて、スカートについていた小さな木の葉をさりげなく手で隠した。
♢
ちょうど一週間前の夜、彼は言った。
──この屋敷は今日から当分過ごす新居だ。
帝都ヨルンでも屈指の豪邸だというキルシュヴァルト大公邸の夫婦用寝室をあてがわれたとき、アウローラはそれはそれは仰天したのだった。
落ち着いた象牙色調の壁紙が使われており、蜜蝋仕上げのパーケットの上には、春の草原のように柔らかな踏み心地の、草花の幾何学紋様が織り込まれた見事な絹絨毯が敷かれている。
部屋の隅には茶革張りの一人掛けソファが二脚と大きな書棚。大人が四人ほどは寝転がれようか、という大きな寝台は、薄いレースと群青の絹織との、二つのカーテンがひかれた天蓋つき。
最高級チークで造られた大きな天板の卓の傍には、帝国東方領産の漆塗りの椅子が据え置かれている。
南向きの大きな薔薇窓には、荘厳な雰囲気の丸いステンドグラスが嵌め込まれており、目を楽しませる。月光が窓ガラスを透かして、虹色の光を床に投げかけていた。
アウローラが窓を開けてバルコニーに出てみると、屋敷の庭園が一望できた。薔薇の甘く香る爽やかな夜風に身体を預けたアウローラの、ミルクティー色の髪がなびく。見上げれば、天上に宝石箱を擲ったかのような満天の星空だった。
「ヴァルフリード・キルシュヴァルト、改めてアウローラ殿下に求婚を申し込みたい」
いつの間にアウローラの指を調べたのか、彼はバルコニーで跪き、ぴったりのダイヤモンドの結婚指輪をアウローラへと差し出した。
「は、はい……」
アウローラは、やたらと手が込んだ結婚詐欺だが、この美しい指輪には罪はないし……と、それを受け取った。
そして彼は緊張をほぐすように溜め息をつく。
「この指輪は、おれの、誠心誠意」
「はあ、誠心誠意、ですか」
アウローラは呆気にとられつつも、彼の言葉を噛みしめるように繰り返した。ダイヤモンドは、天上に輝く星を一個掬い取ったかのごとく白々と煌めいている。これほどの逸品、一体、幾らしたのだろうか。この屋敷の建物くらいは購入できそうな値段には違いない。いや、値段の問題ではないのだ。
「立ち上がってください、殿下。夜風は、冷えますわ。お身体にさわります」
「返事を聞くまでは」
「保留にさせてください。……どうか」
「あ、ああ。そうだな」
彼は、やや肩を落としたようにも見えたが、アウローラにとっては、芸が細かいな、と疑いを強める新たな証拠としかならなかった。
バルコニーから室内に戻った二人は、革張りのソファに腰かけて、話を続けた。いつの間にやら、部屋には淹れたての紅茶のカップがテーブル上に二つ。
「うちの侍女は、紅茶を淹れさせたら、帝国一さ」
彼はぽつりと呟いた。アウローラは首を軽く回してその侍女を探したが、もう寝室内にはいなかった。
「明日、使用人を紹介するよ」
「はい、ありがとうございます」
アウローラと彼はそれきり、会話に困った。理由は明白で、アウローラが指輪を受け取っても曖昧にはぐらかす返事をしたからだった。
「──おれは」
彼が思い切った勢いに口を開く。
「妻になることを強制はしたくはない。きみは以前、『愛妾になりたい』と言っていたが、本当にそれがきみの望みなのか」
それは、アウローラが愛妾でも構わない、むしろ、愛妾の方が正妻にせずとも人質として扱えるから都合がいい、という意味の確認ではないだろうか。そんなもの、体のいい言い訳にすぎない。アウローラは内心で彼に対して苦笑を禁じ得なかった。
「ええ、そうですわ」
彼は小さくうなずいた。
「そうか。……だが、それと人質とのことは、別だ。きみは、おれが逃がすと手紙を送っても、おれの元に戻ってきてしまった。……その意味が、分かるな?」
「はい、承知しております」
「きみは、正式に帝国の人質となった。もう、簡単にはレンゼル領のご両親の元へ帰ることは叶わないだろう」
「それも、承知しておりますわ」
彼は言い終えて、若干疲れたように、息を吐いた。
「今夜は……隣の部屋で休む。閨も、もう、強制はしない。どうか、安心してほしい」
「えっ」
アウローラは彼のその発言に少し驚くことになった。てっきり今晩も、同衾を求められるのではないかと身を固くしていたからだ。だから予想が外れて、アウローラの胸中に安心とは違う感情が湧き起こった。本来であれば、安心であるはずなのだ。それなのに、この複雑な感情は、なんだろう。
「どうした」
彼の声が不審がる響きになった。
「いえ。その……、一緒にお休みにならないのですか」
「長旅で疲れただろう。初夜のときのような無茶はさせないさ。騎士だものな」
彼はそう言ってアウローラの肩に軽く手を置いたが、それもすぐに手を離し、「おやすみ」と言いおいて身をひるがえした。
「……どういうこと」
取り残されたアウローラのこぼした独り言は、しんと静まり返った寝室を満たす、ひんやりとした夜気に溶けて消えてしまった。
「ああ、せっかくの紅茶が冷めてしまった」
と、アウローラは落胆することになった。
──さて、家族をどうしたい?
冷めた紅茶で渇いた口を湿しながら、地下牢での彼の言葉を反芻する。記憶の中の彼は、確かにそう言っていた。あれはどういう意味だったのだろうか。アウローラは、彼のあの言葉を「家族を殺す脅し」だと思い込んでいた。……が、もう一つの意味があるようにも思えるのだ。
純粋な意味で、「アウローラは家族のこれからの待遇をどうしたいか」と。
彼は「家族を殺すつもりは最初からなかった」とも言っていた。それが本当なら。
──自分は彼に閨を強制されたと早とちりして思い込んだだけではないか。
認めたい。でも、認められない。あの状況下で。地下牢に閉じ込められた状況で。脅迫であると受け取らない方が、おかしい。
「どうしよう、私……」
それでも。ヴァルフリードがアウローラを傷つけているのではなく、アウローラがヴァルフリードを傷つけていたのだとしたら?
職人に手入れされた薔薇園。人工の池と白鳥の噴水。東方風の四阿。面積はレンゼル王宮に勝るとも劣らないのでは、というほど浩々とした面積を誇る庭園を擁した豪邸である。
アウローラは、土を良くするミミズを捕まえたし、厩からは馬糞を、鶏小屋からは鶏糞をかき集めたし、土に捕まえたミミズと堆肥を混ぜ込んだ。侍女や庭師たちは、アウローラがミミズ拾いしているのを見るや、目を剥いて叫んだ。
だから、屋敷の主人は、いささか不機嫌そうだ。
「今度は、庭のラズベリーを勝手に収穫して、ジャムにしたと聞いたが」
「勝手にではありません。家令のヨアヒムにしっかり許可を取りましたわ」
主人は執務机の上でやんわり手を組んだ。
「ヨアヒムの許可か。……いや、そういうことではない」
二人が想像したのは、白髪交じりでも背筋のしゃんとした初老男性のことである。少々お節介焼きな所があった。
「だって、観賞用で誰も食べないというではありませんか。もったいないですわ」
「だから、そういうことでは──」
アウローラは彼の言葉を遮ってラズベリージャムパイの陶皿を差し出す。バターがたっぷり練り込まれた生地の上では、窓から射し込む陽光に紅玉色のジャムがつやつやと光って、食べる宝石という表現がまさにふさわしいのである。
「ほら、つべこべ言わず、お召し上がりなさい」
「…………」
彼は口角をやや下げて物言いたげな顔になったが、仕方なさそうな表情へと変わり、そしてフォークを掴むと一切れを口に運んで咀嚼しだす。
「ん、うまい」
「それは、よかったです」
アウローラが微笑んでみせると、彼は「腑に落ちない」と、一言ぼやいた。
ガラスティーポットの中では、茶葉が琥珀の湯の中でゆったりと舞っていた。茶を用意したのは、アウローラお付きの侍女のエリカである。
きっちりとブルネットをシニヨンにまとめた彼女は、とぽとぽ……と小気味よい音を立て、ティーポットから琥珀色の茶を白磁のカップへと注いでいく。たちまち、湯気とともに爽やかな茶葉の匂いが立ち昇った。
アウローラはひとしきり、その香る空気を胸いっぱいに吸い込んで、目を細めた。
「今日の茶葉は、マスカットブレンドかしら?」
「はい。正解ですわ、奥様」
エリカは鼻のきくアウローラに微笑んで、だが容赦なく、続ける。
「さ、大公殿下の正妃となる決心は……いえ、観念はつきましたか、奥様」
その痛烈な一言は、熱々のマスカットティーを音の立たないよう、そろそろと啜りかけていたアウローラの蚤の心臓に、棘となってぐさりと刺さる。
「お断りいたします」
「な、面倒だろう、エリカ」
ティーカップを傾けつつ、呆れたように彼はアウローラを見て、エリカを見た。
「本当でございますわね、大公殿下」
エリカは一礼して執務室を退室していく。二人はそれを見届けると、屋敷の主人の方が話を切り出した。
「このヴァルフリード・キルシュヴァルト。いい加減にきみのことを『正妃』と伯父上に報告したい」
「フィリベルト皇帝陛下に?」
「ああそうだ」
「迷惑です。お断りいたします」
「ああもう! なぜだ! 何が気に食わない!」
ヴァルフリードは、緋髪を両手で軽くかいた。
「おれは側妃などに浮気したりしない」
「そういうことではありません」
「きみだけを愛すると誓っている」
「ですから、そうでもありません」
「待遇もいい。人質としての地位も堅固なものになる」
「ですから、違います」
「……何が、いけない?」
ヴァルフリードの蒼い瞳が、正面からアウローラを見た。雨にずぶ濡れになった、大型犬の仔のような、潤んだ瞳だ。
「そんな目で見つめられても、考えは変わりません」
「木には、登るなよ」
「はい」
慌てて、スカートについていた小さな木の葉をさりげなく手で隠した。
♢
ちょうど一週間前の夜、彼は言った。
──この屋敷は今日から当分過ごす新居だ。
帝都ヨルンでも屈指の豪邸だというキルシュヴァルト大公邸の夫婦用寝室をあてがわれたとき、アウローラはそれはそれは仰天したのだった。
落ち着いた象牙色調の壁紙が使われており、蜜蝋仕上げのパーケットの上には、春の草原のように柔らかな踏み心地の、草花の幾何学紋様が織り込まれた見事な絹絨毯が敷かれている。
部屋の隅には茶革張りの一人掛けソファが二脚と大きな書棚。大人が四人ほどは寝転がれようか、という大きな寝台は、薄いレースと群青の絹織との、二つのカーテンがひかれた天蓋つき。
最高級チークで造られた大きな天板の卓の傍には、帝国東方領産の漆塗りの椅子が据え置かれている。
南向きの大きな薔薇窓には、荘厳な雰囲気の丸いステンドグラスが嵌め込まれており、目を楽しませる。月光が窓ガラスを透かして、虹色の光を床に投げかけていた。
アウローラが窓を開けてバルコニーに出てみると、屋敷の庭園が一望できた。薔薇の甘く香る爽やかな夜風に身体を預けたアウローラの、ミルクティー色の髪がなびく。見上げれば、天上に宝石箱を擲ったかのような満天の星空だった。
「ヴァルフリード・キルシュヴァルト、改めてアウローラ殿下に求婚を申し込みたい」
いつの間にアウローラの指を調べたのか、彼はバルコニーで跪き、ぴったりのダイヤモンドの結婚指輪をアウローラへと差し出した。
「は、はい……」
アウローラは、やたらと手が込んだ結婚詐欺だが、この美しい指輪には罪はないし……と、それを受け取った。
そして彼は緊張をほぐすように溜め息をつく。
「この指輪は、おれの、誠心誠意」
「はあ、誠心誠意、ですか」
アウローラは呆気にとられつつも、彼の言葉を噛みしめるように繰り返した。ダイヤモンドは、天上に輝く星を一個掬い取ったかのごとく白々と煌めいている。これほどの逸品、一体、幾らしたのだろうか。この屋敷の建物くらいは購入できそうな値段には違いない。いや、値段の問題ではないのだ。
「立ち上がってください、殿下。夜風は、冷えますわ。お身体にさわります」
「返事を聞くまでは」
「保留にさせてください。……どうか」
「あ、ああ。そうだな」
彼は、やや肩を落としたようにも見えたが、アウローラにとっては、芸が細かいな、と疑いを強める新たな証拠としかならなかった。
バルコニーから室内に戻った二人は、革張りのソファに腰かけて、話を続けた。いつの間にやら、部屋には淹れたての紅茶のカップがテーブル上に二つ。
「うちの侍女は、紅茶を淹れさせたら、帝国一さ」
彼はぽつりと呟いた。アウローラは首を軽く回してその侍女を探したが、もう寝室内にはいなかった。
「明日、使用人を紹介するよ」
「はい、ありがとうございます」
アウローラと彼はそれきり、会話に困った。理由は明白で、アウローラが指輪を受け取っても曖昧にはぐらかす返事をしたからだった。
「──おれは」
彼が思い切った勢いに口を開く。
「妻になることを強制はしたくはない。きみは以前、『愛妾になりたい』と言っていたが、本当にそれがきみの望みなのか」
それは、アウローラが愛妾でも構わない、むしろ、愛妾の方が正妻にせずとも人質として扱えるから都合がいい、という意味の確認ではないだろうか。そんなもの、体のいい言い訳にすぎない。アウローラは内心で彼に対して苦笑を禁じ得なかった。
「ええ、そうですわ」
彼は小さくうなずいた。
「そうか。……だが、それと人質とのことは、別だ。きみは、おれが逃がすと手紙を送っても、おれの元に戻ってきてしまった。……その意味が、分かるな?」
「はい、承知しております」
「きみは、正式に帝国の人質となった。もう、簡単にはレンゼル領のご両親の元へ帰ることは叶わないだろう」
「それも、承知しておりますわ」
彼は言い終えて、若干疲れたように、息を吐いた。
「今夜は……隣の部屋で休む。閨も、もう、強制はしない。どうか、安心してほしい」
「えっ」
アウローラは彼のその発言に少し驚くことになった。てっきり今晩も、同衾を求められるのではないかと身を固くしていたからだ。だから予想が外れて、アウローラの胸中に安心とは違う感情が湧き起こった。本来であれば、安心であるはずなのだ。それなのに、この複雑な感情は、なんだろう。
「どうした」
彼の声が不審がる響きになった。
「いえ。その……、一緒にお休みにならないのですか」
「長旅で疲れただろう。初夜のときのような無茶はさせないさ。騎士だものな」
彼はそう言ってアウローラの肩に軽く手を置いたが、それもすぐに手を離し、「おやすみ」と言いおいて身をひるがえした。
「……どういうこと」
取り残されたアウローラのこぼした独り言は、しんと静まり返った寝室を満たす、ひんやりとした夜気に溶けて消えてしまった。
「ああ、せっかくの紅茶が冷めてしまった」
と、アウローラは落胆することになった。
──さて、家族をどうしたい?
冷めた紅茶で渇いた口を湿しながら、地下牢での彼の言葉を反芻する。記憶の中の彼は、確かにそう言っていた。あれはどういう意味だったのだろうか。アウローラは、彼のあの言葉を「家族を殺す脅し」だと思い込んでいた。……が、もう一つの意味があるようにも思えるのだ。
純粋な意味で、「アウローラは家族のこれからの待遇をどうしたいか」と。
彼は「家族を殺すつもりは最初からなかった」とも言っていた。それが本当なら。
──自分は彼に閨を強制されたと早とちりして思い込んだだけではないか。
認めたい。でも、認められない。あの状況下で。地下牢に閉じ込められた状況で。脅迫であると受け取らない方が、おかしい。
「どうしよう、私……」
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