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三 皇子イザークについて
やかましい
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その朝は、早くに目が覚めた。まだ肌寒い五時だというのに、大公邸の庭園には人の気配がある。薄群青の空、東にようやく明るみが差している。何かが風を切る、ヒュッ、ヒュッ、という規則的な音が、繰り返し繰り返し耳に届いてくるのだ。
夜着を羽織った姿のままで、アウローラは外に出てみた。梢の陰から、様子をそっと覗いてみる。
「また、やってるわね」
ヴァルフリードが毎朝に日課として行っている鍛錬だ。素振り五百本、それに、懸垂五十回。
一度、ヴァルフリードの愛用している長槍を握らせてもらったことがある。渡された瞬間に、取り落としかけたほどの重量だった。あれを戦場で自在に振り回すというのだから、理解ができない。
寝室の窓から、ひたすら槍の素振りを反復するヴァルフリードの様子をぼんやりと見つめていた。
別に、素肌から滴る汗が陽光を金色に弾いているだとか、厚みのある肩から締まった腰までの、砂時計を半分に割ったような稜線だとかを見ているわけではないのだ。
ただ、ヴァルフリードにとって、あの鍛錬は一日の活動をする上での調律のようなものなのだろう、と勝手に想像していただけだ。
反復行動といえば。
あの晩、あの腰のえげつない捻転を連想しかけてしまい、頬が熱くなった。まだ張り詰めたように冷たい朝の空気が、いっそう沁みる。
(朝から何考えてるのっ)
両頬を手でばしばしと叩く。これでは朝から痴女である。
アウローラは、彼の鍛錬を眺めながら、ある一つの重要なことについて思案に耽っていた。
──皇位継承ゲーム。
あれをフィリベルト帝が出題した意図を考えていた。
まず、はっきりと分かっているのは、三人の出生順。
すなわち、第一位ヴァルフリード、第二位アガーテ、第三位イザークという順番。
次に、フィリベルトの一人娘アガーテ皇女に継承の意思はないこと。
そして、フィリベルト帝は何らかの意図があって、この順番ではないと理由付きで証明しろと言っていること。
最後に、フィリベルト帝は、ヴァルフリードが継承を辞退する廃嫡の意思を応援したいそぶりを見せていること。
どうにも引っかかることが多い。自分はまだ、フィリベルト帝の言う「デュランツェ皇家の闇」とやらについて、片鱗も理解してはいないのでは、と。
我が子を帝位に就けたくない親など、いないはずだ。ヴァルフリードとイザークは、フィリベルト帝にとって弟ジルヴァンの子、つまり甥。圧倒的に実娘アガーテを推していたはず。確かに、アガーテを帝位に就けたいのなら、甥ヴァルフリードの辞退を応援するのに、矛盾はないはずなのだが。
だというのに、やはり、何かが、引っかかる。
(……あ)
アウローラが思案しているうちに、彼がそばに置いてあった桶を頭の上からひっくり返し、ばしゃんと冷水を浴びた。濡れた緋髪から落ちる雫が胸元の隙間へと吸い込まれていく様子まで、克明に見てしまった。
「見られていると、集中が著しく阻害されるのだが」
彼がようやく振り返って、こちらを見た。槍を握るあの手が、あの晩は、まるで楽器を奏でるようにアウローラを弄んでいた。
「や、やかましい。朝餉にしますわよ」
「そうだな」
微笑む彼は、髪を拭いていたタオルを肩にかけ、無造作に桶を掴んで、井戸のそばに桶を置き戻した。
アウローラは侍女から朝食のパンが入った籠を受け取るなり、薔薇園のアーチをくぐった片隅にある外テーブルに着席した。一歩遅れて、彼も席についた。
つやつやのクロワッサンを少しずつ口にしながら、朝食の席での彼を観察する。
彼は、よく食べる。およそ、アウローラの倍は食べる。アウローラがその量を食べようものなら、全て贅肉へと変わってしまいそうなものだが、このヴァルフリードという男に関しては、全てが代謝されてしまうらしい。
「燃費が悪いですわね、ヴァル様」
「まあな」
彼は、厚切りのハムを二枚も挟んだパンに齧りついてから答えた。だが、決して粗野な所作ではなく、行儀作法は厳しく躾けられたのか、洗練していると表現してよい。
「あれだけ動けば、なあ?」
以前も聞いたことのある台詞だ。確か、あの朝だった。散々動いて、散々食べる。それこそ、やかましいこと極まりない。
「というより、ようやく『ヴァル』と愛称で呼んでくれるようになった。何の心変わりだ」
「別に。何も変わってなどいません」
「ならば、変わったのは、おれの方か」
彼がうつむきがちに視線を落とす。
「どういうことです」
アウローラが問えば、彼ははぐらかすように「いや……気にしないでくれ」と、苦笑して首を横に振った。
「そういえば、その胸にかけている首飾りは、鍵ですか」
小さな銀の鍵が、彼の胸元で光っているのだ。今までは、なかったはずだ。
「ああ。引き出しの鍵さ。おれにも、見られたくないものの一つは、ある」
「お。不倫ですか」
はあ、と溜め息をついて、彼は鍵をシャツの襟の奥へと仕舞い直した。
「きみは、そうやって、おれの愛を疑う」
彼は、困ったように眉尻を下げた。妙にしおらしくて、腹が立つ表情である。
「ええ、疑いますとも。……あ、別に不倫することを咎めはしませんよ。私は、愛妾ですから」
「だから、正妻だ」
「どうして、そう言い張るのですか」
「なぜ、きみも言い張る」
「「…………」」
二人で、しばらくの間、黙りこくった。
夜着を羽織った姿のままで、アウローラは外に出てみた。梢の陰から、様子をそっと覗いてみる。
「また、やってるわね」
ヴァルフリードが毎朝に日課として行っている鍛錬だ。素振り五百本、それに、懸垂五十回。
一度、ヴァルフリードの愛用している長槍を握らせてもらったことがある。渡された瞬間に、取り落としかけたほどの重量だった。あれを戦場で自在に振り回すというのだから、理解ができない。
寝室の窓から、ひたすら槍の素振りを反復するヴァルフリードの様子をぼんやりと見つめていた。
別に、素肌から滴る汗が陽光を金色に弾いているだとか、厚みのある肩から締まった腰までの、砂時計を半分に割ったような稜線だとかを見ているわけではないのだ。
ただ、ヴァルフリードにとって、あの鍛錬は一日の活動をする上での調律のようなものなのだろう、と勝手に想像していただけだ。
反復行動といえば。
あの晩、あの腰のえげつない捻転を連想しかけてしまい、頬が熱くなった。まだ張り詰めたように冷たい朝の空気が、いっそう沁みる。
(朝から何考えてるのっ)
両頬を手でばしばしと叩く。これでは朝から痴女である。
アウローラは、彼の鍛錬を眺めながら、ある一つの重要なことについて思案に耽っていた。
──皇位継承ゲーム。
あれをフィリベルト帝が出題した意図を考えていた。
まず、はっきりと分かっているのは、三人の出生順。
すなわち、第一位ヴァルフリード、第二位アガーテ、第三位イザークという順番。
次に、フィリベルトの一人娘アガーテ皇女に継承の意思はないこと。
そして、フィリベルト帝は何らかの意図があって、この順番ではないと理由付きで証明しろと言っていること。
最後に、フィリベルト帝は、ヴァルフリードが継承を辞退する廃嫡の意思を応援したいそぶりを見せていること。
どうにも引っかかることが多い。自分はまだ、フィリベルト帝の言う「デュランツェ皇家の闇」とやらについて、片鱗も理解してはいないのでは、と。
我が子を帝位に就けたくない親など、いないはずだ。ヴァルフリードとイザークは、フィリベルト帝にとって弟ジルヴァンの子、つまり甥。圧倒的に実娘アガーテを推していたはず。確かに、アガーテを帝位に就けたいのなら、甥ヴァルフリードの辞退を応援するのに、矛盾はないはずなのだが。
だというのに、やはり、何かが、引っかかる。
(……あ)
アウローラが思案しているうちに、彼がそばに置いてあった桶を頭の上からひっくり返し、ばしゃんと冷水を浴びた。濡れた緋髪から落ちる雫が胸元の隙間へと吸い込まれていく様子まで、克明に見てしまった。
「見られていると、集中が著しく阻害されるのだが」
彼がようやく振り返って、こちらを見た。槍を握るあの手が、あの晩は、まるで楽器を奏でるようにアウローラを弄んでいた。
「や、やかましい。朝餉にしますわよ」
「そうだな」
微笑む彼は、髪を拭いていたタオルを肩にかけ、無造作に桶を掴んで、井戸のそばに桶を置き戻した。
アウローラは侍女から朝食のパンが入った籠を受け取るなり、薔薇園のアーチをくぐった片隅にある外テーブルに着席した。一歩遅れて、彼も席についた。
つやつやのクロワッサンを少しずつ口にしながら、朝食の席での彼を観察する。
彼は、よく食べる。およそ、アウローラの倍は食べる。アウローラがその量を食べようものなら、全て贅肉へと変わってしまいそうなものだが、このヴァルフリードという男に関しては、全てが代謝されてしまうらしい。
「燃費が悪いですわね、ヴァル様」
「まあな」
彼は、厚切りのハムを二枚も挟んだパンに齧りついてから答えた。だが、決して粗野な所作ではなく、行儀作法は厳しく躾けられたのか、洗練していると表現してよい。
「あれだけ動けば、なあ?」
以前も聞いたことのある台詞だ。確か、あの朝だった。散々動いて、散々食べる。それこそ、やかましいこと極まりない。
「というより、ようやく『ヴァル』と愛称で呼んでくれるようになった。何の心変わりだ」
「別に。何も変わってなどいません」
「ならば、変わったのは、おれの方か」
彼がうつむきがちに視線を落とす。
「どういうことです」
アウローラが問えば、彼ははぐらかすように「いや……気にしないでくれ」と、苦笑して首を横に振った。
「そういえば、その胸にかけている首飾りは、鍵ですか」
小さな銀の鍵が、彼の胸元で光っているのだ。今までは、なかったはずだ。
「ああ。引き出しの鍵さ。おれにも、見られたくないものの一つは、ある」
「お。不倫ですか」
はあ、と溜め息をついて、彼は鍵をシャツの襟の奥へと仕舞い直した。
「きみは、そうやって、おれの愛を疑う」
彼は、困ったように眉尻を下げた。妙にしおらしくて、腹が立つ表情である。
「ええ、疑いますとも。……あ、別に不倫することを咎めはしませんよ。私は、愛妾ですから」
「だから、正妻だ」
「どうして、そう言い張るのですか」
「なぜ、きみも言い張る」
「「…………」」
二人で、しばらくの間、黙りこくった。
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