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三 皇子イザークについて
金か銀か 一
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鐘楼の鐘が十二回、打ち鳴らされた。正午の鐘だ。白亜の尖塔は蒼穹を貫くように巍然と聳え立ち、それはどこか、隣に立つ騎士の姿を思わせた。
否、違うかもしれない。彼は塔という人工の建造物ではない。もっとこう、吹雪の中でもどっしりと根を張る樫の古木のような、そんな形容の方が正しい。
秩序と整然が支配する帝宮という空間。騎士ヴァルフリードはうんざりしたようにぼやいた。
「さて、到着して早々ではあるが、もう、お暇したい……」
帝都コルンの中央に鎮座する帝宮は、東西南北、四つの宮殿から構成される。
現皇帝フィリベルトのおわす居館が〈北ノ宮〉。次に、〈南ノ宮〉が謁見の間や式典の執り行われる大広間などがある迎賓用空間。〈東ノ宮〉には、その他の皇族が住まい、〈西ノ宮〉には住み込みの文官や武官、従者たちの寮がある。貴族待遇である彼らも、由来をたどれば皇族の血を起源にする者が多いのだ。
したがって、今日、アウローラたちが向かう場所は〈南ノ宮〉だ。皇弟ジルヴァンの戴冠に用いられる宝冠に不正があるとの通報。その真偽は皇帝フィリベルトの御前で確かめねばならない。フィリベルト帝からの召喚状があっては、断ることなど、到底不可能なのである。
広大な帝宮の中での移動は意外にも徒歩だ。なんと、皇帝フィリベルト自らが馬車にかかる費用を削減すると言いだしたそうで、臣下を驚かせたという。
「というわけで、諦めなさい、ヴァル様」
ヴァルフリードは黙ったまま、うへえ、という顔になって、居心地の悪さを隠そうともしなかった。豪胆で不敵な騎士が、このときは水やりを怠った食虫植物のように萎れている。
「お父上にお会いなさるのは、久しぶりなのでしょう。お顔くらいきちんとお見せになっては」
「確かにレンゼル遠征以来ではあるがな。……いや、向こうが会いたいとは限らないものさ」
「それでも、です」
アウローラが強調すると、ますますヴァルフリードは居直った。
「少なくとも、ジルヴァン父上が召喚なさったのではない。フィリベルト伯父上だ。なぜだか、伯父上は妾腹のおれをたいそう気にかけてくださるが、それも度が過ぎれば、たいそうな迷惑だ」
アウローラは、近くに控えていた近衛騎士が眉をひそめたのに気づいて、軽く咳払いした。
「よくもまあ、帝宮でそんな無礼な発言をできますわね。首を刎ねられたいのですか」
「そうかもな。城門の前で皆に挨拶して回ることが仕事になりそうだ。いや、首だけでは歩けないから、『回る』という表現は、ちと、おかしいか……」
と、ヴァルフリードがたいして面白くもない冗談を呟いたところで、〈南ノ宮〉の建物前にようやく到着した。衛兵たちが敬礼し、侍従たちは恭しく頭を下げる。
「ヴァルフリード殿下、お待ちしておりました」
出迎えに現れたのは、白髪交じりの老年に差しかかった侍従長だった。やや恰幅のよい身体を曲げて、もう一度礼をした。
「出迎え、大儀である」
「フィリベルト陛下が、謁見の間でお待ちです」
「承知した」
ヴァルフリードが、先ほどまでの気怠い声を一瞬にして引き締めたのに、アウローラは少し驚いた。どうやら、公的な場でしっかりと皇子らしく振舞うことに、彼はやぶさかではないらしい。
「アウローラ、おれのそばを離れるな」
「……はいはい、分かっておりますよ」
ヴァルフリードのその言葉には、単なる心配以上の意味が含まれているように感じられたのだった。
♢
謁見の間は壮麗かつ清澄な空気で満たされていた。大理石の列柱を目でなぞった先の天井には、帝国の象徴である双頭竜が、精緻なモザイクタイルで描かれていた。
玉座に座す現皇帝フィリベルトが、あの晩餐のときと似たような穏やかな面持ちで声をかけた。
「二人とも、そう固くならずともよい」
その一段下に、二人の人物が腰かけている。
一人は、四十代半ばの壮年の男。黒髪を短く揃え、鋭い目つきでこちらを見据えていた。武人の名に恥じぬ威容の持ち主で、胸は厚く、肩幅はがっしりしていて逞しい。次期皇帝ジルヴァン。
もう一人は、二十代になったばかりかと思われる、まだ少年の幼さを面影に残した青年。やはり父親譲りの黒髪で、どこか神経質そうな雰囲気でヴァルフリードを観察している。ヴァルフリードの異母弟イザーク。
「戻ったか、ヴァルフリード」
「ヴァルフリード兄上、お久しゅうございます」
二人の硬質に響く挨拶は、ヴァルフリードとの再会を喜んでいるようには、あまり聞こえなかった。
「よく来た、ヴァルフリード、そして、アウローラ殿下も」
皇帝フィリベルトのあたたかい声があって、アウローラは膝折礼をとった。
「面を上げなさい」
フィリベルト帝の許可で、二人はゆっくりと顔を上げた。
「さて、さっそくではあるが、本題に入ろうか」
フィリベルト帝は侍従に目配せしてみせた。すると、侍従が深紅の絹布に覆われた銀盆を掲げて進み出てくる。
「これが、ジルヴァンの戴冠する宝冠だ」
そして絹布が、取り除かれた。
否、違うかもしれない。彼は塔という人工の建造物ではない。もっとこう、吹雪の中でもどっしりと根を張る樫の古木のような、そんな形容の方が正しい。
秩序と整然が支配する帝宮という空間。騎士ヴァルフリードはうんざりしたようにぼやいた。
「さて、到着して早々ではあるが、もう、お暇したい……」
帝都コルンの中央に鎮座する帝宮は、東西南北、四つの宮殿から構成される。
現皇帝フィリベルトのおわす居館が〈北ノ宮〉。次に、〈南ノ宮〉が謁見の間や式典の執り行われる大広間などがある迎賓用空間。〈東ノ宮〉には、その他の皇族が住まい、〈西ノ宮〉には住み込みの文官や武官、従者たちの寮がある。貴族待遇である彼らも、由来をたどれば皇族の血を起源にする者が多いのだ。
したがって、今日、アウローラたちが向かう場所は〈南ノ宮〉だ。皇弟ジルヴァンの戴冠に用いられる宝冠に不正があるとの通報。その真偽は皇帝フィリベルトの御前で確かめねばならない。フィリベルト帝からの召喚状があっては、断ることなど、到底不可能なのである。
広大な帝宮の中での移動は意外にも徒歩だ。なんと、皇帝フィリベルト自らが馬車にかかる費用を削減すると言いだしたそうで、臣下を驚かせたという。
「というわけで、諦めなさい、ヴァル様」
ヴァルフリードは黙ったまま、うへえ、という顔になって、居心地の悪さを隠そうともしなかった。豪胆で不敵な騎士が、このときは水やりを怠った食虫植物のように萎れている。
「お父上にお会いなさるのは、久しぶりなのでしょう。お顔くらいきちんとお見せになっては」
「確かにレンゼル遠征以来ではあるがな。……いや、向こうが会いたいとは限らないものさ」
「それでも、です」
アウローラが強調すると、ますますヴァルフリードは居直った。
「少なくとも、ジルヴァン父上が召喚なさったのではない。フィリベルト伯父上だ。なぜだか、伯父上は妾腹のおれをたいそう気にかけてくださるが、それも度が過ぎれば、たいそうな迷惑だ」
アウローラは、近くに控えていた近衛騎士が眉をひそめたのに気づいて、軽く咳払いした。
「よくもまあ、帝宮でそんな無礼な発言をできますわね。首を刎ねられたいのですか」
「そうかもな。城門の前で皆に挨拶して回ることが仕事になりそうだ。いや、首だけでは歩けないから、『回る』という表現は、ちと、おかしいか……」
と、ヴァルフリードがたいして面白くもない冗談を呟いたところで、〈南ノ宮〉の建物前にようやく到着した。衛兵たちが敬礼し、侍従たちは恭しく頭を下げる。
「ヴァルフリード殿下、お待ちしておりました」
出迎えに現れたのは、白髪交じりの老年に差しかかった侍従長だった。やや恰幅のよい身体を曲げて、もう一度礼をした。
「出迎え、大儀である」
「フィリベルト陛下が、謁見の間でお待ちです」
「承知した」
ヴァルフリードが、先ほどまでの気怠い声を一瞬にして引き締めたのに、アウローラは少し驚いた。どうやら、公的な場でしっかりと皇子らしく振舞うことに、彼はやぶさかではないらしい。
「アウローラ、おれのそばを離れるな」
「……はいはい、分かっておりますよ」
ヴァルフリードのその言葉には、単なる心配以上の意味が含まれているように感じられたのだった。
♢
謁見の間は壮麗かつ清澄な空気で満たされていた。大理石の列柱を目でなぞった先の天井には、帝国の象徴である双頭竜が、精緻なモザイクタイルで描かれていた。
玉座に座す現皇帝フィリベルトが、あの晩餐のときと似たような穏やかな面持ちで声をかけた。
「二人とも、そう固くならずともよい」
その一段下に、二人の人物が腰かけている。
一人は、四十代半ばの壮年の男。黒髪を短く揃え、鋭い目つきでこちらを見据えていた。武人の名に恥じぬ威容の持ち主で、胸は厚く、肩幅はがっしりしていて逞しい。次期皇帝ジルヴァン。
もう一人は、二十代になったばかりかと思われる、まだ少年の幼さを面影に残した青年。やはり父親譲りの黒髪で、どこか神経質そうな雰囲気でヴァルフリードを観察している。ヴァルフリードの異母弟イザーク。
「戻ったか、ヴァルフリード」
「ヴァルフリード兄上、お久しゅうございます」
二人の硬質に響く挨拶は、ヴァルフリードとの再会を喜んでいるようには、あまり聞こえなかった。
「よく来た、ヴァルフリード、そして、アウローラ殿下も」
皇帝フィリベルトのあたたかい声があって、アウローラは膝折礼をとった。
「面を上げなさい」
フィリベルト帝の許可で、二人はゆっくりと顔を上げた。
「さて、さっそくではあるが、本題に入ろうか」
フィリベルト帝は侍従に目配せしてみせた。すると、侍従が深紅の絹布に覆われた銀盆を掲げて進み出てくる。
「これが、ジルヴァンの戴冠する宝冠だ」
そして絹布が、取り除かれた。
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