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16.偶然 三
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僕は、この人の名前を知らない。この人が何者なのか知らない。
何も知らないままでいさせてくれる。
どれだけ触れてもなお遠く、決して近づくことがない。その優しさが僕に偶然を重ねさせる。
会うほどに遠いことを知る。何も知らないことを知る。
それが僕を安心させる。
僕を誘う静かな波は、音もなく闇にさらって僕を沈めていく。
深く、暗い水底に僕を連れて行ってくれる。
僕は息ができなくなる。僕は何も考えられなくなる。
僕はどこにも存在しなくなる。
駅前のベンチに座り、ひとり静かに心の底へ沈むのは怖かった。底の更に奥からは僕を否定する声が響く。あの声は、怖い。
消えてしまえばいいのに。
あなたはいらない。
今日、その声を確かに聞いた。僕を否定する目を確かに見た。
どうして……。
「痛っ……」
晴久は声に出しかけて、慌てて口を手で塞いだ。仕事中に車椅子の下敷きになったつま先が、わずかに触れられただけで痛む。
さすがに骨折はしていないだろうが、内出血と腫れが酷くなってきていた。歩いて違和感があったのだから当然ではある。
偶然の事故だ。わざとではない。そう思いたいが何かがおかしい。
でも、これは僕の問題だ。だから気にしないで欲しい。見ないで欲しい。
男は何も訊かない。何も言わない。
「痛っ……痛っ……」
触れる手は傷を癒すように優しく、だが、晴久に痛みを決して忘れさせてはくれない。それが落合に対する疑念を強くさせていく。
晴久は思わず男の手を払いのけたが、その手首はつかまれ、そのままもつれるように暗い水の底に沈んでいった。
仮眠にもならないほどにまどろんでから、夜明け前のひんやりとした風の中を歩くと、意識だけははっきりしてきた。
つま先の怪我のことは結局訊かれなかった。晴久が怪我の理由を言わなくても、男が怒ることはもちろんない。
そんな関係だ。それでいい。
つま先が更に痛む。散々触られたせいだ。
僕、マゾだったのかな……。
くだらない。
無理にでも笑ったら余計に足が痛んだ。でも、心は少し軽くなった。
「広瀬さん、こっちの記録のことでお聞きしたいんですが……」
川島は、相変わらず晴久に何かと話しかけてくる。仕事中だから当然仕事の話だが、それを他の職員が遠巻きに見ている。落合も見ている。
落合の視線が日に日に険しくなっていくのを晴久は感じていた。
確実にストーカー扱いされている。そもそもやっていないのに無実をわかってもらうのは無理だ。まさに悪魔の証明だ。
どうしてこうなったのか。
晴久には、いくら考えてもわからなかった。
仕事帰りに駅前のベンチで静かに自分の意識を沈めていく。心を落ち着けるために。明日を迎えるために。
ここ数日、それができない。
落合のことがどうしても引っかかる。
いくら意識を深く水底に落とそうとしても、今日の自分を消すことができない。
駅前を歩く人の流れをぼんやりと見ながら「透明人間」とつぶやいてみる。
子供の頃は、自分が透明人間でいいのだと思い込むようにしていた。透明人間を受け入れてしまえば、もう何も悩まず楽になれたからだ。
今は、違う。
自分が存在しないと思いたいのは一瞬だけだ。気持ちをリセットするためだ。楽になるためではなく、もっと頑張るためだ。
あの人に会うのも、現実逃避で自分を消したいからではない。よくわからないけれど、会うと自分は大丈夫だと思えてくる。なんとなく心が軽くなる。まだ頑張れる気がしてくる。
オトモダチって、みんなそんなものなのか?
僕の距離感で普通の友達になれる人なんていないだろう。
星の友情。
あの人の言うとおり、幻想だ。
でも、あの人の言うオトモダチは僕の理想に近い気もする。……よくわからない。
もう帰ろう。
僕は、別にここであの人を待っているわけではない。
晴久はひとり立ち上がるとベンチを後にした。
「あれ? 落合君?」
大通りから少し外れた住宅街の暗い道路脇に、落合が立っていた。駅にほど近く、晴久が帰るアパートはここからまだかなり先だ。
いつも通る道の途中に住んでいたのか。
つい先ほどまで落合のことを考えていた晴久は、憂鬱になった。
なんでこんな所でまた会わなければならないのか。
今日はお互い日勤で、晴久が駅に短時間寄ってからの帰路であることを考えると中途半端な時間だ。退勤後に遊んでいても真っ直ぐ帰っても、今ここで会うのは不自然な気がした。
落合は晴久には気づいていないようだ。落合の様子がおかしい。隠れるように、何かを見ている。
視線の先はアパート上階の窓か。
「落合……君?」
振り向いた落合は、明らかに動揺していた。
「なんでここにいるんすか!」
「ここって……」
落合の見ていた窓に明かりがつき、カーテンを引く人影が見えた。
「……川島さん?」
今日は早番勤務で落合よりは先に退勤していたはずだ。
「今、帰ってきたところで……遅いから心配で……」
心配で見張っていたというのか? 一緒に出かけて戻った後、部屋に無事着いたのを確認していた? 始めからここで帰りを待ち続けていた?
晴久は睨み続ける落合から視線を逸らすと、そのまま歩き出した。
僕には関係のないことだ。僕が話すことなんて何もないはずだ。
落合が何か言った気もするが、晴久は振り返らなかった。
何も知らないままでいさせてくれる。
どれだけ触れてもなお遠く、決して近づくことがない。その優しさが僕に偶然を重ねさせる。
会うほどに遠いことを知る。何も知らないことを知る。
それが僕を安心させる。
僕を誘う静かな波は、音もなく闇にさらって僕を沈めていく。
深く、暗い水底に僕を連れて行ってくれる。
僕は息ができなくなる。僕は何も考えられなくなる。
僕はどこにも存在しなくなる。
駅前のベンチに座り、ひとり静かに心の底へ沈むのは怖かった。底の更に奥からは僕を否定する声が響く。あの声は、怖い。
消えてしまえばいいのに。
あなたはいらない。
今日、その声を確かに聞いた。僕を否定する目を確かに見た。
どうして……。
「痛っ……」
晴久は声に出しかけて、慌てて口を手で塞いだ。仕事中に車椅子の下敷きになったつま先が、わずかに触れられただけで痛む。
さすがに骨折はしていないだろうが、内出血と腫れが酷くなってきていた。歩いて違和感があったのだから当然ではある。
偶然の事故だ。わざとではない。そう思いたいが何かがおかしい。
でも、これは僕の問題だ。だから気にしないで欲しい。見ないで欲しい。
男は何も訊かない。何も言わない。
「痛っ……痛っ……」
触れる手は傷を癒すように優しく、だが、晴久に痛みを決して忘れさせてはくれない。それが落合に対する疑念を強くさせていく。
晴久は思わず男の手を払いのけたが、その手首はつかまれ、そのままもつれるように暗い水の底に沈んでいった。
仮眠にもならないほどにまどろんでから、夜明け前のひんやりとした風の中を歩くと、意識だけははっきりしてきた。
つま先の怪我のことは結局訊かれなかった。晴久が怪我の理由を言わなくても、男が怒ることはもちろんない。
そんな関係だ。それでいい。
つま先が更に痛む。散々触られたせいだ。
僕、マゾだったのかな……。
くだらない。
無理にでも笑ったら余計に足が痛んだ。でも、心は少し軽くなった。
「広瀬さん、こっちの記録のことでお聞きしたいんですが……」
川島は、相変わらず晴久に何かと話しかけてくる。仕事中だから当然仕事の話だが、それを他の職員が遠巻きに見ている。落合も見ている。
落合の視線が日に日に険しくなっていくのを晴久は感じていた。
確実にストーカー扱いされている。そもそもやっていないのに無実をわかってもらうのは無理だ。まさに悪魔の証明だ。
どうしてこうなったのか。
晴久には、いくら考えてもわからなかった。
仕事帰りに駅前のベンチで静かに自分の意識を沈めていく。心を落ち着けるために。明日を迎えるために。
ここ数日、それができない。
落合のことがどうしても引っかかる。
いくら意識を深く水底に落とそうとしても、今日の自分を消すことができない。
駅前を歩く人の流れをぼんやりと見ながら「透明人間」とつぶやいてみる。
子供の頃は、自分が透明人間でいいのだと思い込むようにしていた。透明人間を受け入れてしまえば、もう何も悩まず楽になれたからだ。
今は、違う。
自分が存在しないと思いたいのは一瞬だけだ。気持ちをリセットするためだ。楽になるためではなく、もっと頑張るためだ。
あの人に会うのも、現実逃避で自分を消したいからではない。よくわからないけれど、会うと自分は大丈夫だと思えてくる。なんとなく心が軽くなる。まだ頑張れる気がしてくる。
オトモダチって、みんなそんなものなのか?
僕の距離感で普通の友達になれる人なんていないだろう。
星の友情。
あの人の言うとおり、幻想だ。
でも、あの人の言うオトモダチは僕の理想に近い気もする。……よくわからない。
もう帰ろう。
僕は、別にここであの人を待っているわけではない。
晴久はひとり立ち上がるとベンチを後にした。
「あれ? 落合君?」
大通りから少し外れた住宅街の暗い道路脇に、落合が立っていた。駅にほど近く、晴久が帰るアパートはここからまだかなり先だ。
いつも通る道の途中に住んでいたのか。
つい先ほどまで落合のことを考えていた晴久は、憂鬱になった。
なんでこんな所でまた会わなければならないのか。
今日はお互い日勤で、晴久が駅に短時間寄ってからの帰路であることを考えると中途半端な時間だ。退勤後に遊んでいても真っ直ぐ帰っても、今ここで会うのは不自然な気がした。
落合は晴久には気づいていないようだ。落合の様子がおかしい。隠れるように、何かを見ている。
視線の先はアパート上階の窓か。
「落合……君?」
振り向いた落合は、明らかに動揺していた。
「なんでここにいるんすか!」
「ここって……」
落合の見ていた窓に明かりがつき、カーテンを引く人影が見えた。
「……川島さん?」
今日は早番勤務で落合よりは先に退勤していたはずだ。
「今、帰ってきたところで……遅いから心配で……」
心配で見張っていたというのか? 一緒に出かけて戻った後、部屋に無事着いたのを確認していた? 始めからここで帰りを待ち続けていた?
晴久は睨み続ける落合から視線を逸らすと、そのまま歩き出した。
僕には関係のないことだ。僕が話すことなんて何もないはずだ。
落合が何か言った気もするが、晴久は振り返らなかった。
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