境界のクオリア

山碕田鶴

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22.傷痕 二

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 動揺も、怒りも、鬱陶しさも、何も感じない。
   僕は、どこにも存在しない。
 静かに深く意識を沈めていく。
   誰も僕を気にかけない。
 静かな水底。その先に見えるものを見てはいけない。

「消えてしまえばいいのに」

 はっとして、晴久はベンチから立ち上がった。
 駅前の喧騒が全身に流れ込んでくる。
 ここに来てからまだあまり経っていないはずだが、晴久は長く居過ぎたような気がして理由もなく焦った。
 山本の一件。帰り際の川島の言葉。なおも笑顔でいる自分。
 自分は今どうなっている?
 晴久はベンチを離れると、後ろの植込みの更に後方の欄干にもたれかかった。
 今日はもう沈んでいくのが怖い。沈んだまま戻れなくなりそうな自分が怖い。
 晴久はペデストリアンデッキ下を通る車道を眺めた。闇の奥へ続く直線を流れる光の粒が、夜空までつながっているようで綺麗だった。
   天上の星。遠くて見えない星。それでも引き合う運命の星。
 僕は出会わなければいけない。いつか。必ずだ。
 欄干の手すりに両手を掛け、そっと背伸びをする。深呼吸すると徐々に心が静かになっていくのがわかった。
 沈んでいる場合じゃない。大丈夫。僕は、大丈夫。

「おい」

 突然、右手首をつかまれた。緊張で息が止まりそうになる。つかむ力が強過ぎて、手すりから手を離せない。

「うわっ。あ……」
「今日は、ここなのか?」

 男がすぐ横にいた。晴久を責めるような口調が少し怖い。何か物凄い勘違いをされている気がする。

「え……と。何でもないです、別に大丈夫ですから」
「そうか?」
「平気なんです」
「そうか」
「あの、本当に大丈夫ですから」

 顔を覗き込むようにして訊かれ、晴久はとっさに目を逸らす。やっと静かになった心にさわさわと波が立っていくのがわかった。
 いつもなら、こんなふうに訊いてきたりはしない。こんなふうに責めるような言い方はしない。
 男は無表情だが、どこか焦っている感じがする。
   心配されている?  なんで?

「傷……」

 男が晴久の手の甲を見ながら言った。

「あっ、これも何でもないです」

 晴久が左手で傷を隠そうとしたが、その甲にも同じように引っ掻き傷がはっきりと残っていた。
 男は晴久の手首をつかんだまま、もう一方の手でそっと傷をなぞるように触れてきた。
 痛いっ。
 晴久は声に出さず叫んでいた。傷口ではない。胸の奥が、息もできないほどに痛かった。

「離して下さい。僕、もう帰りますから」

 晴久は、男が自分の境界を踏み越えて迫って来るようで怖くなった。
 男は手を離さなかった。手首をつかんだまま晴久の隣に体を寄せて立つと、何も言わずにデッキ下の車道を見つめた。男が何を考えているのか、晴久には全くわからなかった。
 強引なまでに引き止められた晴久は、仕方なく車道が伸びる先をしばらく見ていた。

「……近いから怖いか?」
「近くなくても怖いです」

 静かに訊く男に、晴久は苛立ちを隠さず答えた。

「手……離して下さい」
「今離したら、もう戻って来ないだろう」
「戻るって……僕がどこに戻るんですか?」
「……そうだったな」

 男は薄く笑っただけで、手を離そうとはしなかった。

「僕はここから飛び降りる気なんかありませんから」
「わかっている」

 わかっているならなぜ離してくれないのか。
   男は晴久の隣で、黙って車道を見続けている。晴久が男の手を逃れようとするたびに、更に強く手首を握られ力で押さえ込まれてしまう。
 晴久の苛立ちが、堰を切ったように溢れ出した。

「……ここからじゃ、多分無理です。高さが、足りない」
「何を言っている?」

 男は驚いたように晴久を見た。
 それ以上言うな。晴久は自分に叫んでいた。言って何が変わる?  何がしたい?  やめておけ。
 だが、晴久は自分を止められなかった。

「小学生の頃、卒業の少し前、住んでいた二階のアパートの窓から僕は落と……落ちました。でも、古くて手入れもされていないところで、生垣も、じめじめした地面も、荒れて草だらけで体も小さかったから……ただ怖かっただけで……。その時に、自分では絶対飛び降りないって決めたんです。だからそれだけはやってない。絶対にやらない」

 男は無表情のまま晴久の首や手首を見つめていた。

「何年も痕が残るようなことはありませんよ。手首は、元々キレイです。今の体にはどこにも傷痕なんかない。知っていますよね」
「……」
「僕は自分の核心をあっさり見せたわけじゃない。前に言いましたよね。見ず知らずの他人だからといって何でも話すなって。僕だって、何でも話したわけじゃない」

 男は圧倒されたように晴久を見ていた。晴久はその目を強く見返した。自分から男を拒絶するのは初めてだった。

   ああ、この人はすごく繊細なんだ。

 晴久はすぐに男から目を逸らした。男の心の内を覗いてしまったような罪悪感が晴久を冷静にさせた。

「……大丈夫ですよ。僕はもう絶対消えたりしない。消えようなんて思わない。明日を消さないために、そのために毎日ここに来ているから。僕には絶対出会わなければいけない人がいるから。だから……手、離して下さい」

 晴久はうつむいたまま言った。男の顔をまともに見られなかった。
 男は静かに手を離すと晴久の耳元にわずかに顔を寄せ、それからすぐに背を向けて雑踏の中に消えて行った。

「気をつけて帰りなさい」

 晴久を引き止めた男が、晴久を残して去っていく。
 置いていかれる。捨てられる……。

   いらない。あなたはいらない。

 過去にどれほど繰り返し聞いたかわからない声が、また僕を突き放す。
 今さら泣ける感情も涙も残ってはいない。
 ただ胸が痛い。自分が内側から崩れていくような静けさ。僕はこんなにもろかったか?
 たぶん、僕はあの人に近づき過ぎていたのだ。
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