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28.慈雨 五
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「あれ? めっずらしーですねえ。店長がギター持っていますよ。ササイさんと直で会うの久しぶりだからかな」
憲次郎がステージの方を見ながら嬉しそうに言った。明美も石崎を見る。
「弾くの……ササイさん?」
晴久が振り向くと、店長が石崎にギターを渡していた。笑顔で話しながらストラップを首に通した石崎が、真顔になり、一瞬晴久を見た。
まっすぐ強い視線が晴久を捉える。
はっと息を呑んだ晴久は、うつむく石崎を見つめたまま動けなくなった。
誰?
晴久が偶然の出会いを重ねた石崎は、そこにはいなかった。晴久を「君」と呼ぶ表の顔でもない。
晴久が全く知らない別の男だ。
静かに弦をはじく音と、続く静寂。
石崎の左手がわずかに滑るように動く。
キュィッ……
明美も憲次郎も、ただ黙って見つめていた。
ササイシン。明美たちがそう呼ぶ男に晴久は初めて出会った。
水面の波紋が静かに水に染みていくように、晴久は自分の内に広がる音を聴いた。
これ……!
時計台の曲だ。
胸のあたりがチクチクした。
見上げる時計台。
雑踏に響くオルゴールの音。
キラキラと回るからくり人形。
幾度となく聴いた曲は、その光景を伴って鮮やかによみがえる。
ただし、記憶の中の感情はもう過去に消えている。曲を思い出して心が動くのは、今の自分だ。
ギターの音色のせいか、別の曲のようにも聴こえる。
悲しくて、でも力強い……。
石崎がただそこに立ってギターを弾いているだけで、フロアの空気が変わった。
余韻の静寂を破ろうとする者はいなかった。
短い曲を弾き終えた石崎は、顔を上げてまた晴久を見た。
「いやあ、嬉しいねえ。贅沢だねえ。ササイ君、ありがとう。今の、なんて曲だい?」
拍手をしながら訊く店長に、石崎は晴久を見つめたまま言った。
「営業妨害の曲、です」
石崎は少し笑っていた。時計台の曲を聴くたびに「帰りなさい」と言われている気分になったという晴久の話を覚えていたのだ。
ああ、そうか。あれは「帰れ」ではなかったんだ。
晴久は、色褪せた過去の記憶の中にいる自分の隣に立って時計台を見上げていた。
ここに留まるな
進め
歩き出せ
応援とは違う。自分で自分に言い聞かせるような、消えてしまいそうな自分が最後まで消したくなかったあの頃の気持ちそのものだったのだ……。
「やだっ、なに泣いているの!?」
明美に言われて晴久は我に返った。
「な、泣いていません」
晴久は慌てて目をこすった。
「嫌なことを思い出させたか?」
晴久の前に来ていた石崎が静かに訊く。店長はギターを持って既にフロアから出ていた。
「いえ、違うんです。あの営業妨害の曲って、『帰れ』じゃなかったんだと思って。ギターの音だったからでしょうか。凄く悲しい感じなんですけど、でも『進め。歩き出せ』って自分に言い聞かせるような曲だったのかもって思ったら……」
石崎が弾くから、そう聴こえたのかもしれない。
「……そうか」
応じた声は優しかった。
同じだ。時計台の曲と同じ、遠くから包むように、ずっと優しい。
なんだろう。緊張する。心臓が痛い。
ここにいるのは、ササイという知らない人だ。でも、やっぱり石崎さんだ。
「……あの、でも石崎さん、その曲知っていたんですか?」
「あのモールなら行ったことがある」
「……そうだったんですか」
「用事は済んだ。遅くなったな」
営業妨害の曲ってなぁにと明美が訊くのは無視して、石崎は帰り支度を始めた。
この人は何者なんだろう。
周りの人がこの人を尊敬しているのは見ていてわかる。僕だって演奏を聴いて泣いたのは初めてだ。
そもそも聴いただけの曲を弾けてしまうって、凄いことではないのか。素人の僕にはわからないし、プロとかそういう人なのかも僕にはさっぱりわからないけれど。
僕はこの人を全然知らない。でも、知ったらもっと遠くなってしまう気がする。
これ以上近づいてはいけない。境界線は、きっと目の前にある。
憲次郎がステージの方を見ながら嬉しそうに言った。明美も石崎を見る。
「弾くの……ササイさん?」
晴久が振り向くと、店長が石崎にギターを渡していた。笑顔で話しながらストラップを首に通した石崎が、真顔になり、一瞬晴久を見た。
まっすぐ強い視線が晴久を捉える。
はっと息を呑んだ晴久は、うつむく石崎を見つめたまま動けなくなった。
誰?
晴久が偶然の出会いを重ねた石崎は、そこにはいなかった。晴久を「君」と呼ぶ表の顔でもない。
晴久が全く知らない別の男だ。
静かに弦をはじく音と、続く静寂。
石崎の左手がわずかに滑るように動く。
キュィッ……
明美も憲次郎も、ただ黙って見つめていた。
ササイシン。明美たちがそう呼ぶ男に晴久は初めて出会った。
水面の波紋が静かに水に染みていくように、晴久は自分の内に広がる音を聴いた。
これ……!
時計台の曲だ。
胸のあたりがチクチクした。
見上げる時計台。
雑踏に響くオルゴールの音。
キラキラと回るからくり人形。
幾度となく聴いた曲は、その光景を伴って鮮やかによみがえる。
ただし、記憶の中の感情はもう過去に消えている。曲を思い出して心が動くのは、今の自分だ。
ギターの音色のせいか、別の曲のようにも聴こえる。
悲しくて、でも力強い……。
石崎がただそこに立ってギターを弾いているだけで、フロアの空気が変わった。
余韻の静寂を破ろうとする者はいなかった。
短い曲を弾き終えた石崎は、顔を上げてまた晴久を見た。
「いやあ、嬉しいねえ。贅沢だねえ。ササイ君、ありがとう。今の、なんて曲だい?」
拍手をしながら訊く店長に、石崎は晴久を見つめたまま言った。
「営業妨害の曲、です」
石崎は少し笑っていた。時計台の曲を聴くたびに「帰りなさい」と言われている気分になったという晴久の話を覚えていたのだ。
ああ、そうか。あれは「帰れ」ではなかったんだ。
晴久は、色褪せた過去の記憶の中にいる自分の隣に立って時計台を見上げていた。
ここに留まるな
進め
歩き出せ
応援とは違う。自分で自分に言い聞かせるような、消えてしまいそうな自分が最後まで消したくなかったあの頃の気持ちそのものだったのだ……。
「やだっ、なに泣いているの!?」
明美に言われて晴久は我に返った。
「な、泣いていません」
晴久は慌てて目をこすった。
「嫌なことを思い出させたか?」
晴久の前に来ていた石崎が静かに訊く。店長はギターを持って既にフロアから出ていた。
「いえ、違うんです。あの営業妨害の曲って、『帰れ』じゃなかったんだと思って。ギターの音だったからでしょうか。凄く悲しい感じなんですけど、でも『進め。歩き出せ』って自分に言い聞かせるような曲だったのかもって思ったら……」
石崎が弾くから、そう聴こえたのかもしれない。
「……そうか」
応じた声は優しかった。
同じだ。時計台の曲と同じ、遠くから包むように、ずっと優しい。
なんだろう。緊張する。心臓が痛い。
ここにいるのは、ササイという知らない人だ。でも、やっぱり石崎さんだ。
「……あの、でも石崎さん、その曲知っていたんですか?」
「あのモールなら行ったことがある」
「……そうだったんですか」
「用事は済んだ。遅くなったな」
営業妨害の曲ってなぁにと明美が訊くのは無視して、石崎は帰り支度を始めた。
この人は何者なんだろう。
周りの人がこの人を尊敬しているのは見ていてわかる。僕だって演奏を聴いて泣いたのは初めてだ。
そもそも聴いただけの曲を弾けてしまうって、凄いことではないのか。素人の僕にはわからないし、プロとかそういう人なのかも僕にはさっぱりわからないけれど。
僕はこの人を全然知らない。でも、知ったらもっと遠くなってしまう気がする。
これ以上近づいてはいけない。境界線は、きっと目の前にある。
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