境界のクオリア

山碕田鶴

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29.慈雨 六

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 明美たちと共に店を出る直前、受付に店長が姿を見せた。

「ササイ君申し訳ない。ちょっとだけ、いい?」

 石崎が呼ばれる。石崎は晴久を見た。

「ぜんっぜん構いませんよぉ。アタシたち、外で遊んでるからごゆっくりどうぞー。ササイさん、また仲間はずれだけどね」

 明美が気遣いなのかイジワルなのかわからない言い方で晴久の袖を引っ張った。

「店長、ササイさん大好きですもんねえ」

 ギターケースを背負った憲次郎も一緒に外に出た。
 ビルに面したアーケード街は飲食店があるのでまだ人通りが多い。三人はアーケードの通路脇に立ち、何をするでもなく通行人を眺めた。

「あーあ。なんだかねえ」

 明美は溜息混じりに、つまらなそうに言った。あっ、と声を出すと今度は楽しそうな顔になる。

「ちょっとケンちゃん、書く物持ってない?  手帳とかあるでしょ、出して」

 憲次郎はハイハイと言いながら胸ポケットから手帳を取り出した。
 絶対的な主従関係のようにも見えるが、憲次郎は嬉しそうにしている。明美の直球の感情表現をおおらかに受け止めていることに晴久は感心した。
 明美は憲次郎から手帳を奪うと、後ろの白紙ページに絵を描き始めた。

「お客君、ごめんねえ。明美さんいっつもテンション高いからさ。ちょっと圧倒されちゃうでしょ」

 憲次郎が小声で晴久に謝った。

「……楽しいです」

 晴久はやや緊張しながら言った。憲次郎が嬉しそうに笑うのを見て、晴久も自然に笑顔になった。

「これがぁ、アタシ」

 明美はページの中央にドレス姿の女の子を描いていた。ツインテールをカールさせた髪の周囲にキラキラした星マークを足していく。幼稚園の女の子が描きそうな、いかにもというお姫様だ。
 晴久と憲次郎は黙ってペン先を見ている。他にすることがない上、目を離すと明美が怒る。

「で、これはササイさん。それで、こっちはお客君」

 真っ黒く塗りつぶした人型が姫の横に現れた。姫の反対側に丸と直線だけの、いわゆる棒人間が完成する。

「……」

 晴久も憲次郎も、どこを褒めればいいのかわからない。二人は思わず顔を見合わせた。

「これが、アタシの今の気分、と」

 明美が姫の上に虹のようなアーチを描いた。両端が黒塗りと棒人間につながる。
 両端の二人が手を伸ばして、手をつないでいる。

「三人で仲良くステージに立っている絵じゃないわよ」
「はい。僕が、明美さんの邪魔をしている絵ですね」
「そこまでは言ってないわよっ」

 憲次郎は声を殺して笑い転げていた。
 ああ、これ……。
 晴久は絵を指でそっとなぞった。
   遠くから互いに手を伸ばして、お互いを見つけて……。
   これだ。
   星の友情。
   僕が欲しかったもの。
   僕が望み続けたもの。
   いつか出会わなければいけない人。星と星のように、どれだけ遠く離れていても互いに引き合い心を通わせることのできる相手……。

「ちょっと?  なんでまた泣くのよ。アタシ何かした?  もーやだ、ボロボロじゃないのっ」
「……ごめんなさい。なんでもないです。なんでも……あの、この絵いただけませんか?」

 僕の、生きる希望。

「……いいわよ。せっかくだからアタシのサインも入れてあげる」
「ちょっと明美さんっ。それ俺の手帳ですよ。勝手に描かれた上にちぎるんですか?  わっ、もっと丁寧にやって下さいって!」

 晴久が袖で顔をこする横で明美と憲次郎が手帳を取り合っている。ビルから出てきた石崎は声をかけるタイミングに迷ったらしく、無表情に三人を見ていた。

「ササイさん!  待ってたんだから来たらすぐ声かけてよ!」

 明美の怒声でこの場は解散になった。
 明美と憲次郎はこれから食事兼打ち合わせだという。晴久は明美の絵を受け取ると、石崎と一緒に駅に向かった。

「また、ね」

 明美が晴久に向けて言った別れの言葉は、やはり甘く濃く、まるで晴久を夜の霧に包むようだった。
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