50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第十章 混沌の呼び声

第182話 深淵からの客

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 『灰の集落』での静かすぎる夜だった。
 俺は宿屋の一室で、窓の外に広がる、どこか物悲しい景色を眺めていた。
 この土地に満ちる、穏やかでさえある闇の魔力は俺の内なる力とかすかに共鳴し、その存在を絶えず意識させた。
 エルドレアの死と引き換えに得たこの力。カイランが沈黙している今、俺は一人でこれと向き合わねばならない。
 その思考に深く沈み込んでいた時だった。部屋の空気が急に氷のように冷たくなった。
 蝋燭の炎が、まるで息を止めるかのように、ぴたりと動きを止める。
 部屋の隅、影が最も濃い場所が意思を持ったかのように揺らめいた。

「……誰だ」

 俺は音もなく立ち上がり、短剣に手をかける。
 影の中から、ゆっくりと一人の男が姿を現した。漆黒の礼服に蒼白の肌。そして、全てを見透かすような真紅の瞳。

「久しぶりだな、賢者カイン」

 その男――吸血鬼マルヴェス・ブラッドロックは、まるで最初からそこにいたかのように窓辺の椅子に腰かけていた。
 彼の口調は穏やかだが、その瞳は俺の存在をいぶかしむように鋭く細められている。

「光のであるはずのお前が、一体なぜ、この闇の地に足を踏み入れた? 迷い込んだにしては随分と堂々としているではないか」

「……お前には関係のないことだ。何の用だ?」

 俺は警戒を解かず、短く返す。この男が『混沌』に関わっている可能性も捨てきれない。迂闊うかつに目的を話すわけにはいかなかった。

「……最近この世界で起きている『ざわめき』に、お前が関わってたりするのか?」

 俺は疑念を直接ぶつけた。
 その言葉にマルヴェスは真紅の瞳を愉快そうに細めた。

「私が関わっているとすれば、お前はどうする? この場で私に剣を向けるか?」

 彼の言葉は問いかけの形をしていたが、その声には「お前にそんなことができるはずもない」という絶対的な自信と、こちらの覚悟を試すような響きがあった。

「……愚かな問いだ。お前がまず知るべきは私の関与の有無ではない。お前自身の目的だ。さあ、話すがいい。なぜ、お前はわざわざこの魔族領にまで来た?」

 その圧倒的な圧力と、魂の奥底まで見透かすような視線に、俺はこれ以上隠し通すのは不可能だと悟った。

「……分かった」

 俺は短剣から手を放し、観念した。

「俺は『混沌』を追って、ここへ来た。世界を不自然にざわつかせている、その現象の正体を知るために」

 俺の答えを聞くと、マルヴェスの表情から探るような色合いが消えた。
 彼は再び椅子に腰かけ、今度は不快そうな顔を浮かべた。

「……混沌、か。言い得て妙だな。私はあれを『世界の熱病』と呼んでいる」

 彼は静かに立ち上がり、部屋を歩きながら語り始めた。

「あの現象は世界のことわりを無意味な喧騒で満たし、秩序を乱す。魔族の本質は静寂と闇、そして個々の願いの成就にある。だが、あの熱病は無意味な憎悪と目的のない争いをまき散らすだけだ。……実に醜悪だ」

 マルヴェスの言葉は彼の個人的な美学に基づいていたが、その指摘はカズエルの仮説とも一致していた。

「私も、あの熱病は快く思っていない。放置すれば、この世界の美しい静寂が永遠に失われてしまうからな」

 彼はそこで言葉を止め、真紅の瞳で俺を射抜いた。

「カイン。どうやら我々の利害は今のところ一致しているようだ。お前がその熱病を止めるというのなら、私が情報を提供してやってもいい」

 俺はこの男の手のひらの上で踊らされていることを感じながらも、今はその提案に乗ってみようと思った。混沌について探るために。

「……いいだろう。その取引、乗ってやる。情報をもらおう」

「賢明な判断だ」

 マルヴェスは満足げに微笑むと、懐から一枚の古い地図を取り出し、テーブルの上へと広げた。

「最初の『病巣びょうそう』の場所だ。魔族領の中でも、特に熱病の症状が重い地域……『嘆きの谷』と呼ばれている」

 地図に示されたのは、この集落からさらに南下した険しい谷間の地域だった。

「この地を旅することは、光だけでなく闇をも知ったお前にとって、良き学びとなるだろう。闇の本質とは何か、その目で確かめてくるといい」

「……では、また会おう。賢者カイン。お前がこの世界の熱をどう冷ますのか、特等席で観劇させてもらう」

 マルヴェスはそう言い残すと、再び影の中へと溶けるように、その姿を消した。

 彼の気配が完全に消え去ると同時に、部屋の扉が勢いよく開かれた。

「カイン!」
「今の禍々しい気配は……!?」

 エルンとレオナルドが剣を抜き、部屋へ飛び込んでくる。

 俺はテーブルの上に広げられた地図を指さした。

「……ああ。深淵しんえんからの客が次の目的地を教えてくれた。だが、これは危険な招待状だ」

 俺たちは地図に記された「嘆きの谷」の名を静かに見つめていた。
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