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第十章 混沌の呼び声
第183話 静寂の聖職者
マルヴェスから得た地図を頼りに、俺たちは『嘆きの谷』と呼ばれる地域へと足を踏み入れた。
『灰の集落』の静けさとは打って変わり、谷に近づくにつれて、風に乗って争いの音が届き始める。
剣戟の音、怒声、そして断末魔の叫び。その全てが、この土地がマルヴェスの言う『熱病』に侵されていることを物語っていた。
「……ひどいな」
岩陰から谷の様子を窺い、俺は思わずつぶやいた。
眼下では魔族たちが同族同士で殺し合っていた。明確な軍勢でも、組織だった戦闘でもない。ただ、互いへの剥き出しの憎悪と猜疑心だけが、その場を支配しているようだった。
「理由のない争い……。カズエルの言っていた、精神干渉によるものだというのか」
レオナルドが苦々しい表情で言う。
「うん……この谷は、みんなの心が真っ黒でトゲトゲしてる。見てるだけでルナの心もチクチクするよ」
ルナが自分の胸をぎゅっと押さえた。
調査のため争いの輪から外れた者たちに接触を試みるが、誰もが俺たちを警戒し、まともな対話にならなかった。
調査が難航する中、ルナが谷の奥、崖の中腹にある小さな洞窟を指差す。
「ねえ、カイン。あそこ……あそこだけすごく静かな感じがする。周りのトゲトゲが届いてないみたい」
俺たちはルナの感知を頼りにその場所へと向かった。
洞窟の中は質素な祈りの場で、その奥に、一人の老いた魔族が座っていた。彼は俺たちが入ってきても驚くことなく、ただ静かに顔を上げた。
「……旅の方か。このような喧騒の地に、ようこそおいでなされた」
「俺はカイン。この谷で起きている争いの原因を探している」
俺がそう名乗ると、老魔族――老師は静かにうなずいた。
「わしはこの谷の古き理を守る者。あなた方がお探しの『原因』は、この谷には無かったもの。あれは外から持ち込まれた忌まわしき『病』じゃよ」
老師はゆっくりと語り始めた。
「魔族の本質とは本来、『静寂』と『心の安寧』にある。我らは無益な争いを好まぬ。個々の願いを内に秘め、ただ静かに自らの生を全うする。それこそが、我らの理」
その言葉にエルンが問いかけた。
「老師様……その『静寂』とは闇の精霊様がお与えになるものなのですか? 私たちエルフは精霊の歌声の中にこそ豊かさを見出すのですが……」
老師はエルンに穏やかな視線を向けた。
「闇の精霊は与えぬ。ただ、そこにあるだけじゃ。我らはいずれ還るべきその深淵に安らぎを見出す。光を求める者がおれば、闇に安寧を見出す者もおる。どちらも、この世界の理の一部じゃよ」
その答えに今度はルナが不思議そうに首を傾げた。
「でも、苦しみながら生きるくらいなら、死んだ方が『安寧』だっていうのは、ルナにはよくわかんないよ。死んじゃったら、もう美味しいものも食べられないし、カインたちとおしゃべりもできないのに」
老師はルナの純粋な問いに、ふっと笑みを浮かべた。
「小娘よ、そなたの言うこともまた真理じゃ。生を謳歌し、喜びの中に安らぎを見出す者もおる。闇はそれを否定はせぬ。ただ、苦しみ続けるだけの生ならば、そこからの解放もまた一つの救いの形だと受け入れるだけじゃ」
最後に、これまで黙って話を聞いていたレオナルドが口を開いた。
「老師よ。無益な争いを好まぬと言ったな。では、この谷の者たちは外敵に襲われた時や、己の身を守るべき時はどうするのだ? 力を持つこと、戦うこと自体を否定しているわけではあるまい」
「うむ」と老師は力強くうなずいた。
「我らが忌むのは『無意味な喧騒』。己が願いのため、家族を守るため、静寂を脅かす者を退けるための戦いは、むしろ誉れ高き行為。だが、今のこの谷にあるのは、ただの憎悪のぶつけ合い……そこには何の理もない、醜い音だけじゃ」
老師の言葉は、この谷の悲劇の核心を突いていた。そして彼の語る哲学は、この谷に来る前にマルヴェスが語っていた魔族の本質――『静寂』を求めるという考えと奇妙に一致していた。
「どうか旅の方よ」と老師は俺たちに頭を下げた。
「もし、あなた方がこの病の根源を断ち切る力をお持ちなら……この者たちに、どうか、静寂を取り戻してはくれまいか」
老師の言葉に俺は強くうなずいた。
この争いは『混沌』によって引き起こされた人為的な悲劇なのかもしれない。
そして俺たちにはそれを止められる可能性がある。
俺はこの谷に静けさを取り戻すことを本気で考え始めた。そのためには、さらなる情報が必要だった。
争いの中心で、この『熱病』について、もっと何かを知る者がいるはずだ。
俺たちは老師に深く一礼し、再び喧騒の谷の中心部へと歩き出した。
『灰の集落』の静けさとは打って変わり、谷に近づくにつれて、風に乗って争いの音が届き始める。
剣戟の音、怒声、そして断末魔の叫び。その全てが、この土地がマルヴェスの言う『熱病』に侵されていることを物語っていた。
「……ひどいな」
岩陰から谷の様子を窺い、俺は思わずつぶやいた。
眼下では魔族たちが同族同士で殺し合っていた。明確な軍勢でも、組織だった戦闘でもない。ただ、互いへの剥き出しの憎悪と猜疑心だけが、その場を支配しているようだった。
「理由のない争い……。カズエルの言っていた、精神干渉によるものだというのか」
レオナルドが苦々しい表情で言う。
「うん……この谷は、みんなの心が真っ黒でトゲトゲしてる。見てるだけでルナの心もチクチクするよ」
ルナが自分の胸をぎゅっと押さえた。
調査のため争いの輪から外れた者たちに接触を試みるが、誰もが俺たちを警戒し、まともな対話にならなかった。
調査が難航する中、ルナが谷の奥、崖の中腹にある小さな洞窟を指差す。
「ねえ、カイン。あそこ……あそこだけすごく静かな感じがする。周りのトゲトゲが届いてないみたい」
俺たちはルナの感知を頼りにその場所へと向かった。
洞窟の中は質素な祈りの場で、その奥に、一人の老いた魔族が座っていた。彼は俺たちが入ってきても驚くことなく、ただ静かに顔を上げた。
「……旅の方か。このような喧騒の地に、ようこそおいでなされた」
「俺はカイン。この谷で起きている争いの原因を探している」
俺がそう名乗ると、老魔族――老師は静かにうなずいた。
「わしはこの谷の古き理を守る者。あなた方がお探しの『原因』は、この谷には無かったもの。あれは外から持ち込まれた忌まわしき『病』じゃよ」
老師はゆっくりと語り始めた。
「魔族の本質とは本来、『静寂』と『心の安寧』にある。我らは無益な争いを好まぬ。個々の願いを内に秘め、ただ静かに自らの生を全うする。それこそが、我らの理」
その言葉にエルンが問いかけた。
「老師様……その『静寂』とは闇の精霊様がお与えになるものなのですか? 私たちエルフは精霊の歌声の中にこそ豊かさを見出すのですが……」
老師はエルンに穏やかな視線を向けた。
「闇の精霊は与えぬ。ただ、そこにあるだけじゃ。我らはいずれ還るべきその深淵に安らぎを見出す。光を求める者がおれば、闇に安寧を見出す者もおる。どちらも、この世界の理の一部じゃよ」
その答えに今度はルナが不思議そうに首を傾げた。
「でも、苦しみながら生きるくらいなら、死んだ方が『安寧』だっていうのは、ルナにはよくわかんないよ。死んじゃったら、もう美味しいものも食べられないし、カインたちとおしゃべりもできないのに」
老師はルナの純粋な問いに、ふっと笑みを浮かべた。
「小娘よ、そなたの言うこともまた真理じゃ。生を謳歌し、喜びの中に安らぎを見出す者もおる。闇はそれを否定はせぬ。ただ、苦しみ続けるだけの生ならば、そこからの解放もまた一つの救いの形だと受け入れるだけじゃ」
最後に、これまで黙って話を聞いていたレオナルドが口を開いた。
「老師よ。無益な争いを好まぬと言ったな。では、この谷の者たちは外敵に襲われた時や、己の身を守るべき時はどうするのだ? 力を持つこと、戦うこと自体を否定しているわけではあるまい」
「うむ」と老師は力強くうなずいた。
「我らが忌むのは『無意味な喧騒』。己が願いのため、家族を守るため、静寂を脅かす者を退けるための戦いは、むしろ誉れ高き行為。だが、今のこの谷にあるのは、ただの憎悪のぶつけ合い……そこには何の理もない、醜い音だけじゃ」
老師の言葉は、この谷の悲劇の核心を突いていた。そして彼の語る哲学は、この谷に来る前にマルヴェスが語っていた魔族の本質――『静寂』を求めるという考えと奇妙に一致していた。
「どうか旅の方よ」と老師は俺たちに頭を下げた。
「もし、あなた方がこの病の根源を断ち切る力をお持ちなら……この者たちに、どうか、静寂を取り戻してはくれまいか」
老師の言葉に俺は強くうなずいた。
この争いは『混沌』によって引き起こされた人為的な悲劇なのかもしれない。
そして俺たちにはそれを止められる可能性がある。
俺はこの谷に静けさを取り戻すことを本気で考え始めた。そのためには、さらなる情報が必要だった。
争いの中心で、この『熱病』について、もっと何かを知る者がいるはずだ。
俺たちは老師に深く一礼し、再び喧騒の谷の中心部へと歩き出した。
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