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しおりを挟む「プルメリア」
その時、優しく呼ばれた自分の名前に、私は息を吸った。激しい動悸に自らが息を止めていたことを知る。視界がハッキリとし、弦楽器の旋律や人の声など、広間の騒めきが耳に戻ってくる。肩に置かれた手が温かい。顔だけで振り返ると、声の主が私を見下ろしている。
「プルメリア」
もう一度呼ばれた名前に何故か胸が苦しくなる。
「お兄様」
そう言うのがやっとだった私に、兄は笑いかけ、そして一瞬でその笑みを消して、モリス様を見た。その目は見たこともないほど冷ややかだ。
「こちらの方は?」
私への問いかけに自ら名乗ろうとした男に、兄は威圧的な視線で牽制をする。兄に紹介したい相手ではないのだけれど、仕方ない。
「モリス伯爵家の御子息、ザラトゥーニ様です」
これでは説明は足りないのだろう。兄の目が続きを促している。
「先日まで私の婚約者だった方です」
「ほう」
兄の目が光った。まるで、猛禽類のような瞳の中でいくつもの光が輝く。思わず見惚れてしまうが、兄の声で我にかえる。
「貴方はもう私の妹とは何の縁もないというのに、何故付き纏っているのか」
「つ、付き纏う、などと……。ただ挨拶していただけで」
「しかも婚約解消は貴方からの申出だとお聞きしている。自分が傷つけた女性に自分から近づくなど、どういったおつもりか」
兄がモリス様の方から婚約解消の申出があったことを知っていたのに驚く。私からは「つい最近まで婚約者がいた」ということしか話さなかったのに。
声を荒げている訳ではないのに、兄の言葉は的確に痛いところを突いて、モリス様は萎縮している。それでも言われっぱなしは嫌だったようで、彼は何とか反論しようとした。
「婚約解消は、そちらが約束を反故にしたからだ!」
「約束?」
嫌な話になってきたなあ、とは思ったけれど、口を挟むこともできない。兄には聞かせたくなかったんだけど。
「俺が彼女と婚約したのは、侯爵家を継ぐ彼女に婿入りすることになっていたからだ!正当な後継者である貴方が見つかったのだから、解消もやむを得ないだろう?!」
「俺のせいだったんだな」
ピアニー嬢を送り届け帰宅した兄は、私を見つけるなりそう言った。その言葉の意味を汲み取り、続く言葉を言わせないために頭を振る。
「お兄様のせいではありません。いずれ、こうなることは」
「俺が見つからなければ、お前は侯爵家を継ぐことができた!」
言わせたくなかったのに、私の言葉を遮るようにして兄は叫んだ。
「お前が幼い頃からしてきた跡継ぎとしての勉強も無駄にならなかったし、婚約を解消されることもなかった! 俺がこの家に帰って来なければ」
「お兄様っ!」
今度は私が兄の言葉を遮った。固く握られた拳を手に取り、俯く顔を下から覗き込んで視線を合わせる。
「馬鹿なことを言わないでください。お兄様の帰りをどれだけ多くの人が、どれだけ長い間、どれだけの想いで、待っていたと思っているんですか? お父様とお母様の喜び様を、お兄様はお忘れになったのですか?」
「だからって、お前だけが割を食うなんて」
ぶつかる瞳の中にはいつものように輝く星は見えない。それがとても悲しくて、私は言葉を重ねる。
「私が損をしているなんて、勝手に決めつけないでください。こうなって良かったのです。だって、あんな男が私の夫となって侯爵家に婿入りしてくることになっていたなんて、冗談としても笑えないですわ」
「……あの男と結婚したかったのではないのか?」
「そもそも侯爵家として必要だから決められた婚約者、としか思っておりませんでしたが、あそこまで礼儀知らずで頭も悪いとは思っておりませんでした。分かっていたら、お父様たちも彼を侯爵家の婿になんて考えなかったでしょう」
うまく猫を被っていたみたいですけどね、と溜息混じりに言うと、
「俺が言うのもなんだが、けっこうモテそうな男のようだったが」
と、暗かった表情を何となく情けない表情に替えた兄が言う。思わず笑みが溢れた。
「ふふ、素敵過ぎるお兄様に慣れてしまって、大抵の男性には心が動かなくなってしまいましたわ」
顔を瞬時に赤くさせた兄は目を逸らしたが、その瞳には僅かに光が戻っていた。
「私、本当にお兄様が戻って来られて嬉しいのです。信じてもらえませんか?」
「……俺も、お前に出会えて、嬉しい。……ありがとう」
力が込められていた拳は解かれ、手を握り返される。私たちは本当の血を分けた兄妹のように笑い合った。
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