悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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20話

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「……祝福を運ぶ、令嬢?」

帝国宮殿の最奥、玉座の間にて。  
銀髪に琥珀の瞳を持つ皇帝ヴィクトールは、手にした報告書をじっと見つめていた。

「花を咲かせ、魔物を退け、祭壇で舞い、兵士を癒し、領主を赤面させた上に、黒鉄の塔を再訪して茶を飲んだ、とな?」

「……は。現在、正体不明の“貴婦人”として帝都中の噂になっております」

「しかも本人はそれに一切自覚なし、か。実に――面白い」

皇帝の唇がわずかに緩んだ。  
冷徹と畏怖の象徴である男の顔に、わずかな愉悦が浮かんだのは、実に久しぶりのことだった。

「その者の名は?」

「ルゥナ=フェリシェ。王国出身の侯爵令嬢です。詳細は未確認の部分が多く……そもそも、王国側も彼女の所在を掴めておりません」

「ふむ。となれば――“帝国が保護中”ということで構わぬな?」

「……はい。すでに非公式に、監視網を張らせております」

「では、しばらく見守らせてもらおう。“神に愛されし迷子”の行き先とやらを、な」

その日を境に、ルゥナ=フェリシェの周囲に“視線”が増えた。

護衛を装った監視員、風のように現れては消える報告係。  
彼女の動向は、常に宮廷の中枢に届くよう仕組まれていった。

しかし――

「……最近、視線が増えたような気がいたしますのよね」

のんきにパン屋でクッキーを選びながら、ルゥナは首をかしげていた。

「猫さん、あなたも感じます? あの角の影……あそこ、昨日も同じ方がおられましたの」

「にゃあ」

「やっぱり。まあ、わたくしを見て“にこにこ”なさっておられるから、悪い方ではありませんわよね」

……にこにこ、ではなく、緊張でひきつった顔である。

「それにしても、皆さま本当にご丁寧で……“こちらをお通りください”とか、“お足元にご注意ください”とか……」

彼女の進行方向は、すべて誰かの手で事前に整えられていた。  
段差には敷布、突風の道には柵、迷いそうな路地には案内板。  
帝国が誇る諜報網が、ひとりの令嬢の“お散歩補助”に全力を注ぎ始めていた。

皇帝の命を受けた監視隊長は、毎夜報告書を提出するたびに頭を抱える。

「……何もしていないのに、“崇拝者”が増えていきます」

「何もしていないからこそ、恐ろしいのだよ。あの者は“空白をも支配する”」

「……皇帝陛下、我々はこのまま、見守るのみで……?」

「当然だ。誰が手を出せる。……むしろ私の方が会ってみたいわ」

皇帝が微笑むのを、側近は初めて見た。  
それが、どこか少年のような表情だったことも、後に語り草になる。

そのころ、ルゥナはクッキーをかじりながら猫に言っていた。

「今日は一段と風が甘い香りですわね。きっと、良い日ですわ」

そして、彼女の背には――  
ひとりの皇帝が興味を寄せる“視線”が、着実に、しかし誰よりも丁寧に注がれていた。
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