悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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32話

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「ベルヴァイン侯爵令嬢、ルゥナ=フェリシェ殿に対し、  
帝国滞在の即時終了および、王国本国への帰還を命ずる――」

厳封の命令書は、帝都の宰相府から黒鉄の塔、各地の衛兵詰所へと次々に通達された。  
王国からの正式な要請、加えて父侯爵の署名入り。  
帝国としても無視できぬ文書である。

「……ようやくか」

帝国の高官たちが書状を手に深くため息をつく。  
だが、その表情には困惑が色濃く滲んでいた。

「本人の現在地は?」

「……申し訳ありません、三日前までは帝都西の薬草村に。  
その後、風祭の町にて目撃情報。昨日は北の温泉郷……」

「三日で三つの地方!? どんな移動を……いや、あの方なら……」

「問題は、どこでお伝えしても“あら、また移動いたしますわ”と笑って消えることです」

「……追いつかない理由、それでしたか」

王国は焦っていた。  
世間を騒がす“風の巫女”の正体が、自国の令嬢であることが完全に露呈しつつあったからだ。  
これ以上の騒動を避けるためにも、本人を連れ戻す必要がある。  
だが――

その“本人”は今、帝国南端の港町の丘で、猫と一緒に潮風を浴びながら言っていた。

「こちらの空気も美味しゅうございますわね。  
風の香りに塩気が混ざっていて……なんだか焼き魚が食べたくなりますわ」

隣の猫が「にゃあ」と鳴き、彼女は笑う。

「ええ、そうですわね。戻るなら……お菓子屋さんに、ですわよね」

そこへ、急報を受けた帝国兵が馬を走らせてやって来た。  
息を切らせながら頭を下げ、命令書を差し出す。

「お嬢様……王国よりの、正式な帰還命令が……!」

ルゥナは紙を受け取り、ゆっくりと目を通す。

「……まあまあ、字が細かくて大変そうですわね」

そして、にこやかに微笑んでこう言った。

「お断りしますわ」

兵の目が点になる。

「お、お断り……?」

「ええ。わたくし、まだこの国を見終わっておりませんのよ。  
それに猫さんも、まだ港町の魚を堪能しておりませんし」

「ですが……その、ご実家が……!」

「きっと父はお怒りですわね。でも、きっと怒られるくらいのことをするには、今が一番楽しい時期なのですもの」

風が、彼女の髪をなびかせる。  
その姿はどこか神聖で、自由で、誰にも縛れない空のようだった。

数刻後、皇帝ヴィクトールのもとに兵の報告が届く。

「帰還命令、拒否されたか」

「はっ、しかしながら、態度は丁寧で笑顔は崩れず、“焼き魚が気になりますの”とのことで……」

「よろしい」

皇帝は短く笑った。

「そういう女だ。……放っておけと言ったはずだ」

こうして、王国の“帰還命令”は、帝国全土の風に吹かれて消えていった。

令嬢は、今日もまた海風を胸いっぱいに吸い込みながら、次なる街の菓子屋へ向けて、迷いなく歩き出していた。
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