悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

57話

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帝都の朝は、いつにも増して慌ただしかった。

広場では新聞売りが声を張り上げ、宮廷では侍従が走り回り、貴族の邸宅では使用人たちがやきもきと茶器の並びを整えている。  
すべては、一つの命令のためだった。

――帝国皇帝陛下、直々のご命令。  
「ルゥナ=フェリシェ嬢に、護衛をひとりつけよ。騎士団長リヒャルト=ヴァイスベルクを以て、これを任とす」

その知らせが帝都を駆け抜けた瞬間、貴族社会は爆発的にざわめいた。  
一国の騎士団長が、たったひとりの令嬢の“専属護衛”となる。  
それはすなわち、ただの警護ではない。  
――恋の側に立つということ。  
誰もがそう解釈した。

だが――当の本人は、いつものように穏やかに風の中にいた。

その日、ルゥナは城下の市場通りにいた。  
抱きかかえた猫を撫でながら、小さなパン屋の窓を覗き込む。  
そのすぐ背後には、鎧の気配もなく静かに付き従う男の影。

「リヒャルト様、本日はお付き合いくださってありがとうございます。お散歩はお好きでしたの?」

「……任務です」

「まあ。お散歩を任務としてくださるなんて、なんてご丁寧な」

穏やかに笑う彼女に、リヒャルトは何も言わなかった。  
だがその足取りは、彼女の歩幅にきちんと合わせられ、  
その視線は、常に周囲の危険を静かに探っていた。

道行く人々は、当然その姿に気づく。  
“騎士団長と迷子令嬢が二人で散歩している”という光景は、あまりにも非日常で、  
そして、あまりにも親密に見えた。

「ほら見て、団長様が……! いや、もうあれは護衛じゃないだろう」  
「今にも告白するんじゃ……いや、すでに両想いなのでは?」  
「護衛ってあんなに近くに立つもんだったっけ?」

瞬く間に噂は飛び交い、尾ひれがつき、夕方には“団長、令嬢に愛の詩を捧げる”という話にまで膨らんでいた。

だがルゥナは、何も知らぬ顔でパンを受け取り、にこやかに礼を言う。

「こちらのジャムパン、猫さんもお気に召したようですわね。リヒャルト様も、いかがですの?」

「……任務中ですので」

「まあ、それは残念。でも、お散歩のお供に何か甘いものがあると、風がもっと優しくなるのですわよ」

町人が手を振り、子どもが駆け寄り、猫が二匹、リヒャルトの足元に集まる。  
彼はそれらを払いもせず、ただ静かに目を伏せていた。

帝都は、もはや“告白未遂劇”の舞台と化していた。  
そして、婿候補たちは焦燥に駆られ、次なる手を探して血眼になる。

だが、その日もルゥナは、穏やかな風の中を歩いていた。

「……護衛というより、今日は良いお散歩でしたわね」

その一言が、また帝国の空気を優しく――  
けれど確実に、変えていった。
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