悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

文字の大きさ
55 / 70
婚約編

56話

しおりを挟む
帝都の昼下がり、空は晴れわたり、広場には春の風が軽やかに吹いていた。  
市の催しで賑わうその場に、ルゥナ=フェリシェの姿はあった。  
彼女は今日も猫を抱き、ゆったりとした歩調で花屋の前を通り過ぎ、焼き菓子の香りに足を止め、何気ない日常の中に溶け込んでいた。

だが、その穏やかさを破ったのは、一陣の風だった。

「……あら」

軽く風が吹き抜けた刹那、ルゥナの帽子がその手をすり抜け、ふわりと宙へ舞い上がる。  
白いリボンがほどけ、空中でくるりと一回転した。  
そして、彼女は迷いなくその後を追った。  
帽子が人混みの向こうに飛ばされるその軌跡を見定め、彼女はふわりと駆けだす。

その様子に広場の人々は驚いた。  
日頃から“迷子の祝福”として知られる令嬢が走るなど、見た者すら珍しい。

けれど、足元は花崗岩の滑らかな石畳。  
小さな溝にヒールの先が引っかかった瞬間、ルゥナの体が前のめりに傾いた。

「あら、これは……」

転倒を覚悟したその一瞬――

ごく自然な、けれど確かな力で、誰かの手が彼女の手を掴んだ。

「……!」

振り返ると、そこに立っていたのは騎士団長リヒャルト=ヴァイスベルク。

銀灰の騎士服に身を包み、冷静そのものの瞳。  
だが、その手は確かに彼女の手を包み込み、支えていた。

帽子よりも、先に。

その仕草は、騎士としての“職務”ではなかった。  
彼は、令嬢の転倒を防ぐという任務を超えて、  
彼女自身を“守る”ことを選んだのだ。

「……ご無事で」

それだけを言って、彼は彼女の手をそっと離した。

ルゥナは、転ばなかった。  
代わりに、ほっと息をつきながら、微笑んだ。

「まあ、転ばずに済みましたわね。お礼を申し上げなければ」

風に舞っていた帽子は、すでに彼のもう片方の手に納まっていた。  
整えられたリボン、きれいに払われた布。  
その扱いは、帽子ではなく“大切な何か”そのものだった。

広場の人々は息を呑んだ。

それは、明確な意思表示。  
言葉を使わずして、“誰よりも先に彼女を支える”という誓いにも似た行為だった。

その場にいた貴族の息子たち、騎士団の青年将校、婚約候補として名乗りを上げていた者たちの顔に、微かな焦りが走った。

“無表情な騎士団長が、令嬢に手を伸ばした”  
その意味を、彼らは痛いほど理解していた。

一方、肝心の本人はといえば――

「今日は、風の悪戯が少し過ぎましたのね」

と、猫を抱き直して何事もなかったように歩き出していた。

恋の重さも、視線の熱さも、彼女にはまだ届いていない。  
けれど、その日帝都に吹いた風は、誰の目にも確かに――  
ひとつの方向へ、変わりはじめていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】旦那様、わたくし家出します。

さくらもち
恋愛
とある王国のとある上級貴族家の新妻は政略結婚をして早半年。 溜まりに溜まった不満がついに爆破し、家出を決行するお話です。 名前無し設定で書いて完結させましたが、続き希望を沢山頂きましたので名前を付けて文章を少し治してあります。 名前無しの時に読まれた方は良かったら最初から読んで見てください。 登場人物のサイドストーリー集を描きましたのでそちらも良かったら読んでみてください( ˊᵕˋ*) 第二王子が10年後王弟殿下になってからのストーリーも別で公開中

皇子の婚約者になりたくないので天の声に従いました

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
幼い頃から天の声が聞こえるシラク公爵の娘であるミレーヌ。 この天の声にはいろいろと助けられていた。父親の命を救ってくれたのもこの天の声。 そして、進学に向けて騎士科か魔導科を選択しなければならなくなったとき、助言をしてくれたのも天の声。 ミレーヌはこの天の声に従い、騎士科を選ぶことにした。 なぜなら、魔導科を選ぶと、皇子の婚約者という立派な役割がもれなくついてきてしまうからだ。 ※完結しました。新年早々、クスっとしていただけたら幸いです。軽くお読みください。

拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様

オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。

助けた青年は私から全てを奪った隣国の王族でした

Karamimi
恋愛
15歳のフローラは、ドミスティナ王国で平和に暮らしていた。そんなフローラは元公爵令嬢。 約9年半前、フェザー公爵に嵌められ国家反逆罪で家族ともども捕まったフローラ。 必死に無実を訴えるフローラの父親だったが、国王はフローラの父親の言葉を一切聞き入れず、両親と兄を処刑。フローラと2歳年上の姉は、国外追放になった。身一つで放り出された幼い姉妹。特に体の弱かった姉は、寒さと飢えに耐えられず命を落とす。 そんな中1人生き残ったフローラは、運よく近くに住む女性の助けを受け、何とか平民として生活していた。 そんなある日、大けがを負った青年を森の中で見つけたフローラ。家に連れて帰りすぐに医者に診せたおかげで、青年は一命を取り留めたのだが… 「どうして俺を助けた!俺はあの場で死にたかったのに!」 そうフローラを怒鳴りつける青年。そんな青年にフローラは 「あなた様がどんな辛い目に合ったのかは分かりません。でも、せっかく助かったこの命、無駄にしてはいけません!」 そう伝え、大けがをしている青年を献身的に看護するのだった。一緒に生活する中で、いつしか2人の間に、恋心が芽生え始めるのだが… 甘く切ない異世界ラブストーリーです。

傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ

悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。 残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。 そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。 だがーー 月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。 やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。 それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。

あなたの事は好きですが私が邪魔者なので諦めようと思ったのですが…様子がおかしいです

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のカナリアは、原因不明の高熱に襲われた事がきっかけで、前世の記憶を取り戻した。そしてここが、前世で亡くなる寸前まで読んでいた小説の世界で、ヒーローの婚約者に転生している事に気が付いたのだ。 その物語は、自分を含めた主要の登場人物が全員命を落とすという、まさにバッドエンドの世界! 物心ついた時からずっと自分の傍にいてくれた婚約者のアルトを、心から愛しているカナリアは、酷く動揺する。それでも愛するアルトの為、自分が身を引く事で、バッドエンドをハッピーエンドに変えようと動き出したのだが、なんだか様子がおかしくて… 全く違う物語に転生したと思い込み、迷走を続けるカナリアと、愛するカナリアを失うまいと翻弄するアルトの恋のお話しです。 展開が早く、ご都合主義全開ですが、よろしくお願いしますm(__)m

だってわたくし、悪女ですもの

さくたろう
恋愛
 妹に毒を盛ったとして王子との婚約を破棄された令嬢メイベルは、あっさりとその罪を認め、罰として城を追放、おまけにこれ以上罪を犯さないように叔父の使用人である平民ウィリアムと結婚させられてしまった。  しかしメイベルは少しも落ち込んでいなかった。敵対視してくる妹も、婚約破棄後の傷心に言い寄ってくる男も華麗に躱しながら、のびやかに幸せを掴み取っていく。 小説家になろう様にも投稿しています。

ある公爵令嬢の死に様

鈴木 桜
恋愛
彼女は生まれた時から死ぬことが決まっていた。 まもなく迎える18歳の誕生日、国を守るために神にささげられる生贄となる。 だが、彼女は言った。 「私は、死にたくないの。 ──悪いけど、付き合ってもらうわよ」 かくして始まった、強引で無茶な逃亡劇。 生真面目な騎士と、死にたくない令嬢が、少しずつ心を通わせながら 自分たちの運命と世界の秘密に向き合っていく──。

処理中です...