悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

55話

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帝都の西側、古木の並ぶ静かな並木道。  
春風が強まった午後、ルゥナ=フェリシェは帽子のリボンを押さえながら、猫を抱いて歩いていた。

「今日は風が、ちょっとだけ調子に乗っておりますのね」  
そう言って微笑んだ直後だった。

突風が一吹き、彼女の帽子をふわりと空に舞い上げる。

白と金の縁取りが施されたその帽子は、軽やかに踊り、並木の向こうへ――  
そして、ひとりの男の足元へと、正確に落ちていった。

リヒャルト=ヴァイスベルク。  
帝国騎士団を束ねる団長にして、寡黙を通す無口な男。  
婚約騒動の渦中にありながら、唯一と言っていいほど浮ついた素振りを見せなかった男。

彼は帽子を見下ろし、わずかに眉を動かす。  
そして、誰に言われるでもなく、それを拾い上げた。

柔らかな手つきだった。  
甲冑の隙間から見える指が、風の抜けた布地をそっと整える。  
落ちた葉を払うように、余計な埃を振り落とす。

それを見た周囲の護衛騎士たちは、呼吸を止めた。  
居合わせた市民の一人が、思わず呟く。

「……団長が、触れた……いや、“彼女の帽子に手を伸ばした”ぞ……?」

それは言葉ではなかった。  
だが確かに“意思”だった。  
これまでどれだけ婿候補が言葉を尽くしても、手を尽くしても届かなかった彼の行動は、あまりにも静かに、しかし確かに“彼女を望んでいる”と伝えていた。

帽子を持って近づくリヒャルトに、ルゥナは顔を上げる。  
目が合った瞬間、風がすっと止んだような気がした。

「まあ……拾ってくださったのですの? 風が、少し悪戯でしたわね」

ルゥナは自然に笑い、帽子を受け取りながら、何気ないように続ける。

「でも、こうして戻ってくるのも不思議なものですわ。  
まるで、帽子の方が帰るべき場所を知っていたような……」

その言葉に、リヒャルトは何も答えなかった。  
ただ、帽子を離す手がほんの一瞬だけ、名残惜しそうに止まった。

その場にいた者たちは、誰もがそれを見ていた。  
言葉よりも雄弁な“手”の語り。  
寡黙な騎士が初めて見せた、“選びたい”という感情。

その日、帝都中の噂はひとつだった。  
“ついに、風が本命を選んだ”

だが――肝心の本人は、至って穏やかに紅茶を啜っていた。

「拾っていただいたお礼に、今度は団長にもお茶をお出ししませんと」

その言葉は無邪気だった。  
だがその声に宿る柔らかさが、風の流れを少しだけ変えた。

恋という名の風は、いま、確かにひとつの方向へ吹き始めていた。
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