悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

58話

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帝都の南、王宮近くにある白亜の集会所。  
その日、ここでは帝国上層貴族による“政略お見合い会”がひっそりと催されていた。

出席者は選び抜かれた若き貴族の子弟十数名。  
いずれも由緒ある家柄を背景に、冷静な戦略と情熱を胸に秘め、“祝福の姫”ルゥナ=フェリシェとの縁を得んと集っていた。

その場に、まさか彼女が迷い込むなど――  
誰一人、予想していなかった。

「まあ……静かで素敵な広間ですわね。ちょっと腰を落ち着けてもよろしいかしら?」

事情を知らぬまま、扉を開けて現れたのはルゥナ本人。  
通された円卓のひと席に自然と腰を下ろし、猫を膝に乗せながら微笑む。

「すみません、紅茶を一杯……あれば、ミルク入りでお願いできますかしら」

応対に出た使用人はあまりの展開に口を開けたまま硬直したが、手はしっかり動いていた。  
やがて会場に芳醇な香りが立ち込め、紅茶が一杯、令嬢の前に置かれた。

参加者の貴族たちは、唖然としながらも、奇跡のような偶然に沸き立っていた。

「ま、まさか……ご本人が……?」  
「これは……これは試練だ、ここで自分を印象づけねば!」  
「運命は、準備ある者にのみ微笑む!」

ざわつきの中、ひとりが席を立ち、名乗りを上げる。

「お初にお目にかかります、サルヴァート侯爵家のアーレントと申します。お嬢様は、どのような男性像をお好みで?」

ルゥナはふわりと目を細めた。

「そうですわね……猫さんを怖がらず、風を乱さない方は素敵だと思いますの。あとは、お散歩に付き合ってくだされば」

回答になっているのかどうかも怪しいその返答に、参加者の胸は撃ち抜かれた。  
“ああ、自分ではない……”と、なぜか確信を得た者が何人もいた。

続いて別の男が立ち上がる。

「では、読書はお好きでしょうか? 私の家には古い詩集が……」

「まあ、素敵。けれど本よりも、お茶の香りで物語を紡ぐ方が好きですわ」

またひとり、静かに崩れ落ちる。

さらにもう一人。

「帝国の平和を背負う者として、共に歩んでいただけるなら……」

「ご立派ですわね。でも、肩がこるほど責任を背負うのは、お身体によくありませんわ」

膝が折れる音が三つほど響いた。  
その空間はすでに、戦場ではなく“失恋会場”と化していた。

そして最後に、ルゥナは、ただにこやかにこう言った。

「今日は風が穏やかで嬉しゅうございますわ。皆さまのお人柄のおかげかもしれませんのね」

その言葉に、出席者たちは全員うつむいた。  
誰も選ばれていない。  
だが誰も拒絶されたわけでもない。  
だからこそ、深い喪失感だけが静かに広がっていく。

やがて、紅茶を飲み終えたルゥナは席を立ち、軽く会釈をして退室した。

「ごちそうさまでした。とても、香り高いお時間でしたわ」

その足取りは、まるで風に誘われるように軽やかだった。

そして残された者たちは、無言でテーブルに手を置き、誰もが己の立場を悟った。  
――この令嬢に選ばれるのは、策略でも家柄でも言葉でもない。

それは、きっと“ただ、風のように在る”こと。

だがそれが、最も難しいのである。
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