悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

59話

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春の陽が差し込む帝都の裏通り。  
メイン通りの喧騒から少し外れた小さなパン屋で、ルゥナ=フェリシェは、湯気の立つ焼きたてパンにかぶりついていた。

「まあ……この外はかりっと、中はふんわり……風の通り道を感じさせますわね」

そんな風に評するのは、食通でも詩人でもなく、ただの迷子令嬢。  
けれど、その一言でパン屋には長蛇の列ができ、数時間後には「祝福のパン」として売り切れを記録することになる。

それでも、ルゥナはそれを知らない。  
彼女はただ、自分の鼻先をくすぐる花の香りを追いかけ、  
猫と一緒にひなたを探して歩く。

「今日はすずらんが咲いておりますのね。春風も、少し甘く感じますわ」

そうしてまた、笑う。  
誰にでも平等に、自然に、分け隔てなく。

騎士団長リヒャルト=ヴァイスベルクは、そんな彼女の姿を少し離れて見守っていた。  
護衛としての距離を保ち、任務として同行し、何も言わずに影となる――  
それが、今までの自分の在り方だった。

だが今、胸の奥に微かなざわめきがある。  
かつて戦場で感じた緊張でも、上官に刃を向けた反逆者を見たときの怒気でもない。  
もっと、得体の知れぬ、しかし確かな熱。

“焦っている”

その言葉が、彼の中に浮かんだのは、ルゥナが通りすがりの少年に微笑みかけた時だった。

「迷ったのですの? でしたら、風が通った方を信じて歩くのがよろしいですわ」

たったそれだけの言葉に、少年は目を潤ませて礼を言い、走り去っていった。  
残されたリヒャルトの胸に残ったのは、言いようのない感情。

誰にでも、優しい。  
誰にでも、同じだけの笑みを見せる。

それが彼女の魅力であり、脅威でもあると、いまさらながら思い知る。

だが――彼女はまだ気づいていない。

自分が、“ただ風に吹かれている存在”ではないことを。  
誰かの心を動かし、誰かを焦がし、  
そして、いつの間にか“誰かの中心”に据えられてしまっていることを。

その誰かが、自分であるということにも。

「……団長、どうかなさったのですか?」

ふと、パンを一口かじったルゥナが、首をかしげて見上げてきた。  
風が帽子のリボンを揺らし、花の香りが舞う。

「いえ」

リヒャルトは一言だけ返し、視線を逸らした。  
だがその手は、わずかに拳を握っていた。

風のような令嬢に、初めて“追いつきたい”と思った。  
ただ静かに、しかし確かに、恋がかたちを成しはじめていた。
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