悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

60話

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帝都に珍しく、風の吹かない朝が訪れた。

窓辺のカーテンは揺れず、鳥の羽ばたきさえ遠く感じる。  
ルゥナ=フェリシェは、庭先のベンチに腰掛けたまま、ふと手のひらを見つめた。  
何かが違う。けれど、それが何かは言葉にならなかった。

「今日は……風の音がいたしませんわね」

彼女の声を受けて、足元の猫が鳴いた。  
紅茶の湯気は、いつもよりまっすぐに空へ昇っていく。  
音も、匂いも、すべてが“静か”すぎるその空気に、ルゥナはなぜか胸を押さえた。

ざわめき。  
どこか落ち着かない感覚。  
けれど痛みではない。熱でもない。ただ、空白のようなもの。

そのとき、ひとりの給仕が封筒を手に現れた。

「団長閣下より、お手紙をお預かりしております」

リヒャルトからの手紙。  
それだけで、胸のざわめきが少しだけ輪郭を帯びる気がした。

封を切り、開いたのは、たった一行。

――貴女が望むなら、私は風になる。

それだけだった。  
それなのに、ルゥナの指が小さく震えた。

「……風に、なってくださる……?」

呟いたその言葉は、自分でも初めて聞く響きだった。  
風は、ただ流れているもの。  
自分が流されてきたもの。  
これまでずっと、どこまでも自由に吹くものだと思っていた。

けれど。

“誰かが風になろうとしてくれていた”  
それが、自分のために吹いてくれていたのだと気づいたとき、  
ルゥナの胸のざわめきは、ようやく名前を得る。

――恋。

それは思ったよりも、あたたかく、静かなものだった。

彼女は手紙をそっと胸元にしまい、立ち上がる。

風は吹かない。  
けれど、不思議と寂しくなかった。

「では……今日の風は、わたくしが見つけに行きましょうか」

猫がついてくる。  
日傘を取り、軽やかに一歩踏み出したその先に、  
かすかに風が動いたような気がした。

それは、確かに“誰かの形”をしていた。
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