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第1話 夫の優先順位
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蝋燭の炎が、じりじりと音を立てて芯を焦がしている。屋敷の食堂にある長大なテーブルには、銀食器が整然と並べられていた。磨き上げられたカトラリーは、主の不在を嘲笑うかのように冷たい輝きを放っている。
柱時計が重々しい音を立てて、夜の十時を告げた。
「……奥様。これ以上はお体に障ります」
老執事のセバスチャンが痛ましげな表情で私、エリザ・フォン・レインバーグに声をかけた。私はゆっくりと顔を上げる。
第七回目の結婚記念日で、今夜のために用意させた極上の鴨のコンフィは、厨房で温め直されることもなく冷え切っていることだろう。
「オスカー様は、まだ戻られないの?」
「はっ……。先ほど、使いの者が参りました」
「使いの者? ご本人ではなく?」
セバスチャンが言い淀む。その僅かな間の取り方で私は全てを悟った。ああ、またあちらかと。胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。
「……マリア様が、急な発熱で倒れられたとのことで」
「発熱」
私は小さく溜息をついた。マリアは夫オスカーの幼馴染であり、一年前に離婚して出戻ってきた男爵令嬢。
そして、あろうことか夫が屋敷の近くに別邸まであてがって世話をしている可哀想なシングルマザー。
先週は「息子のカイル君が怪我をした」その前は「嵐が怖くて眠れない」そして今夜は「マリアが発熱」だ。
「……そう。それは大変ね」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。普通ならここで怒るべきなのかもしれない。
皿の一枚でも割って、「私とあの女、どっちが大事なの!」と叫べば、少しは気が晴れるのだろうか。
けれど、私は公爵家の娘として厳しく育てられた。感情を露わにして取り乱すなど矜持が許さない。
それに何より夫は困っている友人を助けるという、彼なりの正義を行っているつもりなのだ。そこを責めれば、私が心の狭い冷酷な妻になる。それが彼の理屈だった。
「使いの者は、夫がいつ戻ると?」
「それが……マリア様の容態が落ち着くまで、ついていてやりたいと」
「……記念日のディナーをすっぽかして?」
「申し訳ございません」
セバスチャンが深く頭を下げる。彼が謝る必要などないのに。私はナプキンをテーブルに置いた。絹の擦れる音が、静寂に大きく響く。
「セバスチャン、主治医のスタン先生を呼んでちょうだい」
「えっ? 奥様、お加減が……」
「違うわ。マリア様よ。熱発で倒れられたのでしょう? 素人のオスカー様がついていたところで、何の役にも立たないわ。専門家を派遣するのが、本妻としての『務め』でしょう?」
私は立ち上がった。心配するふりをして様子を見に行く。いや、ふりではない。万が一本当に重篤なら大変だ。そう、私は正しいことをする。誰に恥じることもない正当な行いだ。
そう自分に言い聞かせなければ、惨めさで足がすくんでしまいそうだったから。
馬車の車輪が石畳を叩く音が、私の心拍数と重なる。マリアの住む別邸は、馬車で十五分ほどの距離にあった。皮肉なことに、そこはかつて私たちが新婚時代を過ごすはずだった離れだ。
「マリアには住むところがないから」と、オスカーが強引に彼女を住まわせてしまった場所。
夜気は冷たく、窓ガラスが白く曇る。隣には、急な呼び出しにも関わらず駆けつけてくれたスタン医師が控えている。彼は何も聞かず、ただ私の横顔を気遣わしげに見つめていた。
「到着いたしました」
御者の声と共に、馬車が止まる。私は窓の外を見た。
「……あら?」
違和感があった。熱を出して倒れている病人がいる家にしては、あまりにも明るい。一階の食堂からは、煌々とした明かりが漏れ、カーテンの隙間から暖かな色が溢れ出ている。
もしや、医者を呼ぶ暇もなく慌てふためいているのだろうか。
「急ぎましょう」
私はショールを羽織り直し、馬車を降りた。スタン医師も慌てて後に続く。玄関へと向かう足音が、砂利を踏みしめる。その時だった。
『あはははは! オスカーったら、やめてよぉ!』
鈴を転がすような甘ったるい笑い声。私の足が止まって心臓が嫌な音を立てて跳ねた。それは苦しむ病人の声ではなくて、とびきり楽しそうなマリアの声だ。
柱時計が重々しい音を立てて、夜の十時を告げた。
「……奥様。これ以上はお体に障ります」
老執事のセバスチャンが痛ましげな表情で私、エリザ・フォン・レインバーグに声をかけた。私はゆっくりと顔を上げる。
第七回目の結婚記念日で、今夜のために用意させた極上の鴨のコンフィは、厨房で温め直されることもなく冷え切っていることだろう。
「オスカー様は、まだ戻られないの?」
「はっ……。先ほど、使いの者が参りました」
「使いの者? ご本人ではなく?」
セバスチャンが言い淀む。その僅かな間の取り方で私は全てを悟った。ああ、またあちらかと。胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。
「……マリア様が、急な発熱で倒れられたとのことで」
「発熱」
私は小さく溜息をついた。マリアは夫オスカーの幼馴染であり、一年前に離婚して出戻ってきた男爵令嬢。
そして、あろうことか夫が屋敷の近くに別邸まであてがって世話をしている可哀想なシングルマザー。
先週は「息子のカイル君が怪我をした」その前は「嵐が怖くて眠れない」そして今夜は「マリアが発熱」だ。
「……そう。それは大変ね」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。普通ならここで怒るべきなのかもしれない。
皿の一枚でも割って、「私とあの女、どっちが大事なの!」と叫べば、少しは気が晴れるのだろうか。
けれど、私は公爵家の娘として厳しく育てられた。感情を露わにして取り乱すなど矜持が許さない。
それに何より夫は困っている友人を助けるという、彼なりの正義を行っているつもりなのだ。そこを責めれば、私が心の狭い冷酷な妻になる。それが彼の理屈だった。
「使いの者は、夫がいつ戻ると?」
「それが……マリア様の容態が落ち着くまで、ついていてやりたいと」
「……記念日のディナーをすっぽかして?」
「申し訳ございません」
セバスチャンが深く頭を下げる。彼が謝る必要などないのに。私はナプキンをテーブルに置いた。絹の擦れる音が、静寂に大きく響く。
「セバスチャン、主治医のスタン先生を呼んでちょうだい」
「えっ? 奥様、お加減が……」
「違うわ。マリア様よ。熱発で倒れられたのでしょう? 素人のオスカー様がついていたところで、何の役にも立たないわ。専門家を派遣するのが、本妻としての『務め』でしょう?」
私は立ち上がった。心配するふりをして様子を見に行く。いや、ふりではない。万が一本当に重篤なら大変だ。そう、私は正しいことをする。誰に恥じることもない正当な行いだ。
そう自分に言い聞かせなければ、惨めさで足がすくんでしまいそうだったから。
馬車の車輪が石畳を叩く音が、私の心拍数と重なる。マリアの住む別邸は、馬車で十五分ほどの距離にあった。皮肉なことに、そこはかつて私たちが新婚時代を過ごすはずだった離れだ。
「マリアには住むところがないから」と、オスカーが強引に彼女を住まわせてしまった場所。
夜気は冷たく、窓ガラスが白く曇る。隣には、急な呼び出しにも関わらず駆けつけてくれたスタン医師が控えている。彼は何も聞かず、ただ私の横顔を気遣わしげに見つめていた。
「到着いたしました」
御者の声と共に、馬車が止まる。私は窓の外を見た。
「……あら?」
違和感があった。熱を出して倒れている病人がいる家にしては、あまりにも明るい。一階の食堂からは、煌々とした明かりが漏れ、カーテンの隙間から暖かな色が溢れ出ている。
もしや、医者を呼ぶ暇もなく慌てふためいているのだろうか。
「急ぎましょう」
私はショールを羽織り直し、馬車を降りた。スタン医師も慌てて後に続く。玄関へと向かう足音が、砂利を踏みしめる。その時だった。
『あはははは! オスカーったら、やめてよぉ!』
鈴を転がすような甘ったるい笑い声。私の足が止まって心臓が嫌な音を立てて跳ねた。それは苦しむ病人の声ではなくて、とびきり楽しそうなマリアの声だ。
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