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第2話 夫への決別
『ほら、カイル。もっと食え。男の子なんだから大きくならないとな』
『うん! これおいしい! やっぱりパパの切ってくれたお肉は最高だね!』
パパ? その単語が、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺した。カイルの父親はマリアの元夫だ。私の夫、オスカーではない。
だというのに、あの子供はオスカーをそう呼んでいるのか? そしてオスカーは、それを訂正もせずに受け入れているのか?
私は吸い寄せられるように、光の漏れる窓辺へと近づいた。レースのカーテン越しに見える光景。それは、あまりにも残酷で、あまりにも幸せな家族の食卓だった。
暖炉には火が入り、部屋全体をオレンジ色に染めている。テーブルの中央には、湯気を立てる家庭的な煮込み料理。マリアは豪奢なネグリジェのような部屋着をまとい、顔を赤らめてワイングラスを傾けている。
熱があるようには見えない。ただ、酔っているだけだ。そして、その隣には私の夫のオスカー。彼は上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げて、甲斐甲斐しくカイルの皿に料理を取り分けている。
私との食事では一度も見せたことのない、無防備で安らいだ笑顔だった。
『マリア、大丈夫か? 顔が赤いぞ』
『んふふ、もう大丈夫よぉ。オスカーが来てくれたから、お熱なんて飛んでいっちゃったみたい』
『まったく、お前は子供の頃から手がかかるな。俺がいないと何もできないんだから』
オスカーは呆れたように言いながらも、その目尻は下がっていた。愛おしそうにマリアの髪を撫でる。その手は、私が七年間ずっと求めていたものだった。記念日の夜に、私が待ち続けていた温もりだった。
――プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。それは怒りの導火線ではない。私と夫を繋ぎ止めていた最後の一本の糸。情とか、義務とか、淡い期待とか呼ばれるものが音もなく断ち切られたのだ。
私は今日、七回目の結婚記念日に、夫のためにドレスを新調した。息子であるノアも、父親に会えるのを楽しみにして、眠い目をこすりながら待っていた。
「お父様、来てくれるかな」と不安げに呟く彼を「大丈夫よ」と寝かしつけたばかりだ。
なのに、貴方はここにいるのね。私の「大丈夫」を嘘にして。本当の家族を冷たい屋敷に置き去りにして、ここでおままごとに興じているのね。
「……奥様」
背後でスタン医師が、気まずそうに声をかけてくる。私は深呼吸を一つした。冷たい夜気が肺を満たし、熱くなりかけた頭を急速に冷却していく。
泣くものですか。こんな茶番劇のために、涙の一滴でも流すなんてもったいない。
「行きましょう、先生」
「えっ? あ、あの中に踏み込まないのですか?」
「ええ。病人はいないようですもの。それに……」
私は窓硝子に映る自分の顔を見た。そこには、悲嘆に暮れる侯爵夫人の顔はなかった。氷のように冷たく、けれどどこか清々しいほどに無表情な公爵令嬢としての私がいた。
「他人の家庭の団欒を邪魔するのは、無作法というものですわ」
私は踵を返した。玄関の扉を開けることもしない。怒鳴り込むこともしない。ただ、この瞬間、オスカー・フォン・レインバーグという男は、私の人生から夫としての籍を抜かれた。
私の心の中で、彼はすでに他人以下の存在へと成り下がったのだ。
馬車に戻る足取りは、来る時よりもずっと軽かった。明日からは忙しくなる。愚かな夫と、図々しい愛人とその子供。
彼らが築き上げたこの身勝手な砂上の楼閣を、基礎から徹底的に叩き壊すための準備をしなくてはならないのだから。
見上げれば、夜空には満月が輝いていた。それは私の行く末を照らすように冷厳で、それでいて美しく冴え渡っていた。
「さようなら、私の愛した人」
小さく呟いた言葉は、夜風にさらわれて消えた。屋敷に戻ったら、まずは冷え切った鴨のコンフィを処分させよう。そして明日、一番に弁護士と私の唯一無二の協力者たちに手紙を書くのだ。
私の本当の人生を始めるために。
『うん! これおいしい! やっぱりパパの切ってくれたお肉は最高だね!』
パパ? その単語が、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺した。カイルの父親はマリアの元夫だ。私の夫、オスカーではない。
だというのに、あの子供はオスカーをそう呼んでいるのか? そしてオスカーは、それを訂正もせずに受け入れているのか?
私は吸い寄せられるように、光の漏れる窓辺へと近づいた。レースのカーテン越しに見える光景。それは、あまりにも残酷で、あまりにも幸せな家族の食卓だった。
暖炉には火が入り、部屋全体をオレンジ色に染めている。テーブルの中央には、湯気を立てる家庭的な煮込み料理。マリアは豪奢なネグリジェのような部屋着をまとい、顔を赤らめてワイングラスを傾けている。
熱があるようには見えない。ただ、酔っているだけだ。そして、その隣には私の夫のオスカー。彼は上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げて、甲斐甲斐しくカイルの皿に料理を取り分けている。
私との食事では一度も見せたことのない、無防備で安らいだ笑顔だった。
『マリア、大丈夫か? 顔が赤いぞ』
『んふふ、もう大丈夫よぉ。オスカーが来てくれたから、お熱なんて飛んでいっちゃったみたい』
『まったく、お前は子供の頃から手がかかるな。俺がいないと何もできないんだから』
オスカーは呆れたように言いながらも、その目尻は下がっていた。愛おしそうにマリアの髪を撫でる。その手は、私が七年間ずっと求めていたものだった。記念日の夜に、私が待ち続けていた温もりだった。
――プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。それは怒りの導火線ではない。私と夫を繋ぎ止めていた最後の一本の糸。情とか、義務とか、淡い期待とか呼ばれるものが音もなく断ち切られたのだ。
私は今日、七回目の結婚記念日に、夫のためにドレスを新調した。息子であるノアも、父親に会えるのを楽しみにして、眠い目をこすりながら待っていた。
「お父様、来てくれるかな」と不安げに呟く彼を「大丈夫よ」と寝かしつけたばかりだ。
なのに、貴方はここにいるのね。私の「大丈夫」を嘘にして。本当の家族を冷たい屋敷に置き去りにして、ここでおままごとに興じているのね。
「……奥様」
背後でスタン医師が、気まずそうに声をかけてくる。私は深呼吸を一つした。冷たい夜気が肺を満たし、熱くなりかけた頭を急速に冷却していく。
泣くものですか。こんな茶番劇のために、涙の一滴でも流すなんてもったいない。
「行きましょう、先生」
「えっ? あ、あの中に踏み込まないのですか?」
「ええ。病人はいないようですもの。それに……」
私は窓硝子に映る自分の顔を見た。そこには、悲嘆に暮れる侯爵夫人の顔はなかった。氷のように冷たく、けれどどこか清々しいほどに無表情な公爵令嬢としての私がいた。
「他人の家庭の団欒を邪魔するのは、無作法というものですわ」
私は踵を返した。玄関の扉を開けることもしない。怒鳴り込むこともしない。ただ、この瞬間、オスカー・フォン・レインバーグという男は、私の人生から夫としての籍を抜かれた。
私の心の中で、彼はすでに他人以下の存在へと成り下がったのだ。
馬車に戻る足取りは、来る時よりもずっと軽かった。明日からは忙しくなる。愚かな夫と、図々しい愛人とその子供。
彼らが築き上げたこの身勝手な砂上の楼閣を、基礎から徹底的に叩き壊すための準備をしなくてはならないのだから。
見上げれば、夜空には満月が輝いていた。それは私の行く末を照らすように冷厳で、それでいて美しく冴え渡っていた。
「さようなら、私の愛した人」
小さく呟いた言葉は、夜風にさらわれて消えた。屋敷に戻ったら、まずは冷え切った鴨のコンフィを処分させよう。そして明日、一番に弁護士と私の唯一無二の協力者たちに手紙を書くのだ。
私の本当の人生を始めるために。
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