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5.悪夢
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夜が深まると、小さな家の中には独特の緊張感と不思議な安らぎが満ちていた。
カタリーナは自分が使っている唯一のベッドをギルに譲ろうとしたが、彼は「カタリーナが使え」と素っ気なく首を振った。
「俺は床で十分だ。そんな小さなベッドで寝たら落ちてまた怪我を増やす」
「でも、怪我人なのよ? せめてこの毛布だけでも使って」
押し問答の末、ギルは部屋の隅に、藁を厚く敷いてその上に毛布を纏って横たわることになった。
カタリーナは申し訳なさを感じつつも、自分もベッドに潜り込む。
「……おやすみなさい、ギル」
「ああ、おやすみ」
暗闇の中で交わされた短い挨拶。
いつもなら冷たい風が壁の隙間から入り込む音だけを聞きながら眠りにつくのだが、今夜は違う。
部屋の隅から、自分よりもずっと力強く、規則正しい呼吸の音が聞こえてくる。
誰かが同じ屋根の下にいる。それだけのことが、こんなにも心を落ち着かせるものだとは知らなかった。カタリーナは久しぶりに、穏やかな心地で意識を手放した。
――それなのに。
暗闇は、彼女が一番見たくない記憶を連れてやってきた。
『カタリーナ、またメアリーを苛めたのか!』
夢の中で伯爵の怒号が響く。
真っ赤なワインが、頭から容赦なく降り注ぐ。冷たい液体が首筋を伝い、母の形見であったブレスレットが床に散らばり、誰かの靴に無残に踏みつけられる。
『お姉様がひどいんです』
『あぁ可哀想なメアリー』
義母の冷ややかな嘲笑。義妹の勝利を確信したような泣き真似。
どれだけ謝っても、どれだけ誠実に振る舞っても、味方は一人もいない。
どれだけ手を伸ばしても、ブレスレットには届かなかった。
(息が、できない……っ)
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がヒリつく。助けて、と言おうとしても声が出ない。
逃げ場のない絶望に飲み込まれそうになった瞬間――。
「……っ!!」
カタリーナは弾かれたように跳ね起き、大きく息を吸い込んだ。
視界がチカチカと火花を散らす。全身が嫌な汗で湿り、指先がガタガタと震えていた。
一瞬、自分がまだあの伯爵邸の、埃っぽい屋根裏に閉じ込められているのだと錯覚した。
けれどその時、部屋の隅から微かな衣擦れの音が聞こえた。
ハッとして視線を向けると、そこには暗闇に紛れて、大きな影が横たわっているのが見えた。
藁が擦れる音。深く、落ち着いた呼吸の音。
(……そうだ。私はもう、あの家にはいない)
ここはクリーニア辺境区。
ボロいけれど、自分が自分の足で手に入れた自由な居場所。
そしてここにはギルがいる。
カタリーナは乱れた呼吸を整えようと、胸に手を当てた。
外では静かな雨が降り始めている。屋根を叩く規則正しい雨音と、部屋の隅にいるギルの気配。
それらが過去の亡霊に侵食されかけた彼女の心を、ゆっくりと現実へと引き戻してくれた。
(大丈夫。大丈夫よ)
ギルの気配を感じるだけで、凍りついていた体温がじんわりと戻ってくるのを感じる。
「ようやく逃げられたのよ。……今の生活は最高よ。あいつらと一緒に暮らさなくていいんだから」
自分に言い聞かせるようなその言葉は、雨音に紛れて消えていく。
震えが収まるのを待って、カタリーナは再びゆっくりと横になった。
(あー……夢で見るってことは、私けっこう傷ついていたのかな)
部屋の隅にいる影は、もう微動だにしなかった。
彼は深く眠っているのだろうか。それとも、この微かな呟きを聞いていただろうか。
そんな疑問も戻ってきた穏やかな眠気の中に溶けていく。
カタリーナはギルのいる方向をじっと見つめながら、今度こそ深く静かな眠りへと落ちていった。
一人ではない。その事実が、彼女にとって何よりの特効薬だった。
カタリーナは自分が使っている唯一のベッドをギルに譲ろうとしたが、彼は「カタリーナが使え」と素っ気なく首を振った。
「俺は床で十分だ。そんな小さなベッドで寝たら落ちてまた怪我を増やす」
「でも、怪我人なのよ? せめてこの毛布だけでも使って」
押し問答の末、ギルは部屋の隅に、藁を厚く敷いてその上に毛布を纏って横たわることになった。
カタリーナは申し訳なさを感じつつも、自分もベッドに潜り込む。
「……おやすみなさい、ギル」
「ああ、おやすみ」
暗闇の中で交わされた短い挨拶。
いつもなら冷たい風が壁の隙間から入り込む音だけを聞きながら眠りにつくのだが、今夜は違う。
部屋の隅から、自分よりもずっと力強く、規則正しい呼吸の音が聞こえてくる。
誰かが同じ屋根の下にいる。それだけのことが、こんなにも心を落ち着かせるものだとは知らなかった。カタリーナは久しぶりに、穏やかな心地で意識を手放した。
――それなのに。
暗闇は、彼女が一番見たくない記憶を連れてやってきた。
『カタリーナ、またメアリーを苛めたのか!』
夢の中で伯爵の怒号が響く。
真っ赤なワインが、頭から容赦なく降り注ぐ。冷たい液体が首筋を伝い、母の形見であったブレスレットが床に散らばり、誰かの靴に無残に踏みつけられる。
『お姉様がひどいんです』
『あぁ可哀想なメアリー』
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どれだけ謝っても、どれだけ誠実に振る舞っても、味方は一人もいない。
どれだけ手を伸ばしても、ブレスレットには届かなかった。
(息が、できない……っ)
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がヒリつく。助けて、と言おうとしても声が出ない。
逃げ場のない絶望に飲み込まれそうになった瞬間――。
「……っ!!」
カタリーナは弾かれたように跳ね起き、大きく息を吸い込んだ。
視界がチカチカと火花を散らす。全身が嫌な汗で湿り、指先がガタガタと震えていた。
一瞬、自分がまだあの伯爵邸の、埃っぽい屋根裏に閉じ込められているのだと錯覚した。
けれどその時、部屋の隅から微かな衣擦れの音が聞こえた。
ハッとして視線を向けると、そこには暗闇に紛れて、大きな影が横たわっているのが見えた。
藁が擦れる音。深く、落ち着いた呼吸の音。
(……そうだ。私はもう、あの家にはいない)
ここはクリーニア辺境区。
ボロいけれど、自分が自分の足で手に入れた自由な居場所。
そしてここにはギルがいる。
カタリーナは乱れた呼吸を整えようと、胸に手を当てた。
外では静かな雨が降り始めている。屋根を叩く規則正しい雨音と、部屋の隅にいるギルの気配。
それらが過去の亡霊に侵食されかけた彼女の心を、ゆっくりと現実へと引き戻してくれた。
(大丈夫。大丈夫よ)
ギルの気配を感じるだけで、凍りついていた体温がじんわりと戻ってくるのを感じる。
「ようやく逃げられたのよ。……今の生活は最高よ。あいつらと一緒に暮らさなくていいんだから」
自分に言い聞かせるようなその言葉は、雨音に紛れて消えていく。
震えが収まるのを待って、カタリーナは再びゆっくりと横になった。
(あー……夢で見るってことは、私けっこう傷ついていたのかな)
部屋の隅にいる影は、もう微動だにしなかった。
彼は深く眠っているのだろうか。それとも、この微かな呟きを聞いていただろうか。
そんな疑問も戻ってきた穏やかな眠気の中に溶けていく。
カタリーナはギルのいる方向をじっと見つめながら、今度こそ深く静かな眠りへと落ちていった。
一人ではない。その事実が、彼女にとって何よりの特効薬だった。
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