婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!

山田 バルス

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第31話 クラリッサ=リドグレイ 婚約破棄される

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『ガラスの婚約』
―紅き薔薇、契りの終焉―
 クラリッサ=リドグレイは、真紅のドレスを身にまとい、王都の貴族街にあるサロンの個室でひとり座っていた。

 銀糸の刺繍が施された絹のドレス。完璧な化粧。欠けのない笑み。

 けれど、胸の奥はざわついていた。

 ローマン=アルヴィス。
 彼と最後に顔を合わせたのは、数日前。いつもなら週に三度は顔を見せてくれるはずの彼が、今は何の連絡もよこさない。

 そして今朝、彼から届けられた手紙。

 《本日、昼下がり。サロンにて会いたい》

 その文面は丁寧だったが、どこかよそよそしい筆跡に、クラリッサは嫌な予感を拭えなかった。

 カチャリとドアの開く音がする。

 彼が来た。

 赤いマントに金糸の縁取り、切れ長の瞳と整った顔立ち。
 文武両道と名高い王都の青年貴族――ローマン=アルヴィス。かつて、誰もが羨んだ二人だった。

「お待たせしました、クラリッサ嬢」

「ええ、ずいぶんと……ご無沙汰だったわね?」

 努めて微笑む。だが、ローマンは目を合わせようとしなかった。

 クラリッサの胸が、ギリ、と音を立てて軋む。

「……何の用? まさか、久々にお茶でも、と?」

「……いえ。今日は、大切なお話があって参りました」

 ローマンは深く息を吐き、静かに告げた。

「――婚約を、破棄させていただきたいのです」

 その言葉が空気を切り裂いた。

「……何ですって?」

「繰り返します。クラリッサ=リドグレイ嬢との婚約を、正式に取りやめたいと考えています」

 目の前の景色が、ぐらりと揺れる。

「どうして……? 私の何が、いけなかったの?」

 クラリッサは必死に問い詰める。声が震えるのを抑えられなかった。

 ローマンは黙ったまま、彼女を見つめていた。

 その瞳に、かつての優しさはなかった。

「トリノの件でしょう?」

「……関係は、あります」

 ローマンの声は冷静だった。

「トリノ嬢が正式にリドグレイ伯爵家の後継者であると、王家の文書でも確認されました。貴族として、私は“未来ある家”と結ぶ必要がある」

「……つまり、私が“未来のない女”だと、そう言いたいのね」

「そういう言い方はしたくありません」

「だったら何!? 私は、ずっとあなたの隣にふさわしくあろうと――」

 言葉が喉に詰まる。

「私が誰より美しく、聡明で、社交界で注目を集めていたこと……あなたが一番知ってるはずでしょう!?」

「確かに、あなたは完璧でした。ですが……それは、仮面のようにも見えた」

「――何ですって?」

「あなたは、弱さを見せない。でも、人の弱さも認めない」

 その言葉が、刃のように突き刺さる。

「トリノ嬢は……たしかに魔力はない。けれど、あの子は人を見下さない。使用人にも、笑いかける。音楽隊の仲間を、本気で思っている。そんな姿を、私は初めて見たんです」

「じゃあ、あなたは私より“あの子”を選ぶの?」

 クラリッサは信じられなかった。

 “灰かぶり令嬢”と呼ばれた少女。
 その娘に、自分が負けたという現実。

 「ねえ……ローマン。あなたが私を選ばなかったら……私は、誰が見てくれるの?」

 泣きたくなかった。でも、瞳の奥が滲んでいく。

「……クラリッサ。私たちは、もう別の道を歩むべきです」

「子供が……いるのよ」

 震える声で、クラリッサは言った。

「あなたとの子よ。だから、婚約破棄なんて……できるはずがないわ」

 ローマンの瞳が細くなる。

「……それは、嘘だ」

「なっ……!」

「すでに医師に確認しました。あなたが受診したという医師も、“懐妊は確認できなかった”と証言しています」

 言葉が出なかった。

 ――見抜かれていた。

「……あなたは、焦っていたのだと思います」

 ローマンは立ち上がり、帽子を取って静かに頭を下げた。

「さようなら、クラリッサ嬢。あなたの未来に、幸多からんことを」

 その姿は、凛としていた。
 そしてもう二度と、自分の隣には戻らないと、はっきり分かった。

 クラリッサは、立ち尽くした。

 薔薇のドレスが、絹擦れの音を立てて震えた。

 頬に涙が伝っても、拭う手はなかった。

 完璧であろうとした“塔の薔薇”は、静かに、音もなく散っていった。
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