1 / 33
一章
1.それは突然に
しおりを挟む
思えば、今日は朝からツイてなかった。
目覚ましはかけ忘れるし、お気に入りのピアスは見つからないし、仕事では押印予定の契約書類を紛失してしまうし。
プライベートの方はともかく、仕事の方は痛手だった。
すぐに関係者に報告と謝罪をして、幸い大きな問題にはならなかったものの、久しぶりにしでかした大きなミスに、彼女――久遠香澄は、ずっとそのことを引きずって一日を過ごした。
時刻は夜7時、ミスの後処理に押されて定時内に捌ききれなかった仕事をこなしていると、背後から興奮気味な女性社員達の声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた?H社の件」
「ああ、聞いた。また永瀬さんが新規案件取ってきたって。それも億超えの超大型」
「さすが元エース、課長になってもまだまだ現役じゃん」
「それなのに全然驕ることもないし、私達みたいな一事務員にも気さくで優しいし、理想の上司だよね」
「上司が永瀬さんじゃなかったら、今頃私もうこの会社辞めてたかも」
「奇遇だね、私もだよ?」
くすくす笑う彼女達の話題の中心は、永瀬紘司――三十代前半の男性で、人当たりの良い笑顔と柔らかな話し方で親しみやすい雰囲気を持つ、自社の営業一課課長だ。
彼の評判は、部門が異なる香澄の耳にも届いている。
仕事は厳しいと噂される一方で、褒める時は褒めるし、私的な相談にも乗ってくれるので、部下からは慕われているらしい。
約一年前に課長に昇進した彼は、新人時代からその才能を遺憾なく発揮し、主に法人営業を取り扱う営業一課のエースとして他の追随を許さない程の成績を誇っていた。
現在は部下育成や業績管理がメイン業務であるものの、今だに彼でなければ契約を渋る顧客も多々いるらしいので、相当信頼されているのだろう。
(すごいなあ、永瀬さん。人望があって、尊敬されて、評価されて。それに対して私は…)
考えないようにしていた昼間の失敗が蘇ってきて、香澄は小さく息を吐いた。
起きてしまった事実はもう取り消せないのに、後悔だけは残ったままだ。今朝から全てをやりなおすことができたならどんなにいいことだろう。
何より、ミスして迷惑をかけてしまった人がいけなかった。
そう、一番精神的に凹んでいるのは多分そこなのだ。なぜなら、その人とは…。
(…今更悔やんでも仕方ない。私は私のやるべきことをやろう)
そう気を取り直して、香澄は再び仕事に没頭し始めた。
仕事は好きなので、やり始めれば夢中になる。少しでも多くこなして、今日のミスを挽回したい。
――しかし、今日の悪運はまだ尽きていなかったらしい。
1時間ほど残業して帰宅しようとしたところで、今度は営業事務の天沢沙世に捕まってしまった。
「久遠さん、ちょっといいですか」
香澄が退社しようとしていることは一目瞭然なのに、何の躊躇いもなくかけられた声。
にこりと向けられた笑顔は絵画のように美しいが、それだけでは終わらないことを知っている。
嫌な予感がして、香澄は一瞬にして顔を強張らせた。
「すみません、お帰りになるところ。実は急ぎご相談したい件がありまして、少しだけお時間いただけないでしょうか」
丁寧な口調とは裏腹に、その瞳には絶対に帰らせないという強い意思が見て取れる。
香澄は内心大きなため息をつきつつ、「少しなら」と何とか笑顔を浮かべた。
(またか…)
にこやかな表情の下で、香澄は今すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られた。というのも…香澄は天沢が苦手だった。
華のように美しい容姿をもつ一方で感情の起伏が激しく、機嫌がいい時と悪い時の様子があからさまに違うのだ。
しかも相手によって――それが男性だと特に――態度が違うのも好意を持てない理由だ。
それだけなら、まだよかったかもしれない。なるべく接触しないようにしよう、で終われただろう。だが残念ながらそう簡単にいかないのが現実だ。
香澄は総務部に属しているが、総務と言っても自社の仕事範囲は幅広く、社内の備品管理から稟議や契約の審査、押印対応など多岐に渡る。
香澄のメイン業務は営業が取ってきた案件の精査・管理なので、天沢の所属する営業部門とは関わりが深い。
加えて天沢は営業事務でもベテランの方で対応件数もそれなりに多く、どうしたって避けて通ることができない立場の人間なのだ。
(…だからって、なんで私にばかり)
以前はこうではなかったのに、と香澄は思う。
きっかけは多分、この4月に総務部が営業部と同じフロアに移転してきたことだ。
すぐ近くの席で仕事するようになってからというもの、なぜか天沢は香澄にばかり構った。それも決して友好的とはいえない言葉と態度で。
例えば精査中に資料の差し替えをしてきたり、押印場所の微妙なズレが気に入らないと再押印を求めてきたり、今回のように急ぎ案件を帰宅間際に持ってきたり…。
最初こそ特に気にしていなかったが、何度もそういうことが重なればさすがに意図的だと気付く。
でも香澄は決してそれを顔に出さないように配慮してきたし、できる限り丁寧に対応していたつもりだ。ただでさえ苦手意識があるのに、変に波風を立てて更に仕事をやりにくくしたくなかったから。
とはいえ、天沢に名前を呼ばれると体が強張ってしまうのはもはや自分でもどうしようもない。
仕事なのだから割り切らねばならないと、分かってはいても。
「こちらなんですけど」
肩にかけたバッグを香澄が下ろすと同時に――もしかするとそれより早く――、彼女のデスクにどさっと重い音をたてて置かれた資料。
1件だけのようだがクリアファイルに詰め込まれたそれは数センチの厚みがあって、香澄は思わず眉を顰めた。
「来月業務開始の契約なのですが、至急精査していただきたいんです。今日中に」
「今日中…ですか」
香澄はそれを聞いて目が眩む思いがした。
この量だと、少なくとも精査に1時間はかかるだろう。今日は色々あって疲れてしまったので、早く帰りたいのが本音だった。しかし他の担当者は帰宅しており、誰かに委ねることもできない。
そもそも、精査完了希望の2日前が総務への提出期限である。それをこのタイミングで提出してくること自体、無茶ぶりとしか言いようがない。
「あの、でも定時外なので、受付は明日に――」
なるので精査も明日以降になる、と言いかけた香澄を、天沢の高い声が遮った。
「こちらのお客様なんですが、明日中の提出を希望されていて。納期に厳しい方で、遅れると失注する可能性もあるみたいなんです。無理を言っているのは重々承知ですが、金額もなかなか大きいのでなんとかならないでしょうか?」
言われて、香澄はぐっと反論を呑みこんだ。失注もありえる急ぎ案件と言われては、さすがに断りにくい。
ルール上は突き返すこともできなくはないが、その場合さらに仕事がやりづらくなる可能性だってある。
ここは甘んじて受け入れた方がいろんな意味で得策だろう。
「…分かりました。今回に限り、対応します。ただし、今後は総務への提出期限を守るか、せめてもう少し早くご相談ください」
注意したつもりだが、天沢の表情は少しも動かない。まるでそう言われるのは最初から分かっていたというように。
「ありがとうございます。お手数をおかけしますがよろしくお願いします。――あ、私はもう帰宅しますので、終わったら私の机の上に置いておいてくださいね」
勝ち誇った笑顔と何の背徳感もないその言葉に、香澄は呆れて何も言えなくなった。
それほど重要な案件なのに、見届けずに帰るつもりなのだろうか、この人は。もし内容に誤りがあったらどうするつもりなのだろう――そこまで思ったが、口にするのはやめた。
経験上、無理に言い返すと却って面倒なことになると知っている。ここは黙って頷いて、もしもの時は毅然とした態度で差し戻せばいいだろう。
「…承知しました」
香澄が了承すると、天沢は「では、お先に失礼します」と微笑み、バッグを手に取って執務スペースを出て行った。
***
予定外の残業を終えて執務スペースを後にしながら、香澄は言いようのない不満を募らせていた。
急ぐからと天沢は言っていたが、蓋を開けてみればとてもそうとは思えなかったからだ。
彼女が提出した資料のヘッダーに記載されていた出力日時は今日の午後2時。
ルール上、ヘッダーには添付資料の内容や枚数を記入することになっているため、まずは必要資料を全て揃え、最後にヘッダーを作ることになる。
そしてそのヘッダーも基本的には稟議書からの転用で必要項目をいくつか書き足す程度なので、作成に時間はほとんどかからない。
つまり――午後2時の時点で準備は完了していた。
それなのに、香澄が帰宅する時を狙って提出してきたのだ。
本当に急ぐ案件なら、なぜ時間を空ける必要があるのだろう。
他の仕事で忙しかった?出し忘れていた?
あるいは、わざと出さなかった?
だとしたら、その理由は…。
(――はあ、もう考えるのやめよう)
大きくため息をつき、香澄は思考を巡らせるのを中断させた。
これ以上考えたところで、納得のいく答えに辿り着ける気がしない。
幸い内容に不備はなかったし、これで一件落着、言われたとおり返却済みなのでこの案件に関して天沢に話しかけられることはもうないだろう。
(一つ面倒な仕事を片付けた、それでいいじゃない!ご褒美にスイーツでも買って帰ろう)
香澄は振り切るように大きく息を吐き、会社の外へ踏み出した。
立ち並ぶビルの隙間を春風が通り抜けて、香澄の髪を静かに揺らす。
街に視線を向ければ、初々しいスーツ姿で歩く人達があちこちに見えた。当然ながら自分にもそんな時代があった、と香澄は懐かしく思う。
もともとサービス部門で事務職をやっていた香澄だが、仕事にやりがいを覚え、スキルアップのために本社の社内公募に応募した経緯がある。
運よく総務に拾ってもらってからは、早く役に立ちたくて、毎日必死で仕事を覚えた。
最近は難解案件も少しずつ任せてもらえるようになって、自分の仕事に自信とプライドを持ち始めていた頃だったのに…紛失などという重大なミスを犯してしまって、積み上げてきた信用が台無しだ。
けれど落ち込んでばかりもいられない。この失敗を糧にして次へ進まなければ。
振り返りと再発防止策はすでに頭の中で出来上がっている。
明日の午前中には報告書にまとめて提出、承認をもらえたら他の社員にも共有と注意喚起をして組織として活かす。
そうすれば今回のミスも少しは意味があるというものだ。
…ところが、そう気を持ち直したのも束の間のこと。
ようやく辿りついた駅が、異様なほどに大混雑している。
またしても、とてつもなく嫌な予感を覚えて電光掲示板を見ると――香澄が通勤で使用している路線が、「人身事故により運転見合わせ中。運転再開見込み未定」と表示されていた。
(もう…本当に最悪…)
今日は月曜日、1週間はまだ始まったばかりだというのに、初日から運が悪すぎやしないか。
すり減った気力、凹んだメンタル、疲れた身体にこの仕打ち。
だがこのまま立ち止まることもできない。
遠回りになるけれど、経由地になり得るターミナル駅までは振替輸送で行けるようなので、ひとまずそこへ向かおう…。
そう思って振替輸送先の改札を通りすぎ、乗り場を探していた、その時。
「――久遠さん?」
突然、背後から声をかけられた。
聞き覚えのある声に心臓が跳ね上がり、まさかと思って振り返ると、そこにいたのは。
「な、永瀬さん…!」
凛とした顔立ちが特徴的な、黒い短髪の男性。
高級そうなスーツを緩みなく着こなし爽やかさを纏う彼こそが、営業事務の女性達が噂していた永瀬紘司その人である。
若くして営業課長になるほど仕事ができるだけでなく、見た目も格好良い彼は、男女問わず社員の憧れの的だ。
そして実を言うと――香澄もその一人だったりする。
でもそれは恋愛的な意味ではなく、例えば芸能人を推すような、そういう気持ちだと彼女は認識していた。
遠くから見るだけで満足、目の保養。決して触れられない、触れてはいけない、天上の人…。
「お、おつかれさまです…!」
思わぬ遭遇に緊張してしまって、声に動揺が出てしまった。
会釈してなんとか隠したものの、きっと気付かれてしまっているだろう。
そのことに永瀬は何も言わず微笑んだだけだったが、それは却って香澄の鼓動を無意識に高鳴らせた。
ただでさえ見とれてしまうのに、その笑顔となると破壊級だ。
この笑顔に一瞬で落ちてしまう女性社員も多いと聞く。
だからそうならないよう、この笑顔に深い意味などない、決して勘違いしてはいけない、と香澄は必死で自分に言い聞かせた。
「おつかれさま。突然声かけてびっくりさせちゃったかな。でもこんなところで会うなんて、珍しいなと思って。こっちの路線なんだっけ?俺の勘違いかもしれないけど、なんか困ってるように見えたから」
その言葉で、香澄はこの遭遇の意味を理解した。
つまり、ぎこちなく一人佇む香澄を見て心配して話しかけてくれたのだと。
たまに仕事で話すこともあるので、無視できなかったのだろう。そういう優しい人なのだ、彼は。
「実は、いつも□□線を使っているのですが…運転見合わせで」
「ああ、なるほど。月曜日からしんどいな。どこの駅に住んでるの?」
「××駅です」
「そうなんだ。ってことは復旧しないと帰れない感じ?」
「はい、他に路線も通っていないので…。とりあえず、振替輸送しているようなので○○駅まで行ってみようかと」
「そっか。俺もそっち方面だから、一緒に行こう」
「え…いいんですか?」
てっきり話が終わったらすぐに別れるものだと思っていたので、香澄が驚いて永瀬を見上げると、彼は「もちろん」と頷いた。
「久遠さんが嫌じゃないなら」
「め、滅相もないです!」
「ならよかった」
じゃあこっち、と永瀬に促されて、香澄はその背中を慌てて追いかける。
予想だにしない展開に戸惑いながらも、断る理由なんて、不思議なほど何一つ思いつかなかった。
目覚ましはかけ忘れるし、お気に入りのピアスは見つからないし、仕事では押印予定の契約書類を紛失してしまうし。
プライベートの方はともかく、仕事の方は痛手だった。
すぐに関係者に報告と謝罪をして、幸い大きな問題にはならなかったものの、久しぶりにしでかした大きなミスに、彼女――久遠香澄は、ずっとそのことを引きずって一日を過ごした。
時刻は夜7時、ミスの後処理に押されて定時内に捌ききれなかった仕事をこなしていると、背後から興奮気味な女性社員達の声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた?H社の件」
「ああ、聞いた。また永瀬さんが新規案件取ってきたって。それも億超えの超大型」
「さすが元エース、課長になってもまだまだ現役じゃん」
「それなのに全然驕ることもないし、私達みたいな一事務員にも気さくで優しいし、理想の上司だよね」
「上司が永瀬さんじゃなかったら、今頃私もうこの会社辞めてたかも」
「奇遇だね、私もだよ?」
くすくす笑う彼女達の話題の中心は、永瀬紘司――三十代前半の男性で、人当たりの良い笑顔と柔らかな話し方で親しみやすい雰囲気を持つ、自社の営業一課課長だ。
彼の評判は、部門が異なる香澄の耳にも届いている。
仕事は厳しいと噂される一方で、褒める時は褒めるし、私的な相談にも乗ってくれるので、部下からは慕われているらしい。
約一年前に課長に昇進した彼は、新人時代からその才能を遺憾なく発揮し、主に法人営業を取り扱う営業一課のエースとして他の追随を許さない程の成績を誇っていた。
現在は部下育成や業績管理がメイン業務であるものの、今だに彼でなければ契約を渋る顧客も多々いるらしいので、相当信頼されているのだろう。
(すごいなあ、永瀬さん。人望があって、尊敬されて、評価されて。それに対して私は…)
考えないようにしていた昼間の失敗が蘇ってきて、香澄は小さく息を吐いた。
起きてしまった事実はもう取り消せないのに、後悔だけは残ったままだ。今朝から全てをやりなおすことができたならどんなにいいことだろう。
何より、ミスして迷惑をかけてしまった人がいけなかった。
そう、一番精神的に凹んでいるのは多分そこなのだ。なぜなら、その人とは…。
(…今更悔やんでも仕方ない。私は私のやるべきことをやろう)
そう気を取り直して、香澄は再び仕事に没頭し始めた。
仕事は好きなので、やり始めれば夢中になる。少しでも多くこなして、今日のミスを挽回したい。
――しかし、今日の悪運はまだ尽きていなかったらしい。
1時間ほど残業して帰宅しようとしたところで、今度は営業事務の天沢沙世に捕まってしまった。
「久遠さん、ちょっといいですか」
香澄が退社しようとしていることは一目瞭然なのに、何の躊躇いもなくかけられた声。
にこりと向けられた笑顔は絵画のように美しいが、それだけでは終わらないことを知っている。
嫌な予感がして、香澄は一瞬にして顔を強張らせた。
「すみません、お帰りになるところ。実は急ぎご相談したい件がありまして、少しだけお時間いただけないでしょうか」
丁寧な口調とは裏腹に、その瞳には絶対に帰らせないという強い意思が見て取れる。
香澄は内心大きなため息をつきつつ、「少しなら」と何とか笑顔を浮かべた。
(またか…)
にこやかな表情の下で、香澄は今すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られた。というのも…香澄は天沢が苦手だった。
華のように美しい容姿をもつ一方で感情の起伏が激しく、機嫌がいい時と悪い時の様子があからさまに違うのだ。
しかも相手によって――それが男性だと特に――態度が違うのも好意を持てない理由だ。
それだけなら、まだよかったかもしれない。なるべく接触しないようにしよう、で終われただろう。だが残念ながらそう簡単にいかないのが現実だ。
香澄は総務部に属しているが、総務と言っても自社の仕事範囲は幅広く、社内の備品管理から稟議や契約の審査、押印対応など多岐に渡る。
香澄のメイン業務は営業が取ってきた案件の精査・管理なので、天沢の所属する営業部門とは関わりが深い。
加えて天沢は営業事務でもベテランの方で対応件数もそれなりに多く、どうしたって避けて通ることができない立場の人間なのだ。
(…だからって、なんで私にばかり)
以前はこうではなかったのに、と香澄は思う。
きっかけは多分、この4月に総務部が営業部と同じフロアに移転してきたことだ。
すぐ近くの席で仕事するようになってからというもの、なぜか天沢は香澄にばかり構った。それも決して友好的とはいえない言葉と態度で。
例えば精査中に資料の差し替えをしてきたり、押印場所の微妙なズレが気に入らないと再押印を求めてきたり、今回のように急ぎ案件を帰宅間際に持ってきたり…。
最初こそ特に気にしていなかったが、何度もそういうことが重なればさすがに意図的だと気付く。
でも香澄は決してそれを顔に出さないように配慮してきたし、できる限り丁寧に対応していたつもりだ。ただでさえ苦手意識があるのに、変に波風を立てて更に仕事をやりにくくしたくなかったから。
とはいえ、天沢に名前を呼ばれると体が強張ってしまうのはもはや自分でもどうしようもない。
仕事なのだから割り切らねばならないと、分かってはいても。
「こちらなんですけど」
肩にかけたバッグを香澄が下ろすと同時に――もしかするとそれより早く――、彼女のデスクにどさっと重い音をたてて置かれた資料。
1件だけのようだがクリアファイルに詰め込まれたそれは数センチの厚みがあって、香澄は思わず眉を顰めた。
「来月業務開始の契約なのですが、至急精査していただきたいんです。今日中に」
「今日中…ですか」
香澄はそれを聞いて目が眩む思いがした。
この量だと、少なくとも精査に1時間はかかるだろう。今日は色々あって疲れてしまったので、早く帰りたいのが本音だった。しかし他の担当者は帰宅しており、誰かに委ねることもできない。
そもそも、精査完了希望の2日前が総務への提出期限である。それをこのタイミングで提出してくること自体、無茶ぶりとしか言いようがない。
「あの、でも定時外なので、受付は明日に――」
なるので精査も明日以降になる、と言いかけた香澄を、天沢の高い声が遮った。
「こちらのお客様なんですが、明日中の提出を希望されていて。納期に厳しい方で、遅れると失注する可能性もあるみたいなんです。無理を言っているのは重々承知ですが、金額もなかなか大きいのでなんとかならないでしょうか?」
言われて、香澄はぐっと反論を呑みこんだ。失注もありえる急ぎ案件と言われては、さすがに断りにくい。
ルール上は突き返すこともできなくはないが、その場合さらに仕事がやりづらくなる可能性だってある。
ここは甘んじて受け入れた方がいろんな意味で得策だろう。
「…分かりました。今回に限り、対応します。ただし、今後は総務への提出期限を守るか、せめてもう少し早くご相談ください」
注意したつもりだが、天沢の表情は少しも動かない。まるでそう言われるのは最初から分かっていたというように。
「ありがとうございます。お手数をおかけしますがよろしくお願いします。――あ、私はもう帰宅しますので、終わったら私の机の上に置いておいてくださいね」
勝ち誇った笑顔と何の背徳感もないその言葉に、香澄は呆れて何も言えなくなった。
それほど重要な案件なのに、見届けずに帰るつもりなのだろうか、この人は。もし内容に誤りがあったらどうするつもりなのだろう――そこまで思ったが、口にするのはやめた。
経験上、無理に言い返すと却って面倒なことになると知っている。ここは黙って頷いて、もしもの時は毅然とした態度で差し戻せばいいだろう。
「…承知しました」
香澄が了承すると、天沢は「では、お先に失礼します」と微笑み、バッグを手に取って執務スペースを出て行った。
***
予定外の残業を終えて執務スペースを後にしながら、香澄は言いようのない不満を募らせていた。
急ぐからと天沢は言っていたが、蓋を開けてみればとてもそうとは思えなかったからだ。
彼女が提出した資料のヘッダーに記載されていた出力日時は今日の午後2時。
ルール上、ヘッダーには添付資料の内容や枚数を記入することになっているため、まずは必要資料を全て揃え、最後にヘッダーを作ることになる。
そしてそのヘッダーも基本的には稟議書からの転用で必要項目をいくつか書き足す程度なので、作成に時間はほとんどかからない。
つまり――午後2時の時点で準備は完了していた。
それなのに、香澄が帰宅する時を狙って提出してきたのだ。
本当に急ぐ案件なら、なぜ時間を空ける必要があるのだろう。
他の仕事で忙しかった?出し忘れていた?
あるいは、わざと出さなかった?
だとしたら、その理由は…。
(――はあ、もう考えるのやめよう)
大きくため息をつき、香澄は思考を巡らせるのを中断させた。
これ以上考えたところで、納得のいく答えに辿り着ける気がしない。
幸い内容に不備はなかったし、これで一件落着、言われたとおり返却済みなのでこの案件に関して天沢に話しかけられることはもうないだろう。
(一つ面倒な仕事を片付けた、それでいいじゃない!ご褒美にスイーツでも買って帰ろう)
香澄は振り切るように大きく息を吐き、会社の外へ踏み出した。
立ち並ぶビルの隙間を春風が通り抜けて、香澄の髪を静かに揺らす。
街に視線を向ければ、初々しいスーツ姿で歩く人達があちこちに見えた。当然ながら自分にもそんな時代があった、と香澄は懐かしく思う。
もともとサービス部門で事務職をやっていた香澄だが、仕事にやりがいを覚え、スキルアップのために本社の社内公募に応募した経緯がある。
運よく総務に拾ってもらってからは、早く役に立ちたくて、毎日必死で仕事を覚えた。
最近は難解案件も少しずつ任せてもらえるようになって、自分の仕事に自信とプライドを持ち始めていた頃だったのに…紛失などという重大なミスを犯してしまって、積み上げてきた信用が台無しだ。
けれど落ち込んでばかりもいられない。この失敗を糧にして次へ進まなければ。
振り返りと再発防止策はすでに頭の中で出来上がっている。
明日の午前中には報告書にまとめて提出、承認をもらえたら他の社員にも共有と注意喚起をして組織として活かす。
そうすれば今回のミスも少しは意味があるというものだ。
…ところが、そう気を持ち直したのも束の間のこと。
ようやく辿りついた駅が、異様なほどに大混雑している。
またしても、とてつもなく嫌な予感を覚えて電光掲示板を見ると――香澄が通勤で使用している路線が、「人身事故により運転見合わせ中。運転再開見込み未定」と表示されていた。
(もう…本当に最悪…)
今日は月曜日、1週間はまだ始まったばかりだというのに、初日から運が悪すぎやしないか。
すり減った気力、凹んだメンタル、疲れた身体にこの仕打ち。
だがこのまま立ち止まることもできない。
遠回りになるけれど、経由地になり得るターミナル駅までは振替輸送で行けるようなので、ひとまずそこへ向かおう…。
そう思って振替輸送先の改札を通りすぎ、乗り場を探していた、その時。
「――久遠さん?」
突然、背後から声をかけられた。
聞き覚えのある声に心臓が跳ね上がり、まさかと思って振り返ると、そこにいたのは。
「な、永瀬さん…!」
凛とした顔立ちが特徴的な、黒い短髪の男性。
高級そうなスーツを緩みなく着こなし爽やかさを纏う彼こそが、営業事務の女性達が噂していた永瀬紘司その人である。
若くして営業課長になるほど仕事ができるだけでなく、見た目も格好良い彼は、男女問わず社員の憧れの的だ。
そして実を言うと――香澄もその一人だったりする。
でもそれは恋愛的な意味ではなく、例えば芸能人を推すような、そういう気持ちだと彼女は認識していた。
遠くから見るだけで満足、目の保養。決して触れられない、触れてはいけない、天上の人…。
「お、おつかれさまです…!」
思わぬ遭遇に緊張してしまって、声に動揺が出てしまった。
会釈してなんとか隠したものの、きっと気付かれてしまっているだろう。
そのことに永瀬は何も言わず微笑んだだけだったが、それは却って香澄の鼓動を無意識に高鳴らせた。
ただでさえ見とれてしまうのに、その笑顔となると破壊級だ。
この笑顔に一瞬で落ちてしまう女性社員も多いと聞く。
だからそうならないよう、この笑顔に深い意味などない、決して勘違いしてはいけない、と香澄は必死で自分に言い聞かせた。
「おつかれさま。突然声かけてびっくりさせちゃったかな。でもこんなところで会うなんて、珍しいなと思って。こっちの路線なんだっけ?俺の勘違いかもしれないけど、なんか困ってるように見えたから」
その言葉で、香澄はこの遭遇の意味を理解した。
つまり、ぎこちなく一人佇む香澄を見て心配して話しかけてくれたのだと。
たまに仕事で話すこともあるので、無視できなかったのだろう。そういう優しい人なのだ、彼は。
「実は、いつも□□線を使っているのですが…運転見合わせで」
「ああ、なるほど。月曜日からしんどいな。どこの駅に住んでるの?」
「××駅です」
「そうなんだ。ってことは復旧しないと帰れない感じ?」
「はい、他に路線も通っていないので…。とりあえず、振替輸送しているようなので○○駅まで行ってみようかと」
「そっか。俺もそっち方面だから、一緒に行こう」
「え…いいんですか?」
てっきり話が終わったらすぐに別れるものだと思っていたので、香澄が驚いて永瀬を見上げると、彼は「もちろん」と頷いた。
「久遠さんが嫌じゃないなら」
「め、滅相もないです!」
「ならよかった」
じゃあこっち、と永瀬に促されて、香澄はその背中を慌てて追いかける。
予想だにしない展開に戸惑いながらも、断る理由なんて、不思議なほど何一つ思いつかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
上司が猫を脱いだなら。
yuzu
恋愛
「推しの上司がメロすぎて困る。」が口癖の主人公、多部由香子26歳。
大手食品会社社長 御園正太郎の長男である事を隠して企画営業部の係長を務める 黒木連 29歳。
由香子は連を「リアル王子様」「純粋でかわいいわんこ系」だとおもいこんでいた。けれど、ふたりきりになった瞬間、メロいはずの蓮はオレ様キャラに豹変して……ちょっと過激なラブコメディ。
※読んでくださる読者の皆様に感謝申し上げます。感想、ハート、応援。とても励みになっています(*´꒳`*)毎日更新予定です。よろしくお願いいたします✳︎
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?
akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。
今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。
家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。
だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる