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7.禍福無門
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・禍福無門(かふくむもん)
不幸も幸福も、その人自身が招くものであるということ
「ベルンハルト・デイクストラだ。よろしく頼むよ」
ハイドフェルト様と、不愉快極まりない会話をして、三日。
学園が再開した。ふわっふわな再発防止策を提出した学園側と、ふわっふわな再発防止策を認可した国の連中には、呆れを通り越していっそ感動さえ覚えたもんだ。
特に、“生徒とのコミュニケーションを密に図るが、生徒たちの常識ある振る舞いにも期待したい”とかいう寝惚けた一文に。
いや、もしかしたら、ふわっふわな再発防止策でもなんでも出して、学園を速やかに再開しなければならない事情があったのかもしれない。
そう、例えば────隣国、ドナシアン王国の第二王子殿下の来訪、とか。
「再来月から転入することが決定してね。その前に、学園の様子を見ておきたいと言うから、滞在が急遽決まったんだ」
「はは。友人のよしみで、少しワガママを言ってしまったかな」
朗らかに笑い合うドナシアン王国の第二王子、ベルンハルト・デイクストラ殿下と、我が国のリチャード殿下。国家間の親密さがうかがえて何よりだ…………何より、なんだが。
お嬢様、腕を離していただけませんかねぇ。公爵家より支給されている制服から、ぎちぎち悲鳴が上がっている。
さては、俺の袖を引きちぎるおつもりですか? 蛮族か何かでいらっしゃる?
「……なんですか、お嬢様」
お嬢様に引っ張られるまま、殿下たちに聞かれないところまで移動する。
ところで、殿下たちに何も言わないでこんなとこまで引っ張ってきた理由、どう誤魔化すつもりなんだ? ちゃんと考えてんだろうな?
「ちょっと大人な王子様が来たわ!」
「は?」
「ど、どうしてこのタイミングで……やっぱり物語の強制力!? そうまでして私の破滅を望んでるの!?」
「申し訳ございませんが、少し落ち着いていただけませんか?」
死刑宣告された罪人のような顔をしたお嬢様が言うには、仮想恋愛遊戯を元にした世界には“強制力”と呼ばれるものがある、らしい。
この世界は、アリシア・プリムローズが運命の恋人と共に幸せを掴む、立身出世物語が元になって出来ている。つまり、この世界は、アリシア・プリムローズを中心に進んでいく────筈だった。
実際は、アリシア・プリムローズは捕縛。本来なら殺される筈だったお嬢様が、今日まで生き延びている。
「本当なら、私は表舞台から退場していなくちゃいけないのに、今日まで平穏無事に過ごしているから、きっと強制力が働いて、私を破滅させようとしているのよ!」
アリシア・プリムローズが、表舞台に戻って来ることは不可能だと断言しても良い。
ヒロイン不在の物語などもはや破綻している。だが、完全に破綻しているとも言い難い。
何故なら、排除されるべきイルゼお嬢様がまだ残っているから。故に、物語の強制力が働き、自分を破滅させようとしている……とお嬢様は考えた訳か。
「……仰ることは分かりましたが、デイクストラ殿下が来訪しただけで、お嬢様の破滅に繋がるというのは、論理がいささか飛躍し過ぎではありませんか?」
「だって、本来ならもっと早くに来る筈の殿下が、ヒロインがいなくなった途端に来るなんて、おかしいじゃない!?」
「まあ、俺も妙な時期にいらっしゃったとは思いますが」
その辺りの事情は、アリシア・プリムローズがやってくる前に仕込んだ、俺の根回しも関わっているので言葉を濁す。
根回し、とはヒルシュフェルト様の留学だ。当時はお嬢様の話を真に受けた訳ではなかった頃だが、最悪の事態は想定して動いていた。
国内の有力令息、リチャード殿下とハイドフェルト様、ヒルシュフェルト様が揃いも揃って腑抜けになられては困る。
万が一の保険として、ヒルシュフェルト様には国外に出てもらっていた。
誤解がないように言っておくが、俺がしたことなど大したことではない。
ヒルシュフェルト様が執筆した論文を、ドナシアン王国の学者に渡るよう手配したくらいだ。論文の出来にえらく感動したお偉い学者様が、ヒルシュフェルト様の留学を熱望したとかなんとか。
そんな訳で、裏でこそこそ根回ししたおかげで、ヒルシュフェルト様はアリシア・プリムローズと関わることなく済んだ。
デイクストラ殿下が、留学して来なかった理由に関しては分からない。
ただ、想像はできる。デイクストラ殿下が国内から出られなかったのは、ヒルシュフェルト様の世話役を仰せ付かったからだろう。
ドナシアンの第一王子は、ヒルシュフェルト様よりも6歳ほど年上。対して、デイクストラ殿下はヒルシュフェルト様と同い年。そりゃあ、同い年のやつに任せるさ。
問題は、デイクストラ殿下が下見に来た時期、否、理由の方だ。下見に来るにしては早すぎるし、何より余りにも急過ぎる。
我が国の内情視察……というかどう考えても、アリシア・プリムローズの一件が理由だろうな。
「……ねえ、エリアーシュ、どうしたら良いと思う?」
下手を打つ間抜けをするつもりはないが、念には念を入れて、しばらく大人しくしていた方が良さそうだ。
今後の身の振り方を思案していると、お嬢様が今にも泣きそうな顔で見上げて来た。
ふと、転職した方が平穏無事に過ごせるんじゃないか? と思わなくもなかったが、花煙草をばかすか吸えてしまえる給料はあまりにも魅力的だ。ならば、答えは自ずと決まってくる。
「まず、お嬢様は公爵家の名に恥じぬよう、大人しく、お淑やかに過ごしてはいかがでしょうか」
「そんなことで良いの?」
「はい。デイクストラ殿下は、大変見境が……いえ、女性に対して積極的な人物と聞きます。足下を掬われないよう、距離と節度を保つことをお勧めします」
お嬢様は、「死にたくない」だとか「没落ルートは嫌」だとか言う割りに、脇が甘い。デイクストラ殿下に距離を詰められて、妙な噂を立てられでもしたら面倒だ。
デイクストラ殿下だって、友好国の王太子殿下の婚約者を寝取るようなバカはしないだろうが。
「た、確かに! ゲームの中のデイクストラ殿下は、挨拶みたいなものだからと言って、アリシアさんの髪に口付けたり、頬に口付けたりしていたわ!」
婚約者でもねえ男が、嫁入り前の貴族令嬢の頬に口付けなんてしてんじゃねえよ。
再三忠告をしてから、殿下たちのもとへと戻る。突然奇行に走ったお嬢様に、殿下は「イルゼ、何かあったのかい?」と気遣わしげに声をかけた。微かに身を強張らせるお嬢様、どうやら何も考えていなかったらしい。
溜息をつきたいところを何とか堪え、使用人の鑑のような笑みを浮かべる。俺は、出来る使用人なので。
「主に代わり、無礼をお詫び申し上げます。イルゼお嬢様は、デイクストラ殿下の尊きお姿を前にして、少々恥じ入ってしまったのです」
「ああ。ベルンハルト殿下は、同性の僕でも見惚れてしまうくらいかっこいいからね。緊張してしまうのも仕方がないよ」
「イルゼ嬢のように美しいご令嬢の瞳に、魅力ある異性と写っているのなら、悪い気はしないな」
本来なら、使用人風情が隣国の第二王子と口を利くことはおろか、主の代わりに弁明するなど許されない行為だ。
この場が、学園内で幸いだったと言うべきか。建前上ではあるが、使用人の俺も生徒の一人だ。生徒の一人が、留学予定の生徒に声を掛けたとしても、罰せられることはない。
「そうだ!」
デイクストラ殿下の瞳に、悪戯を思い付いた子供のような光が煌めいた。すっげえ嫌な予感。
「イルゼ嬢、良ければ学園の中を案内してくれないか? もちろん、ふたりっきりで」
「え!?」
「行っておいで、イルゼ。イルゼならば間違いもないし、ベルンハルト殿下を任せるに足る令嬢だよ」
それは、イルゼお嬢様ならば間違いを起こすことがないという信頼か。はたまた、間違いが起きたとしても問題がない、という意味か。
どちらにせよ、お嬢様からしてみれば好きな男に送り出される訳だ。中々にきついものがあるだろうなァ。
殿下お二人に頼まれては断りようもなく、お嬢様はデイクストラ殿下と共に、学園を案内することとなった。
微かに肩を落とすお嬢様を見送りながら、思う。落ち込むくらいならとっとと腹を括って、殿下への恋情を認めれば良いものを。
「……怒ってるかい?」
残されたのは、俺とリチャード殿下。この御方と二人きりになると、この後に何か面倒が待ち受けているんじゃねえかって思うのは、勘繰りが過ぎるんだろうか。
「怒るとは、誰が誰にでしょうか?」
「エリアーシュが、僕に」
「何故です?」
「イルゼに、ベルンハルト殿下を任せたから」
「なるほど。ハイドフェルト様との件は、後ろめたくお思いでないと」
「じゃあ、それも足してもらおうかな」
ベルンハルト殿下を任せた件にしろ、ハイドフェルト様の件にしろ、さして悪いとは思っていないくせに、よくもまあ白々しいことを。
呆れを通り越して感心していると、殿下は「それから」と、どこか歯切れの悪いご様子で口を開く。なんだなんだ、まだあんのかよ。
「プリムローズ嬢の一件、報告書には仔細を記載するように指示をした訳だから」
「ああ、その話ですか」
当初の予定では、提出する報告書に記載するのはアリシア・プリムローズが行ってきた所業のみだった。
彼女の振る舞いに目を瞑っていた殿下と、アニマの作用で理性を失ったとは言え、性的暴行を加えたハイドフェルト様の立場を考慮したが故だ。
だが、他でもない殿下が、それを許さなかった。自らと部下の行いを詳らかにするように、厳命を下したのだ。
「権力に守られ、自分の行いの責任を放棄するのは許されないことだからね。結果として、エリアーシュの尊厳を無視したとしても」
「ええ。殿下の崇高かつ傲慢なお考えにより、以後、エリアーシュ・メルカダンテはハイドフェルト様に犯された男、という目で見られ続けることでしょう」
「……やっぱり、怒ってるよねぇ」
事を詳細に記すことにより、シルヴァリオ・ハイドフェルトに性的暴行を受けた使用人、エリアーシュ・メルカダンテの名も載る運びとなった。
とはいえ、腹が立っているのはハイドフェルト様に対してであり、報告書に名が載ることに関して、腹は立っていない。
殿下自ら公表するよう指示したことで、今後同じように権力者が罪を犯した際、うやむらにされることがなくなるのであれば、好奇の視線くらいは目を瞑ろう。
それに、俺自身にとっても益はある。使うかどうか分からない布石だが、奥の手はいくらあっても困らないからな。
まあ、殿下に思惑を明かすつもりはないし、誤解を解くつもりもない。だって、良心に付け込める機会を、あっさり手放すなんて勿体ないだろ。
「殿下、ご質問をいくつかよろしいですか」
「シルヴェリオなら、今日は来ていないよ。ベルンハルト殿下の来訪があまりにも突然だったから、準備不足なことも多くて、そちらを手伝ってもらっているんだ」
「お心遣い痛み入ります。ですが、私がお尋ねしたいのは殿下のことです」
「僕? 珍しいこともあるね。君が、僕自身について問うなんて」
ハイドフェルト様の姿が見えないと思ったら、どうやら来ていなかったらしい。今頃、今後の警備体制の打ち合わせでもしているんだろう。
不在の理由が気にならないと言ったら嘘になるが、別に訊きたいことでもなかったんだがな。今、訊きたいことは他にある。
「殿下は、イルゼお嬢様との婚約破棄を考えていらっしゃいますね」
「うん。イルゼが望んでいるからね」
「殿下ご自身の望みは、如何様なものなのかと少々気にかかりまして」
俺の問いが意外だったのか、殿下はきょとんという顔をした。
殿下の青い瞳が、じっと俺を見据える。問いの真意を探ろうとしているのだろう。
僅かな沈黙の後、殿下は柔らかな微笑を浮かべた。
「僕の望みは、フェルトフルーレの民が心穏やかに暮らせることだよ」
「そして、その望みを叶える為に、王妃に最も相応しい令嬢であれば、イルゼお嬢様でなくとも構わない、とお考えなのですね」
「そうだよ。イルゼとエリアーシュには、申し訳ないけれど」
「……なるほど。殿下は、王太子として申し分のない御方でしょう」
「含むような物言いだね」
俺が家庭教師だったら、拍手の一つもしていたほど、殿下の答えは模範的だ。
だが、捻くれ者のエリアーシュ・メルカダンテとしては、殿下の回答が少しばかり気に入らない。
「殿下は、民の安寧を望むが故に、平等と公正を第一としておられますが、同時に現状のままではそれが難しいことも理解しておられるでしょう。現実的な思考を有し、誰もが心惹かれる理想を主張している殿下の在り方は、一臣下としては安堵さえ覚えます」
殿下の望みと在り方は、王太子として文句無しだ。自分の感情を御せず、自分の為の望みを叶えんと邁進する暗君に、誰が付き従えると言うのか。
だが、同時にこうも思う。リチャード殿下個人が何かを、誰かを愛したことが一度でもあるのだろうか、と。
「ふと思ったのです。人を愛したことがないあなたを、民は愛するのだろうか。有事の際、民はあなたに最後まで付き従うのだろうか、と」
「────」
リチャード殿下と交流を始めてから今日まで、俺はこの方が何かに熱中したり、執着する様を一度も見たことがない。
民と国の安寧を願うのも、それが王族としての務めだからだ。殿下が、自らの意志で決めたことではない。
殿下の在り方は、為政者としては好ましいが、殿下の為に命を賭けられるかと問われると、答えは否だ。
これはあくまでも俺個人の考えだし、俺の考えが正しいとも思えないから、殿下の在り方を否定するつもりもないんだが。
「……少し意外だね。エリアーシュは、そういう重苦しい感情を否定する人間だと思っていたけど。心境の変化?」
「ご冗談を」
ああ、煙に巻かれたな。この感じだとそんなことを考えたこともなかったから、答えが見付からない、ということだろうか。
もう少し突付いてみるか、この辺りで止めておくべきか、と思案している正にそのとき。
「ッ、エリアーシュ!」
心底聞きたくもない声が、俺の名を呼んだ。駆け足で近付いてくるハイドフェルト様の様子は、常らしくもなく冷静さを欠いていた。
……妙だな。あのシルヴェリオ・ハイドフェルトが、主君であるリチャード殿下には目もくれず、俺に真っ直ぐ向かってくるなんて。
この場が学園であるとか、ハイドフェルト様の個人的な感情だとか、そういった事情を考慮したとしても、あのハイドフェルト様が主君に一瞥もくれないなんて。
残念ながら心当たりはまるでない。今のところは、だが。……嫌な予感がする。
「エリアーシュ、耳を貸せ」
冗談じゃねえと眉を顰めかけるも、俺の反応を軽々無視してくれやがったハイドフェルト様が一息に距離を詰めてきた。
服越しに体温すら伝わってきそうな距離は、数々の不快な記憶を呼び起こす。
だが、次の瞬間、ハイドフェルト様がもたらした情報によって、そんなことを思う余裕すらなくなるのだった。
「────コースフェルト家に、騎士団の捜査の手が入る」
不幸も幸福も、その人自身が招くものであるということ
「ベルンハルト・デイクストラだ。よろしく頼むよ」
ハイドフェルト様と、不愉快極まりない会話をして、三日。
学園が再開した。ふわっふわな再発防止策を提出した学園側と、ふわっふわな再発防止策を認可した国の連中には、呆れを通り越していっそ感動さえ覚えたもんだ。
特に、“生徒とのコミュニケーションを密に図るが、生徒たちの常識ある振る舞いにも期待したい”とかいう寝惚けた一文に。
いや、もしかしたら、ふわっふわな再発防止策でもなんでも出して、学園を速やかに再開しなければならない事情があったのかもしれない。
そう、例えば────隣国、ドナシアン王国の第二王子殿下の来訪、とか。
「再来月から転入することが決定してね。その前に、学園の様子を見ておきたいと言うから、滞在が急遽決まったんだ」
「はは。友人のよしみで、少しワガママを言ってしまったかな」
朗らかに笑い合うドナシアン王国の第二王子、ベルンハルト・デイクストラ殿下と、我が国のリチャード殿下。国家間の親密さがうかがえて何よりだ…………何より、なんだが。
お嬢様、腕を離していただけませんかねぇ。公爵家より支給されている制服から、ぎちぎち悲鳴が上がっている。
さては、俺の袖を引きちぎるおつもりですか? 蛮族か何かでいらっしゃる?
「……なんですか、お嬢様」
お嬢様に引っ張られるまま、殿下たちに聞かれないところまで移動する。
ところで、殿下たちに何も言わないでこんなとこまで引っ張ってきた理由、どう誤魔化すつもりなんだ? ちゃんと考えてんだろうな?
「ちょっと大人な王子様が来たわ!」
「は?」
「ど、どうしてこのタイミングで……やっぱり物語の強制力!? そうまでして私の破滅を望んでるの!?」
「申し訳ございませんが、少し落ち着いていただけませんか?」
死刑宣告された罪人のような顔をしたお嬢様が言うには、仮想恋愛遊戯を元にした世界には“強制力”と呼ばれるものがある、らしい。
この世界は、アリシア・プリムローズが運命の恋人と共に幸せを掴む、立身出世物語が元になって出来ている。つまり、この世界は、アリシア・プリムローズを中心に進んでいく────筈だった。
実際は、アリシア・プリムローズは捕縛。本来なら殺される筈だったお嬢様が、今日まで生き延びている。
「本当なら、私は表舞台から退場していなくちゃいけないのに、今日まで平穏無事に過ごしているから、きっと強制力が働いて、私を破滅させようとしているのよ!」
アリシア・プリムローズが、表舞台に戻って来ることは不可能だと断言しても良い。
ヒロイン不在の物語などもはや破綻している。だが、完全に破綻しているとも言い難い。
何故なら、排除されるべきイルゼお嬢様がまだ残っているから。故に、物語の強制力が働き、自分を破滅させようとしている……とお嬢様は考えた訳か。
「……仰ることは分かりましたが、デイクストラ殿下が来訪しただけで、お嬢様の破滅に繋がるというのは、論理がいささか飛躍し過ぎではありませんか?」
「だって、本来ならもっと早くに来る筈の殿下が、ヒロインがいなくなった途端に来るなんて、おかしいじゃない!?」
「まあ、俺も妙な時期にいらっしゃったとは思いますが」
その辺りの事情は、アリシア・プリムローズがやってくる前に仕込んだ、俺の根回しも関わっているので言葉を濁す。
根回し、とはヒルシュフェルト様の留学だ。当時はお嬢様の話を真に受けた訳ではなかった頃だが、最悪の事態は想定して動いていた。
国内の有力令息、リチャード殿下とハイドフェルト様、ヒルシュフェルト様が揃いも揃って腑抜けになられては困る。
万が一の保険として、ヒルシュフェルト様には国外に出てもらっていた。
誤解がないように言っておくが、俺がしたことなど大したことではない。
ヒルシュフェルト様が執筆した論文を、ドナシアン王国の学者に渡るよう手配したくらいだ。論文の出来にえらく感動したお偉い学者様が、ヒルシュフェルト様の留学を熱望したとかなんとか。
そんな訳で、裏でこそこそ根回ししたおかげで、ヒルシュフェルト様はアリシア・プリムローズと関わることなく済んだ。
デイクストラ殿下が、留学して来なかった理由に関しては分からない。
ただ、想像はできる。デイクストラ殿下が国内から出られなかったのは、ヒルシュフェルト様の世話役を仰せ付かったからだろう。
ドナシアンの第一王子は、ヒルシュフェルト様よりも6歳ほど年上。対して、デイクストラ殿下はヒルシュフェルト様と同い年。そりゃあ、同い年のやつに任せるさ。
問題は、デイクストラ殿下が下見に来た時期、否、理由の方だ。下見に来るにしては早すぎるし、何より余りにも急過ぎる。
我が国の内情視察……というかどう考えても、アリシア・プリムローズの一件が理由だろうな。
「……ねえ、エリアーシュ、どうしたら良いと思う?」
下手を打つ間抜けをするつもりはないが、念には念を入れて、しばらく大人しくしていた方が良さそうだ。
今後の身の振り方を思案していると、お嬢様が今にも泣きそうな顔で見上げて来た。
ふと、転職した方が平穏無事に過ごせるんじゃないか? と思わなくもなかったが、花煙草をばかすか吸えてしまえる給料はあまりにも魅力的だ。ならば、答えは自ずと決まってくる。
「まず、お嬢様は公爵家の名に恥じぬよう、大人しく、お淑やかに過ごしてはいかがでしょうか」
「そんなことで良いの?」
「はい。デイクストラ殿下は、大変見境が……いえ、女性に対して積極的な人物と聞きます。足下を掬われないよう、距離と節度を保つことをお勧めします」
お嬢様は、「死にたくない」だとか「没落ルートは嫌」だとか言う割りに、脇が甘い。デイクストラ殿下に距離を詰められて、妙な噂を立てられでもしたら面倒だ。
デイクストラ殿下だって、友好国の王太子殿下の婚約者を寝取るようなバカはしないだろうが。
「た、確かに! ゲームの中のデイクストラ殿下は、挨拶みたいなものだからと言って、アリシアさんの髪に口付けたり、頬に口付けたりしていたわ!」
婚約者でもねえ男が、嫁入り前の貴族令嬢の頬に口付けなんてしてんじゃねえよ。
再三忠告をしてから、殿下たちのもとへと戻る。突然奇行に走ったお嬢様に、殿下は「イルゼ、何かあったのかい?」と気遣わしげに声をかけた。微かに身を強張らせるお嬢様、どうやら何も考えていなかったらしい。
溜息をつきたいところを何とか堪え、使用人の鑑のような笑みを浮かべる。俺は、出来る使用人なので。
「主に代わり、無礼をお詫び申し上げます。イルゼお嬢様は、デイクストラ殿下の尊きお姿を前にして、少々恥じ入ってしまったのです」
「ああ。ベルンハルト殿下は、同性の僕でも見惚れてしまうくらいかっこいいからね。緊張してしまうのも仕方がないよ」
「イルゼ嬢のように美しいご令嬢の瞳に、魅力ある異性と写っているのなら、悪い気はしないな」
本来なら、使用人風情が隣国の第二王子と口を利くことはおろか、主の代わりに弁明するなど許されない行為だ。
この場が、学園内で幸いだったと言うべきか。建前上ではあるが、使用人の俺も生徒の一人だ。生徒の一人が、留学予定の生徒に声を掛けたとしても、罰せられることはない。
「そうだ!」
デイクストラ殿下の瞳に、悪戯を思い付いた子供のような光が煌めいた。すっげえ嫌な予感。
「イルゼ嬢、良ければ学園の中を案内してくれないか? もちろん、ふたりっきりで」
「え!?」
「行っておいで、イルゼ。イルゼならば間違いもないし、ベルンハルト殿下を任せるに足る令嬢だよ」
それは、イルゼお嬢様ならば間違いを起こすことがないという信頼か。はたまた、間違いが起きたとしても問題がない、という意味か。
どちらにせよ、お嬢様からしてみれば好きな男に送り出される訳だ。中々にきついものがあるだろうなァ。
殿下お二人に頼まれては断りようもなく、お嬢様はデイクストラ殿下と共に、学園を案内することとなった。
微かに肩を落とすお嬢様を見送りながら、思う。落ち込むくらいならとっとと腹を括って、殿下への恋情を認めれば良いものを。
「……怒ってるかい?」
残されたのは、俺とリチャード殿下。この御方と二人きりになると、この後に何か面倒が待ち受けているんじゃねえかって思うのは、勘繰りが過ぎるんだろうか。
「怒るとは、誰が誰にでしょうか?」
「エリアーシュが、僕に」
「何故です?」
「イルゼに、ベルンハルト殿下を任せたから」
「なるほど。ハイドフェルト様との件は、後ろめたくお思いでないと」
「じゃあ、それも足してもらおうかな」
ベルンハルト殿下を任せた件にしろ、ハイドフェルト様の件にしろ、さして悪いとは思っていないくせに、よくもまあ白々しいことを。
呆れを通り越して感心していると、殿下は「それから」と、どこか歯切れの悪いご様子で口を開く。なんだなんだ、まだあんのかよ。
「プリムローズ嬢の一件、報告書には仔細を記載するように指示をした訳だから」
「ああ、その話ですか」
当初の予定では、提出する報告書に記載するのはアリシア・プリムローズが行ってきた所業のみだった。
彼女の振る舞いに目を瞑っていた殿下と、アニマの作用で理性を失ったとは言え、性的暴行を加えたハイドフェルト様の立場を考慮したが故だ。
だが、他でもない殿下が、それを許さなかった。自らと部下の行いを詳らかにするように、厳命を下したのだ。
「権力に守られ、自分の行いの責任を放棄するのは許されないことだからね。結果として、エリアーシュの尊厳を無視したとしても」
「ええ。殿下の崇高かつ傲慢なお考えにより、以後、エリアーシュ・メルカダンテはハイドフェルト様に犯された男、という目で見られ続けることでしょう」
「……やっぱり、怒ってるよねぇ」
事を詳細に記すことにより、シルヴァリオ・ハイドフェルトに性的暴行を受けた使用人、エリアーシュ・メルカダンテの名も載る運びとなった。
とはいえ、腹が立っているのはハイドフェルト様に対してであり、報告書に名が載ることに関して、腹は立っていない。
殿下自ら公表するよう指示したことで、今後同じように権力者が罪を犯した際、うやむらにされることがなくなるのであれば、好奇の視線くらいは目を瞑ろう。
それに、俺自身にとっても益はある。使うかどうか分からない布石だが、奥の手はいくらあっても困らないからな。
まあ、殿下に思惑を明かすつもりはないし、誤解を解くつもりもない。だって、良心に付け込める機会を、あっさり手放すなんて勿体ないだろ。
「殿下、ご質問をいくつかよろしいですか」
「シルヴェリオなら、今日は来ていないよ。ベルンハルト殿下の来訪があまりにも突然だったから、準備不足なことも多くて、そちらを手伝ってもらっているんだ」
「お心遣い痛み入ります。ですが、私がお尋ねしたいのは殿下のことです」
「僕? 珍しいこともあるね。君が、僕自身について問うなんて」
ハイドフェルト様の姿が見えないと思ったら、どうやら来ていなかったらしい。今頃、今後の警備体制の打ち合わせでもしているんだろう。
不在の理由が気にならないと言ったら嘘になるが、別に訊きたいことでもなかったんだがな。今、訊きたいことは他にある。
「殿下は、イルゼお嬢様との婚約破棄を考えていらっしゃいますね」
「うん。イルゼが望んでいるからね」
「殿下ご自身の望みは、如何様なものなのかと少々気にかかりまして」
俺の問いが意外だったのか、殿下はきょとんという顔をした。
殿下の青い瞳が、じっと俺を見据える。問いの真意を探ろうとしているのだろう。
僅かな沈黙の後、殿下は柔らかな微笑を浮かべた。
「僕の望みは、フェルトフルーレの民が心穏やかに暮らせることだよ」
「そして、その望みを叶える為に、王妃に最も相応しい令嬢であれば、イルゼお嬢様でなくとも構わない、とお考えなのですね」
「そうだよ。イルゼとエリアーシュには、申し訳ないけれど」
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俺が家庭教師だったら、拍手の一つもしていたほど、殿下の答えは模範的だ。
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「殿下は、民の安寧を望むが故に、平等と公正を第一としておられますが、同時に現状のままではそれが難しいことも理解しておられるでしょう。現実的な思考を有し、誰もが心惹かれる理想を主張している殿下の在り方は、一臣下としては安堵さえ覚えます」
殿下の望みと在り方は、王太子として文句無しだ。自分の感情を御せず、自分の為の望みを叶えんと邁進する暗君に、誰が付き従えると言うのか。
だが、同時にこうも思う。リチャード殿下個人が何かを、誰かを愛したことが一度でもあるのだろうか、と。
「ふと思ったのです。人を愛したことがないあなたを、民は愛するのだろうか。有事の際、民はあなたに最後まで付き従うのだろうか、と」
「────」
リチャード殿下と交流を始めてから今日まで、俺はこの方が何かに熱中したり、執着する様を一度も見たことがない。
民と国の安寧を願うのも、それが王族としての務めだからだ。殿下が、自らの意志で決めたことではない。
殿下の在り方は、為政者としては好ましいが、殿下の為に命を賭けられるかと問われると、答えは否だ。
これはあくまでも俺個人の考えだし、俺の考えが正しいとも思えないから、殿下の在り方を否定するつもりもないんだが。
「……少し意外だね。エリアーシュは、そういう重苦しい感情を否定する人間だと思っていたけど。心境の変化?」
「ご冗談を」
ああ、煙に巻かれたな。この感じだとそんなことを考えたこともなかったから、答えが見付からない、ということだろうか。
もう少し突付いてみるか、この辺りで止めておくべきか、と思案している正にそのとき。
「ッ、エリアーシュ!」
心底聞きたくもない声が、俺の名を呼んだ。駆け足で近付いてくるハイドフェルト様の様子は、常らしくもなく冷静さを欠いていた。
……妙だな。あのシルヴェリオ・ハイドフェルトが、主君であるリチャード殿下には目もくれず、俺に真っ直ぐ向かってくるなんて。
この場が学園であるとか、ハイドフェルト様の個人的な感情だとか、そういった事情を考慮したとしても、あのハイドフェルト様が主君に一瞥もくれないなんて。
残念ながら心当たりはまるでない。今のところは、だが。……嫌な予感がする。
「エリアーシュ、耳を貸せ」
冗談じゃねえと眉を顰めかけるも、俺の反応を軽々無視してくれやがったハイドフェルト様が一息に距離を詰めてきた。
服越しに体温すら伝わってきそうな距離は、数々の不快な記憶を呼び起こす。
だが、次の瞬間、ハイドフェルト様がもたらした情報によって、そんなことを思う余裕すらなくなるのだった。
「────コースフェルト家に、騎士団の捜査の手が入る」
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フレア王国の第3王子シルティ(18歳.Ω)は、王宮騎士団の団長を務める、キーファ侯爵家現当主のアリウス(29歳.α)に、ずっと片想いをしている。
そんなシルティは、Ωの成人王族の務めとして、自分は隣国のαの王族に輿入れするのだろうと、人生を半ば諦めていた。
だが、ある日突然、父である国王から、アリウスとの婚姻を勧められる。
二つ返事でアリウスとの婚姻を受けたシルティだったが、何もできない自分の事を、アリウスは迷惑に思っていないだろうかと心配になる。
─が、そんなシルティの心配をよそに、アリウスは天にも登る気持ち(無表情)で、いそいそと婚姻の準備を進めていた。
受けを好きすぎて、発情期にしか触れる事ができない攻めと、発情期の記憶が一切ない受けのお話です。
拗らせ両片想いの大人の恋(?)
オメガバースの設定をお借りしています。ぼんやり設定です。
Rシーンは※つけます。
1話1,000~2,000字程度です。
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