宵にまぎれて兎は回る

宇土為名

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「それで、ご提案のこの項目なんですが…、この部分ですね。この枠のところを上から見たとき…」
 建部がマウスをクリックし、画面を切り替える。スクリーンに映し出されたプレゼン映像が反転し、見せたい部分が拡大された。
「建部さん、接着部分をもう少し見せていただけますか?」
「はい」
 宮田、と言われて冬は資料を出した。ファイルされたそれを相沢と名取、そして同席した資材課の課長の前に置いた。映し出されているものと同じ製品の原材料や価格帯、コストなどが項目ごとにわかりやすく一覧になっている。壁の白いスクリーンの中で拡大された部分をポインタで囲った建部が、配布した資料と同じものに目を通し、説明を続けた。
「こちらが接着部になります。従来のものよりも六パーセント強度を上げているので、以前のような剥がれや脱落は起こりにくくなっています」
「うーん、それ数値化出来てますか?」
「はい」
 資材課課長の鋭い指摘に、冬は即答した。
「お手元のファイルの二ページ目、⑤の赤字をご覧ください。このように従来製品と他社の同等品、そして今回企画したこちらのものとの耐久値のグラフからして、この製品の利点がお分かりいただけるかと思います」
「なるほどねえ…、四パーセント未満か」
「はい」
 黙って冬の説明を聞いていた課長がファイルに目を落としたまま頷いた。
「分かりました。問題はなさそうかな…、では──あとは相沢のほうにお願いします」
「はい、今日はありがとうございました」
「では私はこれで」
 課長は建部と冬に頭を下げると、相沢に頷いて会議室を出て行った。ドアが閉まる音と同時に、張り詰めていた空気が一気に緩む。遠ざかっていく足音に、相沢が苦笑を漏らした。
「おふたりともお疲れさまでした」
「いえいえ、急に入っていらしたときは驚きましたが」
「それは私も」
 建部の言葉に相沢が同意する。それに全員が笑った。
「まああれで納得していただけたかは微妙なとこですかね」
 相沢と建部は付き合いが長い。気心の知れた相手だけあってか、建部は言いながら胸を逸らし、体を伸ばした。予定になかった資材課課長の入室に、普段鷹揚な建部もそれなりに緊張はしていたようだ。
「そんなことはないでしょう」
 ファイルを捲っていた相沢が言った。
「そうだといいですがね」
「あの人、普段は出されたもの全てに難癖を付けるんですが、今日はあっさり納得してましたし、上手くいきますよ」
「そうですか」
 確かに気難しそうな人だった。言葉や、接し方ひとつ間違えると二度とまともに相手をしてくれない感じはした。
「数値を明確に視覚化したのが良かったのかもしれませんね」
 にこりと笑って相沢が冬を見た。
 油断していた冬はその言葉に背筋が伸びた。足先を軽く蹴られ、隣の建部を見ると意味ありげに笑っている。
「…なんですかっ」
 やめてくださいよ、と小声で言うと建部は素知らぬ顔をしている。
「休憩しましょうか、コーヒーでよかったですよね?」
 相沢が名取を見て指示を出す。名取は立ち上がると、壁の内線を取った。
「第二会議室です。コーヒーを四人分お願いします」
 その視線は小突き合う冬と建部に向けられていた。
 お手洗いに、と言って冬が立つと、名取は内線を終えた。


「あー…、もう」
 自分の耳が真っ赤になっている気がして、冬は急いで洗面所に行った。
 ついでに用を足し手を洗いながら鏡を見れば、案の定耳は真っ赤だった。
「ほんとにもう…」
 いつまでたってもこういうのは変わらない。昔からそうだ。恥ずかしかったり怒ったり、ちょっと揶揄われただけで耳が赤くなってしまう。
『真っ赤だね』
 感情がそのまま色になって表れているみたいだと、そう言われたのはいつだったのか。
 自分では直したくても直せないのがとてももどかしい。
 小さな子供ならきっと可愛いのだろうが、成人男性でこれはどうなのかと正直思う。
「……はあ」
 ため息をつき、手を拭いた。
 そろそろ戻らなければ。
 出口に向かおうとして振り向き、冬はぎくりとした。
「──ミヤ」
 名取だ。
 いつの間に──
 気づかなかった。
「な、なに…」
 名取はにっこりと笑った。
「さっきのプレゼン、よかったよ」
「あー…、ありがとう」
「あれ、僕がお願いしたやつだよね」
「そう、だけど…」
「役に立ったね」
 何が言いたいんだろう。
 確かに一昨日の夜かかってきた電話で追加の資料を頼まれた。それに付随した資料もあったほうがいいだろうと思って冬は今日の打ち合わせの間に合うようにファイル作成に力を入れたが…
 それはまわりまわって名取のおかげと言えなくもない。
 言われてみればそうなのかもしれないと、冬は礼を言った。
「ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして」
 どこかしっくりこない。
 だが今はまだ仕事中だ。その思いを押し殺して、冬は笑顔を作った。
「じゃあ、おれ先戻るから──」
 休憩中とはいえ、建部と相沢を待たせている。
 急いで行かなければ。狭い出入り口に立つ名取の横をすり抜けようとしたとき、冷たいものが耳朶に触れた。
「──ッ!」
 ばっ、と冬はそれを払いのけた。
 驚いて見上げた先には、名取の手があった。
 こちらに差し出されるようにして、宙で止まった指先。
 今、耳に触れたのは──
 くすりと名取が唇の端を上げた。
「真っ赤」
 かあっと頭に血が上る。
「なにす…っ!」
「相変わらずだね」
「な──」
 二の腕を掴まれ、冷たいタイルの壁に押し付けられた。
「今夜空いてるよね? 飲みに行こうよ」
 冬は息を呑んだ。
 なぜ、と声を上げようとしたとき、廊下から女性の話し声がした。
「えー、もうやだあ」
「それでね、そのときノガミくんがさあ…」
 笑いながら近づいてトイレの前を通り過ぎていく。
 掴んでいた指が離れた。
「この間駄目だったんだから、今日は行けるよね?」
 言い返すタイミングを失った冬を見て、名取はそう言った。


「お疲れさまでした」
 終業時刻を一時間ほど過ぎてから、冬はデスクを立った。まだ残っている同僚に声を掛け、オフィスを後にする。
「あー宮田くん、帰るのー?」
 廊下の向こうから歩いてきた杉原が冬に手を振った。
「ん。今日は終わり」
「いいなあ私もうちょっとやってから帰るわ」
 昼間書類の不備があったとかで、杉原はそのやり直しに追われていた。
「課長ももう帰ったんだし、無理するなよ」
「うん。でも明日に残すとめんどいからやっとくわ」
「そっか」
 じゃあ、と言おうとした冬に、あっ、と杉原は声を上げた。
「そういえばどっか見つかった?」
「いや、忙しくてさ。まだ見つけてない」
「そうなんだー。ほんとごめんね」
「いいって」
 一昨日、自分が教えた歯医者が冬を診なかったことを杉原は気にしていた。診なかったというよりもただ間に合わなかっただけだなのだが、事情を話した冬に、杉原はそれは締め出しでしょ! 嫌がらせじゃん! と自分のことのように怒っていたのだ。
『あの受付信じらんない! 今度文句言ってやるからね!』
『いやいいって…』
『そこで黙ってる宮田くんも宮田くんよっ』
 そのときのことを思い出して、冬は頬が緩みそうになった。
 杉原らしい。
「遅くなるなら、帰り気をつけてな」
「うんありがと! お疲れさま」
 杉原と別れてエレベーターに乗り、下に降りて社を出た。
 帰宅する人の流れに沿って大きな交差点を渡り、いつもの道の一つ手前で曲がる。
 待ち合わせの時間はもう過ぎていた。ごめんと入れたメッセージに大丈夫と返され、冬は気が重かった。
 これから名取と会う。
「……」
 道端の自販機に目が留まった。
 そうだ。
 近づいて冬はペットボトルの水を買った。
 断り切れなかった己の弱さが嫌だ。
 痛みは気持ちに連動しているのだろうか。
 きっとそうなのだろう。痛くなりそうな予感に、忘れないうちにと冬は鞄から薬を出して口に入れ、買ったばかりの水で流し込んだ。

***

 スマホの画面を睨みつけながら、大塚は煙を吐き出した。灰皿にぎゅっと煙草を押し付ける。その煙がやけに目に沁みて、狭い喫煙所を出た。
「何考えてんだこいつは…」
 思わず漏れた呟きに、通り過ぎる何人かがちらりと振り返る。だが大塚は構わなかった。誰にどう自分が見られようが構わない。
 もう一度スマホを見てため息をつく。
 画面には陽気なスタンプとともに長めの文章が添えられていた。
『こないだはありがとうな! めちゃくちゃ助かったわ。それで悪いんだけどまたお願いするわ! おまえ評判良かったってマツさんからすげえ褒められてたし、持ってるもんしっかり使わないと損だぞ! じゃあ頼んだ!』
「……」
 何だこの頭の悪そうな文面は。
 やたらと『!』が多いのが気持ち悪い。
 しかもお願いではなくて決定だ。
 やると決めつけられているあたり心底舐められていると思う。
「…誰がやるかよ」
 一度きりの約束だったのだ。
 反故にしても文句は言わせない。
『持ってるもん使わなけりゃ損だぞ!』
 捨てたものを拾って、それでどうなるというのだろう。
 大塚は駅に向かって歩き出した。いい加減腹が減っていた。昼の仕事が長引いたおかげで昼食を取り損ねていた。
 どこでもいい、安くて食えるところ。
 早くテーブルに並ぶ料理を腹に収めたい。
 大塚は繁華街に入り、目についた居酒屋に入った。
「いらっしゃいませえ!」
 店内は間口から思うよりもずっと広かった。奥の座敷では大人数の飲み会が開かれているのか、にぎやかな声が聞こえる。
「カウンターどうぞ」
 案内され、カウンター席に通された。入り口から入って真ん中あたり、店内の奥が見える場所だった。
 大学生くらいのバイトがメニューをくれる。酒は飲まない。こう見えて下戸なのだ。とりあえず冷たいお茶と早く出てくるものなら何でもいいと適当に注文した。
「おまたせしました―」
「どうも」
 すぐに来たお茶をひと口飲む。出されたお通しは大塚の好きなものだった。
 箸を取り、何気なく顔を上げて、手が止まる。
 見覚えのある顔に大塚は目を瞠った。
 まさか。
「──」
 少し離れたテーブル席に向かい合って座っている、スーツ姿のふたりの男。
 そのひとりは宮田冬だった。
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