宵にまぎれて兎は回る

宇土為名

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 泣いている子供が大塚の顔を見てさらに泣いた。
 やれやれ。
「はーいもう大丈夫ですよー」
 見かねた松本がやってきて子供をあやし始める。今の今まで鬼のように泣いていた子供はぴたりと泣き止み、きょとんと丸くした目で松本を見上げた。
「ああー怖かったねえ! でもがんばってえらいねえ」
 よしよし、と頭を撫でられて、目を真っ赤に腫らした子供は診察台の上でえへへ、と笑った。さっきまであんなに泣きじゃくっていたのに、嘘だろうと大塚は内心で思った。
 くそ、これだから子供は。
「…薬を出しますので今夜はそれを飲んで、明日にでも近くの歯医者に行ってください」
「分かりました、先生ありがとうございました」
 若い母親が子供の横で頭を下げた。顔を上げた彼女の顔には疲れが見えていて、ここに来るまで大変だったことが容易に想像できた。
「じゃあ受付でお薬出しますからね、こちらにどうぞ」
「はあーい」
 松本が手を差し出すと、子供は迷わずにその手を握った。きゅ、と離れないように握りしめて診察台をぴょんと降り、母親の服を引っ張ると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「す、すみません! 失礼します」
 慌てて母親が大塚に頭を下げ、ふたりの後を追いかけた。廊下の奥から笑い声が聞こえてくると、とたんに部屋の中が静かになる。
 はあ、と大塚は手袋を脱ぎゴミ箱に投げ入れた。間仕切りのカーテンを開け、ステンレスのシンクで手を洗う。
 疲れた。
 それほど人など来ないと思っていたのに、思うよりもずっと訪れる人は後を絶たなかった。
 甘く見てたな。
 大したことはないだろうと昼間は普通に仕事をしたのが間違いだったか。それとも歳か。
「どっちでもあり得る…」
 ぐりぐりと眉間を揉み解していると、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
 大塚は振り返った。
「せんせー、お疲れさまでした」
 入り口から顔を出した松本が笑ってそう言った。
「もうすぐ交代の先生来ますから」
 壁の時計を見れば、もう0時だ。
 大塚の役目は終わった。
「お疲れさまでした先生」
「松本さんも、お疲れさま」
 松本が差し出した缶コーヒーを受け取って、大塚は苦笑した。


 白衣を脱いで上着を着れば身支度は整う。
 大塚はやってきた若い歯科医に簡単な引継ぎをして診療所を出た。エレベーターで下に降り、ビルを出るとひやりとした風に肩を竦めた。
 人通りの絶えない路地を抜け、駅のほうへと向かう。この時間だというのに大通りはまだ賑わっていた。歩きながら何気に目を向けると、通り沿いのコンビニの外に置かれた灰皿スタンドに目が留まった。横には酔いつぶれたサラリーマンが座り込んでいる。
「……」
 吸い寄せられるように近づき、煙草を取り出した。口に咥えて火をつける。深く吸い込み、レンガ調のコンビニの外壁に寄りかかると長く、長く息を吐き出した。
 宮田冬か。
『──ミヤ』
 あのとき、タキシードの男が呼んでいたのは苗字のほうだったのか。
 なぜか今も耳から離れない、あの声。
 まさかまた会うなんて。
 俺が覚えていることを彼は気づいてない。
『さよなら、先生』
 彼は何も言わなかった。
 大塚も言わなかった。
 わざわざ言うことでもない。
 あんなほんの一瞬のことを──忘れていて当然だ。
 なのにどうして、こんなに後悔しているのだろう。
 胸の奥がざわざわする。
『僕のこと好きだろ、ミヤ』
 その言葉に泣きそうな顔をしていた彼の姿が浮かぶ。
 その彼の顔に、今日道端でうずくまっていた彼の顔が重なる。
 真っ赤な目からこぼれた涙。
 大塚の手に落ちたそれは温かかった。
 またしばらく忘れられそうにない。
 もう会うこともないのに。
「何考えてんだ…」
 覚えているとひとこと言えばよかったなんて、らしくなくて笑えると大塚は自嘲した。

***

 下まで見送ってくれた大塚は、外に出た途端咥えていた煙草に火をつけた。暗がりの中でライターの火が大塚の顔を照らす。
 ああ、そうだ。
 そう、この人だ。
 あのときもこんなふうに煙草を吸っていた。
 冬の頬が緩んだ。
「ほんとにヘビースモーカーなんですね」
「そうだね」
 かすかに大塚は笑った。
「あの、歯医者、教えてくださってありがとうございました」
「ああ」
 咥えた煙草が上下に揺れる。
「もし、いいところがなかったら」
「はい、そうします」
 目を細め、少しだけ首を傾けて立つ大塚は、間違いなくあのときの男だった。髪を下ろし服装はまるで違うけれど、確かにそうだ。
 また会うなんて。
 覚えていることを言おうかどうか一瞬迷って、冬は言わないことにした。
 きっと大塚は覚えていない。
「……」
 言えば気味悪がられるだけだし、第一、そのあと何を話せばいいかも分からない。
 それじゃ、と冬は大塚に頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「ああ…、気をつけて」
 大塚はそう言って、煙草を挟んだ手を軽く上げた。
 まるで大事なものを見送るような言い方に聞こえて、どうかしてると冬は思った。
 もう会うこともない。
 ここに来ても、大塚はもういないのだ。
 寂しいと思う自分が不思議だった。
 これはいったい何だろう。
「さよなら、先生」
 別れがたさを押し隠して、冬はにこりと笑って別れを告げた。


 まっすぐ駅に向かい電車に乗った。
 マンションの近くのコンビニでゼリー飲料をまとめて買い、家に帰ってふたつどうにか胃に流し込んでから薬を飲んだ。
 歯はまだ痛んだけれど、シャワーを浴びて出てくるころには嘘みたいに治まっていた。
「すごいな」
 病院の薬ってこんなに効くのか。
 テーブルの上に置いていた薬袋から一錠出してそこに置き、残りを袋ごと鞄に仕舞った。明日会社に忘れないように持って行かないと。そしてまたどこか見つけないと。
 大塚に貰った名刺も忘れないようにと財布に入れた。
名刺の裏に書かれた歯科医院へ明日行くことも考えたが、会社帰りに行くには少し距離があった。とりあえず自分で探して、なかったらそこに行けばいい。大塚が腕がいいと言っていたのだから、間違いはないだろう。これはお守りのようなものだ。
 それにしても、と冬はスマホを取り上げて苦笑した。
 杉原からどうだった? と歯医者の感想を聞くメッセージが入っていた。もう一時間以上前だ。返すには少し遅い時間に、どうせ明日顔を合わせるのだし、と冬は既読だけをつけておく。
 あそこはないと、彼女にはっきり言ってやりたい。
 そう言われた杉原がどんな顔をするのかちょっと楽しみだ。
 今日はもう早く寝ようと、戸締りをし部屋の明かりを消して冬は寝室に入った。ベッドライトをつけ、スマホをサイドテーブルに置いたとき、着信音が鳴った。
「…?」
 杉原だろうか。
 既読がついたのに返信がないのでまたメッセージでも送ってきたのだろうか。
「──」
 画面を見た冬の顔がふと暗くなる。
 名取だ。
「…佑真」
 こんな時間になんだ?
 メッセージではなく、しかも着信だなんて。
 出るのを躊躇ったが、なかなか鳴りやまない着信音に仕方なく冬は通話を押した。
「はい?」
『ああ、ミヤ。ごめん、まだ仕事中?』
「いや、もう家だけど」
『そうかよかった』
 名取の声の後ろにかすかに外気の音が混じっている。
 外にでもいるのだろうか。
「なにか用?」
『ああ、うん』
 スマホを耳に当てたまま、冬はベッドに腰を下ろした。
『明後日、また打ち合わせだろ?』
「そうだけど、なにかあったか?」
 明後日の十四時、名取の会社で打ち合わせだ。冬は変更でもあったのかと、サイドテーブルの引き出しを開けて紙とペンを取り出した。建部と組んで外回りに出るようになってから、たまに来る夜中の連絡に備えていつでもメモが取れるように用意してある。
『悪いけど外壁の資料を追加で増やして欲しいんだ。希望の品番は──』
 名取が読み上げる番号を冬はメモ用紙に書き付けた。復唱して繰り返し、間違いがないことを確認する。
「わかった、用意しておくよ」
『ありがとう助かるよ』
 その声に被さる車の走行音。
 思わず冬は聞いてしまっていた。
「今帰りか?」
『ああ、まあね──』
「遅いんだな。奥さん心配するだろう」
 ああ、と少し間を開けて名取は笑った。
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 結婚してから二ヶ月、プライベートが変わってもそうそう仕事のスタイルを合わせるのは困難だ。彼女は変わらず忙しいのだろう。
「じゃあ、気をつけて」
 何気なく冬はそう言っていた。
 大した意味もなく、大塚が自分を見送ってくれたように。
「──…、…」
 名取はまた少し黙り込んだあと、何か言った。だが電波が悪いのか、うまく聞き取れない。
「おやすみ」
 どうせまた会うのだ。否が応でも。
 冬はそれだけ言って通話を切り、布団の中にもぐりこんだ。
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