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第六章 サルヴァンテの魔術師
68 献身
しおりを挟む時を少し遡る。
王宮の奥にそびえる塔の一室で、コツコツと規則的な靴音が響いていた。
「――つまり、ヴィットリオ殿下はこう仰いましたのね。女主人を殺されかけたぺルラ家に、その犯人を許せ、と」
厚い絨毯と磨き抜かれた調度品に囲まれながら、鏡、グラス、陶器、そして窓のない部屋。
位の高い囚人を閉じ込めておくための部屋に呼び出されたフランチェスカ・ぺルラは、長椅子に掛けて静かに聞き返した。
率直な確認に目を逸らしたのは、テーブルを挟んではす向かいに腰かけるエルロマーニ家の長子、ラウルである。
その隣に座るレオナルドは涼しい顔で頷いた。若干十七歳のぺルラ家次期当主の冷ややかな激怒は承知していたが、王太子の名代がそれを斟酌してやる必要はない。
「そうです。国中の魔術師と兵が戦っています。あなたのお父君と、姉君も」
「……それでも人手が足りないから、釈放を認めろと。まだ正式な謝罪もなさっていないリカルド様を、大混乱の嵐の街に、放てと」
姉に比べれば理性的だが、言葉の一つ一つに感情が滲みだしてきていた。短気を家訓に掲げているかのような一族だと思えば、これでもかなりましな方だといえよう。
「それで父や姉を差し置いて手柄でも立てようものなら、陛下も大手を振って恩赦、世間的には拘束されていたことすら知られない、という筋書きでしょうか」
「……フランチェスカ。怒るのは最もだが」
嫌味に耐えかねたラウルが口を挟んだが、フランチェスカは年も格も上の家の嫡子に、まったく引こうとしない。不機嫌なときの顔は、姉によく似ていた。
「ラウル様は言わずもがなとして。バディーノ侯爵家も、リカルド様に傷をお付けになりたくないのでは? ……畏れながら、オルテンシア様は侯爵に大層かわいがられているとお聞きしました。そのご婚約者ですもの、たかが占い師一人呪ったくらいで経歴に泥を付けられては叶わない、とお考えなのでは」
ちらりと背後を窺ってからの後半の言葉は、声をひそめて繰り出されたが、かえって不快感を凝縮したような物言いとなっていた。レオナルドはいけしゃあしゃあと答える。
「フランチェスカ殿。納得していただこうとは思っていません。ただペルラ家の方々の心情を思えばこそ、お伝えしないわけには参りませんので、ご足労いただいたまでのこと」
「すでに決定事項というわけですか。父がこの場にいても、同じように仰られましたかしら」
窓のない部屋にも、風の音が聞こえた。廊下の窓からだろう。
屈辱に震えるフランチェスカの心象のようだった。しかしレオナルドはそれを慮ってやる立場にない。
――部屋の奥にいる当事者が他人事のように座っているだけで、自分が必死になっているのは、内心釈然としないところもあったが。
「もちろん平時であれば、呪詛罪は厳正な対処がなされてしかるべき大罪です。ですが、今は非常時です。リカルド殿のお力なくば、最悪伯爵や姉君の御身にも危険が及ぶかもしれないのです」
「脅しですか」
「脅しで済むとお思いか」
フランチェスカはしばらく怒りに燃えた目でレオナルドを睨みつけていたが、やがてその青い目を閉じ、苦々しげに言葉を漏らした。
「――レオナルド様。母親の死の危機にひとり居合わせた私から、王太子殿下へのお願いを言付かっていただけますかしら」
レオナルドは嘆息した。非常時だと何度言えばわかるのか。
この状況で交換条件などどうして飲めよう。
「フランチェスカど」
「あなたが姉にしたことも聞き及んでいますからね」
むっとして黙り込んだレオナルドに代わり、「お聞かせください」と促したのは神妙な顔のラウルだった。
フランチェスカは雷が鳴りやむのを待ってから、淡々と要求を口にした。不思議そうな顔をするラウルの横で、同様に(意図が分からない)と内心眉を寄せながら、レオナルドは努めて表情には出さず、頷いた。
「わかりました。殿下に、ひいては陛下に、お伝えしましょう」
ようやく、フランチェスカが剣呑な視線を収めた。娘、妹としての意地と、貴族の一員としての判断に折り合いをつけているのだろう。まつ毛を伏せ、静かに虚空を見つめている。
――と思っていると、腰を上げようとしたレオナルドに突如、問いが投げられた。
「レオナルド様は、嫉妬なさらないのですか」
虚を突かれたが、すぐにそれが前妻とその新しい婚約者のことだと合点がいった。特にはぐらかす必要性も感じないので、一言「別に」と返した。
しかし、再び見上げてきた碧眼は疑わしそうだった。無駄話とは思いつつ、もう少し言葉を足してやることにした。
「私は、あの子が望むように過ごさせたいだけですから」
そう言うと、フランチェスカは驚いたように目を見開いた。
「……献身的ですね」
「そうですか? オルテンシア自身には負けますが」
「え?」
「彼女の愛は見返りを求めないでしょう」
沈黙が落ちる。
何言ってるんだこいつ、という顔の少女に、男は、なんでわからないんだこいつ、という顔を向けた。
ややあってから、レオナルドはごく基本的なことを改めて教える教師のように、丁寧に言い直した。
「彼女がそばに置く者を選ぶ感性には“自分を愛するもの、利になるもの”という選定項目はない。嫌われていても、自分が好きならそれでいい。徹底的に自分本位ですが、純粋な好意でのみ生きているんですよ」
しばらくしてから、フランチェスカは嫌そうに囁いた。
「その結果、“他人の気持ちに頓着しない”になっているんですか? ……歪み過ぎです」
「歪みのない人間に恋はできなくありませんか? どう繕っても贔屓の言いかえなのに」
レオナルドが時計を見ながら返す。もうそろそろ本当に動かないといけない。
フランチェスカは口をとがらせて何かを考えていたが、やがて腑に落ちるところがあったように頷き。
「……そうですね」
そのとおりですねと繰り返すと、立ち上がって静かに部屋を出ていった。
レオナルドは視線を上げた。
部屋の奥の肘掛椅子に、まるで幼子に言い聞かせる親のような声をかける。
「というわけでオルテンシア、リカルド殿にひと働きを願うので、彼からいったん離れなさい」
肘掛椅子の周りで間断なく響いていた、靴音が止まった。代わりに不機嫌極まりない女の声が響く。
「……小ピンクのほうはともかく、おまえの言葉は全部聞こえていたわよクズ眼鏡」
「光栄です」
「離婚理由をお忘れのようね。あたくしがこの世で最も嫌いなものは、あたくしのことをさも理解し尽くしているかのように話す人間よ」
唾でも吐き捨てようかと言わんばかりのオルテンシアに、レオナルドは子の癇癪に頓着しない家庭教師のような顔で応じた。
「存じております。だからなおさら、あなたにろくに興味を持たないリカルド殿が心地よいのでしょう」
「分析しないで。腹が立つ」
顔をしかめても否定はせず、王女は婚約者の首に腕を巻き付けてよりかかった。手を体に添わせて滑らせて、手首の拘束に触れる。魔力の込められた枷だ。
鍵を寄こせと、レオナルドに催促の手を向けたとき。
「……なんで僕が出ると思ってるの?」
不躾な言葉で沈黙を破ったリカルドに、レオナルドが眉を上げる。
「リカルド!」とラウルが語気を強めたが、リカルドは冴え冴えとした目線をレオナルドから逸らさない。
「王太子命です」
「僕は陛下の魔術師だったはずだけど。まさか僕が捕まっている間にお亡くなりになった?」
「もちろん陛下もお認めです。殿下の指揮と責任のもと、出ていただきますよ」
勝手はさせんと言い放つがリカルドも怯まない。喉をつまらせたような顔のラウルを尻目に、オルテンシアは興味深げに従兄弟と婚約者の顔を交互に見た。
リカルドはおよそ虜囚とは思えない尊大な態度で足を組み替えた。
「僕が宮廷付きになったのは、単なるなりゆきだった。なれたからなっただけ。やってみれば仕事は多いし、面倒も多いし、不寝番のシフトなんかもあって不自由極まりない。わざわざ家の名を上げる必要もない公爵家の末っ子にしてみれば、ろくな仕事じゃないと思う」
ラウルが助けを求めるように天井を仰いだ。
「……でもフェリータは、この地位にものすごく固執してた」
途端、兄の目が丸くなって弟に向く。レオナルドも不機嫌さはそのままに、黙って耳を傾けていた。
「献身的っていうのは、フェリータのための言葉だよ。彼女には、星の血統とは国のための兵器であるっていう信念が、ごく自然なものとして染み付いてる。いざというとき、最前線で戦うのが、一兵卒ではなく自分たちだと信じ切ってる。貴族魔術師は国のための剣で盾で旗だから、強そうで偉そうでいて当然だと思ってるし、逆にそう振る舞うなら然るべきときにしっかり役目を果たさなきゃいけないと思ってる。――僕は彼女のそんな考え方に共感しないし、なんなら世間知らずで独善的でものすごく王家に都合のいい洗脳受けてんなとしか思わないんだけど」
翠緑の目が伏せられ、何かを追うように横を流れていく。何か懐かしい物を見るような、温かみのあるまなざしで。
「……そこまでするだけの価値があるものだと、思い込んだままでいさせてやりたい。この国も、星の血統という枠組みも、宮廷付き魔術師の地位も。たとえ、半分以上がまやかしや張りぼてだとしても」
できれば、僕自身も、もう一度。
最後は、俯き、口の動きだけで声にはならなかった。レオナルドは何も言わなかった。
そこから一転して、リカルドは怜悧な顔に不遜な表情を浮かべて顎を上げ、横柄に宣言した。
「僕の優先順位は決まってる。最初に向かうのはフェリータのいるところ。聞きたいこともあるしね。で、次にロレンツィオ、あの人多分もう魔力ないだろ。二人の安全が確保できたら、殿下のご命令を片付ける。フィリパ嬢から魔女の心臓を取り返すんだっけ? それこそ兄さんが、こんなところで突っ立ってないでやってくればと思うんだけど」
「殿下のご命令を三番目? リカルド、自分の立場が分かっているのか」
ラウルは怒りもしなかった。呆れ、疲れ切ったように口を開くその様子には、弟の傲慢な態度に慣れ切っているのが見てとれた。
「分かっているよ。僕が要るんでしょ、この島は」
リカルドもリカルドで、気を揉む兄に一瞥も送らない。ある意味で兄に甘え慣れていると言えた。
レオナルドは無表情でリカルドを冷たく見下ろしながら、内心はらわたを煮えくり返らせていた。オルテンシアのそばで前婚約者(の、ようなもの)のことを愛おしげに話したことにも。王家を軽んじる言葉の数々にも。自分が祖父に散々焚きつけられて、結局今もたどり着けていない宮廷付きの地位を取るに足らないもののように言われたことにも。
けれどそのどれも、塔の外の災厄の前には無意味だった。
「失敗は許されない」
短く告げ、囚人の戒めを自らの手で解くと。
「しないよ。君じゃあるまいし」
悪気皆無で言われ閉口する。手のひらの傷はまだ痛みを訴えていた。
絶対零度の声で支度を促し踵を返す。オルテンシアのあっけらかんとした声が背中で聞こえた。
「リカルド、フィリパを殺してはダメよ」
「なぜです」
「あたくしのお気に入りだもの。勝手に死なせたりしたら困るわ」
扉を閉める。ともに出てきたラウルが申し訳なさそうにしていたが、しつける気がないあたり、やはりエルロマーニもぺルラとつるむだけはあるなとしみじみ嫌気がさした。
――触手の呪獣が派手に討伐されたのは、遠目にも見えた。
おかげでレオナルドは、突然馬を捨て、魔力を足場に運河の上を駆けていったリカルドの居場所をすぐに特定することができた。
近づけば、大運河の横の店舗の軒先へ力ない男女を運び終えたらしい一群の中に、探していた銀髪を見つけて安堵する。
馬の足を早める。
追いついた頃には、昔馴染みの王女の取り巻きが憎たらしい公爵家末子にヘッドロックをかける光景が広がっていた。
足を止めかけ、思い直してさらに近づく。二人の周囲では、先ほど相対したのとは別のピンク髪の女が、拾ったのであろう木材でロレンツィオの背を叩きながら「あなたこそいい加減リカルドから離れなさいよ!!」と声を荒らげている。
「馬鹿言うなよこれが礼だ。あんたも似たようなことやってただろうが」
「その理論で行くならわたくしも朝に夕にお前へおんなじことをしますからね!?」
「今まであんたにされたことに比べたら、こんなの本当に抱擁と変わらないんだよなぁ!」
二人が雨音に負けじと喚く間、リカルドは顔も上げられず、ひたすら首と肩を固める腕を叩き続けている。
レオナルドはその様子を心ゆくまで観賞してから、満を持して「リカルド殿」と声をかけた。
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