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凪編
【凪編】47:xx16年8月9日
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ヴヴ、ヴヴ、と低い音が枕元に響く。
その音に促されるように、煉矢は覚醒し瞳を開けた。
煩わしそうに端末に目を向ければ、未だコールが続く、CORDの通話の着信だった。
「静……?なんだ、朝から……」
一向に鳴りやむ様子がないそれに、
充電ケーブルをつけたまま煉矢は通話開始ボタンをタップした。
「はい」
『煉矢、そっちに乃亜が行ってないか?!』
「は?」
あまりにも大きな声に一瞬顔をしかめたが
話の内容に一気に眠気が飛んだ。
静は焦りを隠そうともせず、まくしたてるように続けた。
『乃亜がいなくなった!家の中にも、外にもいない!』
「おい、待て、乃亜がいなくなった?何を言ってる?
スマフォは?」
『スマフォは家に置かれたままだ!普段持ち歩いてる荷物だけない!』
そこまで聞いて、固まっていた思考がようやく動き出すとともに
さっと血の気が引かれていくのを覚えた。
乃亜がいない。
家にいない。
荷物をもって、しかしスマートフォンは置き去りのまま、どこかへいなくなった。
まるで家出ではないか。
煉矢は充電ケーブルからスマートフォンを外し、
努めて冷静に、電話口の向こうで完全にパニックになっている親友に声をかけた。
「静、落ち着け。
乃亜がどこかに行ったのは間違いないんだな?
近場のコンビニや、散歩や、そういった話じゃないんだな?」
『近所はひとしきりみて回ってきた。
一時間は探した。戻ってるかと思って帰ったが戻っていない……!
くそっ、あんな状態でどこに行ったんだ……!』
「おい、あんな状態ってなんだ。乃亜になにがあった?詳しく聞かせろ」
6月末に乃亜から連絡を拒絶され、それ以降、彼女への連絡はしていない。
ずっとなにか嫌なものは感じていたが、
下手に連絡してかえって追い詰めることになりそうで避けていた。
だが、静の言い回しに嫌な予感が全身を支配する。
煉矢はスマートフォンをにらむように視線を向ける。
そして静が語ったことは、その嫌な予感がこれ以上ないほどに的中した内容だった。
ヴァイオリンの練習を重ね過ぎたことによる故障。
しかも相当追い詰められていたのか、痛みを押して続けていた。
『6月ごろからずっと痛みがあったらしい……。
なのに、鎮痛剤で誤魔化して……っ、くそ、俺はなんで気づかなかった!』
「落ち着け、静」
『落ち着いていられるわけがないだろう!
ヴァイオリンが弾けない、禁止だと言われて、見たことがないほどに消沈していた!
もっと俺があいつに寄り添って、よくよく見ていてやれたら……っ』
「だから落ち着けと言ってる!!」
思わず、声を荒げた。
静の言っていることは、そのまま自分に跳ね返ってきたからだ。
6月。自分が連絡した時期ではないか。
あの時にすでにそういった状況になっていたのだとしたら。
煉矢はぐっとスマートフォンを握る手とは逆の手を強く握りしめた。
「乃亜が行きそうな場所を冷静に思い出せ!」
『だからお前に連絡したんだろうが!』
「どこが冷静だ、あいつが俺の住所を知るわけがないだろ?!
お前にだって住所を教えた覚えはないぞ俺は!」
『……っ、ああっ、くそ!』
「ともかくいったん冷静に思い返せ。
俺もすぐに出れるように支度する。
いったん切るがすぐに掛けるからその間に思い出しておけよ」
『っ、分かった……』
通話を一度切り、煉矢はスマートフォンを乱暴にベッドに投げ出す。
着替えをしてすぐに出れるように準備をしなければならない。
しかし、クローゼットに手を伸ばした手は止まる。
「っ、くそ!」
堪えようもなく、身の内の憤りを壁にたたきつけた。
ダンッ、と強い音が響く。
しかしそうでもしなければこらえようがなかった。
あの時、乃亜から受け取ったメッセージ。
明確な拒絶を示したそれは、あまりにも乃亜らしくないのだ。
___考えればわかったはずだ……あいつが、あんな言い方をする、その状況……!
その時にすでに痛みがあって、それでも無理に弾いていて
その最中に自分が連絡していたとしたら。
乃亜は自己評価も自己肯定感も著しく低い。
先のアメリカでの一件で、それはいくらか前向きになったと感じられていた。
しかしそれはヴァイオリンというものあってこそだ。
それを思うように弾けないとなっていたその矢先だったら。
自分がさらに、追い詰めた。
その結果が、あの拒絶。
煉矢は猛烈な後悔を感じながら壁を殴りつけた手を額に押し当てた。
閉じた瞼の裏に思い出されるのは、大切な、愛しい人の姿ひとつだ。
ヴァイオリンを奏でる乃亜の姿。
ステージ上で楽しく笑っている姿。
あの海岸沿いのベンチで、涙をこぼしながらも、
輝くような微笑みで、見つめてきた乃亜の姿。
それが一様に崩れていく。
煉矢は首を振り、自分を奮起させるように身支度を急いで整えた。
スマートフォンを手に取り、契約しているシェアカーを予約し終え、
静へと発信した。
間もなく静は出た。
声色は先ほどのような焦りはないが、ひどく弱弱しかった。
無理もないが、今は打ちひしがれている場合ではない。
「それでどこか心当たりはないのか?」
『いや、せいぜい、水野先生……ヴァイオリン教室の先生のところくらいしか……』
「乃亜はヴァイオリンに関して悩んでいたんだろう?
なら、おそらくヴァイオリン関連の場所はない」
『だが他に思いつく場所なんて……!』
「だから冷静になれ。お前がパニックでどうする。
いいからいったん思い返せ。ヴァイオリン以外で、あいつが行きそうな場所だ。
荷物を持って行っているといったな?
なら財布や定期も持ってる。行動範囲を考えろ」
『………、学校、いや、だが今は休みだ、いったところで』
「不安定で悩んでいたあいつが行きそうな場所は他にないのか?
知り合いや、友人、そういった場所は?」
『いや、特別な友人はましろくらいだが、ましろのところに行っていたら
俺に連絡があってもおかしくない。
第一、あいつの性格からして、ましろのところに行っても
迷惑をかけるなど考えるだろうし……」
それは確かにそうだろう。
仮に乃亜が自分の家の住所を知っていたとしても、
状況的にこちらに来るとは考えづらい。
沈黙が流れる。
静が電話口の向こうで必死に頭を回しているのが分かる。
1秒が恐ろしく長い中、煉矢は辛抱強く、静の反応を待った。
そして時間にして2,3分程度だろうが、ひどく長いそれを経て
はっと息を飲んだ声が聞こえた。
『昔いた施設だ、薬師先生のいる施設!!』
確かにその場所なら、煉矢も異論は思い浮かばない。
まだ何も解決していないし実際にいるかも分からない。
しかし煉矢はひとつ息を吐き出した。
「ならそこにお前はすぐに車で迎え。いいか、とにかく冷静にだ。
スビート違反で捕まるなどしょうもないことを犯すな。
乃亜のスマフォも持っていけ。
俺はあいつの学校の方に念のため車を回す。見つかったらすぐに連絡しろ」
『分かった。……煉矢、いつも悪いな』
「くだらないことを言ってる時間があるなら急げ」
そうして通話を終え、煉矢は家を出た。
近くにあるシェアカーのパーキングに急いで向かう。
予約した白い車に滑り込むように乗り込む。
夏休み中の学校に行くなど可能性はおそらく限りなく低い。
言ったところで無駄足になる可能性のほうが高い。
しかしそれでも。
___動いてなければ、気が狂いそうだ……。
自分の失敗のせいで、彼女を失うなどという、恐ろしいことを考えてしまう。
煉矢はただひたすらに、ハンドルに額を押し当て、乃亜の無事を祈った。
静かな住宅街の一角。
公園に隣接したその場所は白い壁と明るい緑色の門が特徴的だった。
広い敷地には小さいながらも園庭が広がり、
園庭の周囲は黒いフェンスで囲まれているものの、
緑色の人工芝と、フェンス周りを囲うように季節の花が植えられているため
圧迫感や暗さはない。
晴れた日には毎日のようにそこに住む子供たちの明るい笑い声と
世話をしているスタッフたちのにぎやかな声が響いている。
少々特殊な役割を持つ場所ではあるが、スタッフや子供たちの人柄もあり、
近隣住民たちには明るく受け入れられて久しい。
時刻は8時を少し過ぎた頃、長くそこに勤める金髪にツーブロックの男は、
やや眠そうに玄関先に足を向けていた。
黒のサルエルパンツに白いTシャツを着てゆったりと歩く姿は、
一見してとてもこういった施設の人間には見えない。
だが誰よりも子供たちのことを真摯に受け止め、心を救ってきたかは数知れない。
もっとも本人はそんなことを一切気にしていない。
夏休み中のお盆期間、子供たちはこの時期だけに許された朝寝坊を
思う存分満喫するのか未だに起きてこない。
しかしスタッフはそうもいかない。
施設の前に恒例となっている水まきを済ませようと
水をたっぷりと入れた緑のジョーロを片手に、大きな門の脇、
夜間休日用の入り口であるドアを引いた。
「……ん?」
ドアの横に誰かがいる。
大きな緑の門の横に寄り掛かって俯く姿。
一瞬混乱したが、その髪の色に気付かないはずはなかった。
「っ、乃亜? お前、乃亜か?」
「……薬師、先生……」
やはりそうだった。
薬師はあわてて駆け寄ろうとしたが手に持つジョーロが邪魔だ。
入口の中へとそれを投げるように置いて、
数年前にここを卒園したはずの彼女に駆けよる。
乃亜はこちらの姿をとらえ、壁に寄り掛かっていた身体を浮かし、
こちらに身体ごと向くが、様子がおかしいことにすぐに気付いた。
そもそもこんな時間帯、まだ早朝の時間に乃亜がいることがおかしい。
「どうしたんだよ、こんな時間に。
一人か?静はどうした?」
「……っ、せん、せ……、わたし……っ」
乃亜は静の名前を出した途端にびくりと身体を揺らし、
右手でつよく額を抑え込むようにして俯いた。
ただ事ではないことを察し、薬師は乃亜の肩に触れた。
「ああ、分かった。まずは話聞くから、中にはいれ。なっ」
「ご、ご、めんなさい……っ」
「なに言ってんだ。ここもお前の家だっつったろ。
家に帰ってきて謝ることなんかねーだろ、な?」
「っ……はい……」
俯く表情は見えない。
しかし額を抱えるようにしていた右手で目元を拭う様子から
泣いているのは明白だった。
薬師の促すままに、乃亜は施設の中へと入っていった。
久方ぶりの施設の空気。
優しいハーブの香りや、施設内の匂いは、乃亜にとってひどく馴染み深いものだ。
あの地獄のような場所から保護され、
最初はまた兄と離れ離れになることに恐怖さえ覚えたが、
薬師をはじめとしたスタッフたちや、ここで暮らす子供たちに救われ
やがて心を開き、少しずつその傷を癒した場所だ。
ここでは怖いことも痛いことも何一つなく、
心底穏やかな時間を過ごすことができた。
乃亜にとって、卒園した今でも、大切な場所だということは変わらない。
乃亜が通されたのは事務室の隣にある応接室だった。
明るい陽射しが入る広い窓、壁に飾られた大きな空の絵。
その絵はここの卒園生で、今はアート制作を生業にしている人が贈ったものだと聞いた。
明るい木目調のテーブルの上に、冷たい麦茶が置かれた。
その前にある白いソファに乃亜は腰かけ、
隣に麦茶を運んできた薬師が座った。
「さて、とりあえず、何でもいいから話してみろ。
ちぐはぐでも、支離滅裂でも、ぐっちゃぐちゃでもいい」
薬師はそういって乃亜の背中に手を置いた。
あたたかく大きな手。
恐怖に怯えて、声を殺して泣いていた夜に
抱き上げ、抱き締めて、さすってくれた手だ。
「……みんな、喜んで、くれたんです」
「おう」
「ヴァイオリンを弾いたら……笑って、喜んで、くれて……。
だから、同じ、ように弾きたかったのに……弾けなくなって……」
「怪我のせいでか?」
薬師は乃亜の左手のサポーターに気付いていた。
乃亜はゆっくりと首を振った。
「わからないです……どうして、前みたいに、弾けないのか……。
今でも、全然……。
だから、せめて、ちゃんと、上手く、弾きたいって……ずっと、練習して……。
ヴァイオリンがあれば、弾ければ、私でも、少しは……
私なんかにも、少しは、価値が、あるって……認められるような、気がして……」
先のコンクールでも、そしてアメリカでのイベントでもそうだった。
何の価値もないような気がしていた自分に、唯一、できた拠り所だった。
しかしそう思ったとたん、先の酷評が頭をよぎり、唇の裏を強くかんだ。
「……だから、手を、放したく、なかった……。
わるい、こ、に、戻り、たくなかった……っ、でも……!」
ぎゅっと自然と両手に力が入り、とたん左手が痛んだ。
右手でとっさに左手首を押さえる。
その痛みが、昨日の出来事を否応なく思い出させた。
震える声で名前を呼ばれ、血の気が引いたような顔でこちらを見ていた。
ヴァイオリンを自室に置くと言った時の兄の表情は、見たことがないほど鋭い視線だった。
「っ、さっさと捨てればよかったのに、馬鹿みたいにすがって、
私なんかのヴァイオリンに価値があるみたいに思い込んで、
そのせいで、っ、に、兄さん、に、あんな、迷惑かけて、
心配、させ、……っ、く、苦、ませ、て……っ!
私なんかの、せいで、兄さん、あんな……っ」
途中からもう上手く言葉が出てこない。
涙はとめどなく落ちてくるし、うまく思考も回らない。
乃亜はしゃくりあげながら必死に言葉を吐き出していく。
背中に触れる手がさするように上下に動く。
動かない左手の代わりに、右手の甲で涙をぬぐう。
けれど止まらなかった。
「私、なんか、にいさん……っ、兄さん、に、嫌われ、たら……っ、
悪い子、って、いわ、れ、たら……っもう、私……!」
「……乃亜、そいつはあり得ない話だぜ」
優しく諭すようにかけられた言葉に、ようやく乃亜は顔を上げ薬師の顔を見た。
真っ赤になった目や目元で見つめた薬師の顔は、
いつも大切なことを伝える時の笑みだった。
「お前がここにきたとき、静はまだ高校だったな。
時間も限られてるってのに、足しげくここに通ってよ。
持てる力も、知恵も、全部フル動員して、
お前を引き取ってったアイツの誇らしい顔は、俺は忘れられねぇよ」
「で、も……、わたし、そんな兄さんに、恩を仇で返すみたいに、迷惑、かけて……」
「関係ねぇさ。ちょっと迷惑かけたぐれぇで
お前を放り出すようなタマには見えなかったぞ、俺にはな」
「……」
「……ま、こればっかは静にしか、言えねぇ話か」
背中をさすっていた手で髪を撫でられる。
乃亜は涙は収まったものの、また俯いて視線を落とした。
薬師の言葉を疑う気はない。
けれど確信が持てない。
あんなに迷惑も心配もかけ、苦しませてしまったことが、心に強い重しをつけていた。
薬師は肩で息をし、立ち上がった。
「よし、ちょっと場所、移動するぜ」
「え……」
乃亜はそれを見上げると手を差し伸べられた。
戸惑いながらその手を右手でとり、子供の手をひくように、
部屋の外へと連れ出される。
懐かしい廊下。
壁にはいくつもの絵や工作で作ったものが飾られている。
写真もたくさんだ。
その中には、幼い頃の自分の写真も残っていた。
夜、どうしても眠れない中、こうして手を引いて、
夜の散歩だと、園庭に連れ出してくれたこともあった。
空には月が輝いていて、夜が怖いばかりでないと教えてくれたのはこの人だ。
朝、早く目が覚めた自分を連れて、水まきしようと明るい光の中に連れ出し、
もっと朝寝坊していてもいいと、考えられないことを言ってくれたのも。
煌めく水と、濡れた朝顔の光景は忘れられない。
少し離れた「家」と呼んでいた、子供たちの生活する場所から少し声がする。
子供たちが起きだしてきたのだろう。
「ほら、ここだ」
「……音楽室」
自分が最後、迎えに来た静と待ち合わせしたのもここだ。
最後にここで自分はヴァイオリンを弾いて待っていた。
薬師に促され中に入る。
少し傷ついたフローリングの向こう、ピアノをはじめとした楽器が並ぶ。
子供たち全員が入っても余裕があるくらいに広いその部屋。
乃亜はよくここにいた。
「次は、音楽でお前の気持ちを教えてくれ」
「え……でも、私……」
乃亜は自分の左手に目を向ける。
とてもこれではなにもできない。
しかし薬師はふっと笑い、腰に手を当てて言った。
「ンなもんいらねぇさ。
ガキのころはよく歌ってたろ?久しぶりに聞かせてくれ。
なんでもいいぞ?昔の歌でも、今好きな歌でも、なんでも」
「歌……」
幼い頃、確かにここでよく歌ったいたが、
今そうする意味が分からず戸惑う。
しかし薬師は微笑んだまま、黒板に背をつけて笑っている。
乃亜は少し迷いながらも、すうと息を吸い込んだ。
その歌は昔ここでよく歌っていた歌だった。
元をたどれば、【パッヘルベル:カノン】をモチーフにした曲らしく、
クラシックをよく聞くようになってから、確かにと納得した。
優しいメロディラインと歌詞。
遠い日、いつか過ぎ去った日を抱きながら、
遠くへ、未来へ、迷いながら、祈りながら、歩き続けていく。
そうして歌いきったとき、ぱちぱち、と薬師が拍手をしてくれた。
「昔からお前は本当に歌が上手かったな。
歌わせれば音程一つ外さない、楽器だってちょっとやり方教えりゃすぐに弾けちまう。
それだけじゃねぇ、歌ってるときや楽器に触ってるときは、ただ楽しそうだった。
だから分かった。
言葉にしなくたって、こいつは心底音楽が好きなんだってな」
「………好き?」
まったく想像していなかったというような顔で、
乃亜の瞳が徐々に大きくなっていく。
薬師はふっと笑い、背中を浮かし、乃亜の前に立ち、
乃亜と視線を合わせるよう、少し屈んで、乃亜の目を見た。
「なぁ、乃亜。さっき、言ったな。
さっさと捨てればよかった、馬鹿みたいにすがったってな。
あのころ、いや、もしかしたら今も、
好きや欲しいって思うことが悪いことのように感じるお前が
言葉にこそ出来なくても、心で求めちまってたのが音楽だ。
そして歌で、楽器で、ヴァイオリンで、お前は自分の感情を思い切り表していた。
自分の心が心底欲して、自分の心を思い切り表せられる。
そんな大事なモンを、捨てられるわきゃないんだよ」
その言葉に乃亜はいままでずっと心にあった空白に、
ストンとなにかが収まったような気がして、右手で胸に手を当てた。
「……好き?私が……音楽を、好き?」
朗らかに慈愛深く微笑む薬師の顔。
ここにいたころから変わった様子はない、恩師、否、父親の顔。
音楽に対して、ヴァイオリンに対しての感情がなんなのか、
乃亜にはずっとわからなかった。
否、本当は分かっていたのかもしれないが、見て見ぬふりをしていた。
だが、薬師の言葉は自分の気持ち以上に信じることができる。
乃亜は目を閉じ、触れた胸からあふれる、あたたかいものに、記憶を遡らせていく。
初めてここで音楽というものに触れた。
歌やヴァイオリン、ピアノ、ギター、様々な楽器を使って触れたそれ。
初めて歌を歌ったとき、最初は大きな声を出すのが怖かった。
けれど他の子供たちが大きな声で歌って、自分もそれに少しずつ倣っていった。
ビアノを弾くと皆が囲んで一緒に歌ってくれた。
ヴァイオリンを弾くと、みんなが驚いて、そして感激したように笑い、拍手してくれた。
その時の気持ち、それも、こんな風にあたたかかった。
乃亜は目を開ける。
生まれて初めて、それを自覚し、自然と、口元が上がり、微笑んでいく。
「……そう、ですね。私は……音楽が、ヴァイオリンが、好きです。
それを聞いて、笑顔でいてくれる人を見るのが、好きだったんですね……」
だから、あんなにも手放したくなかったのか。
初めて好きになったもの、大事なものだったから。
だから、弾けなくなったことに絶望したし、
だから、手放すときに心が震えたのか。
乃亜はそれにようやく、理解した。
たった一つの、好きを表現していたものだったからだ。
ずっと分からなかったことが、
明確な形となって心に落ちてきた。
ここしばらくずっと不明瞭だった視界が、少し晴れたような気がした。
微笑む乃亜の様子に、薬師はおだやかに笑って返す。
その笑みに心から安心感を覚え、安らぎさえ感じた。
そのとき、廊下を走る音がした。
子供の足音ではない。
薬師はさして驚いた様子はなく、ドアに目を向ける。
乃亜もそれにならって視線をむけると同時に、ドアが激しく開いた。
「乃亜!!」
「……兄さん……」
乃亜の姿を目に、静は飛び込むように音楽室に駆け込み、そのまま乃亜を抱きしめた。
乃亜はそれに目を見開く。抱きしめてくる静の身体は震えていた。
「心配した……っ、本当に……、本当に、無事でよかった……!」
「兄さん……」
絞り出すように告げる声。
乃亜はここにきて、自分がしでかしてしまったことに気付いた。
朝起きて、何も言わず、家を出てしまったのだから。
静にさらに心配をかけ、迷惑をかけてしまったと気づき、きゅっと眉を寄せる。
けれど、身勝手にも、嫌われていない、ということに少し安堵もした。
「ごめん、なさい……兄さん……」
「無事だったんだから、もういい……。
……薬師先生、ご連絡くださって、ありがとうございました」
「おう」
乃亜が薬師に目を向ける。
いつの間に、という視線だ。
薬師は気づかないうちに黒板に背を預けていたが、ふっと笑い肩をすくめた。
「お前を応接室に通して、茶ァ取りに行った時にな。
静の連絡先は知ってたし、念のためな。
……さて、と。んじゃ、乃亜、お前、どうする?」
「え……」
「今夏休みだろ?しばらくここにいたいんなら、構わねぇぞ」
それに乃亜は少し目を見開く。
ここにいていい。
そう言葉にされることにひどく安心感を覚えた。
自分を抱きしめていた静は離れ、肩に手を置いてくれているが
その手がぴくりと反応したことにも気づいた。
ここは自分にとって、少なくとも今は、どこよりも安心ができる場所だ。
けれど。
ちらと静を見る。
静はこちらに視線だけ向け、すぐにそれを逸らした。
「……乃亜、お前が望むなら、それでもいい」
いつもまっすぐに目を向けてくれていた兄が、
初めて自分から目を逸らした。
乃亜はそれに少し胸が締め付けられたような心地になるが
それもまた、自分が蒔いたことだ。
散々に勝手なことをし続けたためだ。
それでも、兄は自分を探して、ここにきてくれた。
先ほど部屋に駆け込んできてくれた様子が思い出される。
乃亜は薬師にまっすぐ告げた。
「……いえ、帰ります」
乃亜がそう告げると、静は少し驚いたようにこちらを見た。
ここでこの施設にいることは容易い。
けれど、それでは、今度こそ本当に、兄を裏切ってしまうような気がしたからだ。
「そうかい。
まぁ、またなにかあれば来い。
ここを出る時も言ったが、ここもお前の家なんだからな」
「はい。薬師先生、ありがとうございます。
……本当に、ありがとうございました」
自然と微笑み挨拶すると、それに静が目を見開くのが視界の端にうつる。
思い返してみても、この数か月間の自分は、ずっと迷いの中にいた。
けれど、好きという感情を自覚したからか、心は昨日よりはるかに落ち着いている。
散々勝手なことをした自分を兄がどう思っているのか分からない。
けれどそれも含めて、ちゃんと向き合わないといけない。
そんな思いを抱きながら、乃亜は静の手を握った。
その音に促されるように、煉矢は覚醒し瞳を開けた。
煩わしそうに端末に目を向ければ、未だコールが続く、CORDの通話の着信だった。
「静……?なんだ、朝から……」
一向に鳴りやむ様子がないそれに、
充電ケーブルをつけたまま煉矢は通話開始ボタンをタップした。
「はい」
『煉矢、そっちに乃亜が行ってないか?!』
「は?」
あまりにも大きな声に一瞬顔をしかめたが
話の内容に一気に眠気が飛んだ。
静は焦りを隠そうともせず、まくしたてるように続けた。
『乃亜がいなくなった!家の中にも、外にもいない!』
「おい、待て、乃亜がいなくなった?何を言ってる?
スマフォは?」
『スマフォは家に置かれたままだ!普段持ち歩いてる荷物だけない!』
そこまで聞いて、固まっていた思考がようやく動き出すとともに
さっと血の気が引かれていくのを覚えた。
乃亜がいない。
家にいない。
荷物をもって、しかしスマートフォンは置き去りのまま、どこかへいなくなった。
まるで家出ではないか。
煉矢は充電ケーブルからスマートフォンを外し、
努めて冷静に、電話口の向こうで完全にパニックになっている親友に声をかけた。
「静、落ち着け。
乃亜がどこかに行ったのは間違いないんだな?
近場のコンビニや、散歩や、そういった話じゃないんだな?」
『近所はひとしきりみて回ってきた。
一時間は探した。戻ってるかと思って帰ったが戻っていない……!
くそっ、あんな状態でどこに行ったんだ……!』
「おい、あんな状態ってなんだ。乃亜になにがあった?詳しく聞かせろ」
6月末に乃亜から連絡を拒絶され、それ以降、彼女への連絡はしていない。
ずっとなにか嫌なものは感じていたが、
下手に連絡してかえって追い詰めることになりそうで避けていた。
だが、静の言い回しに嫌な予感が全身を支配する。
煉矢はスマートフォンをにらむように視線を向ける。
そして静が語ったことは、その嫌な予感がこれ以上ないほどに的中した内容だった。
ヴァイオリンの練習を重ね過ぎたことによる故障。
しかも相当追い詰められていたのか、痛みを押して続けていた。
『6月ごろからずっと痛みがあったらしい……。
なのに、鎮痛剤で誤魔化して……っ、くそ、俺はなんで気づかなかった!』
「落ち着け、静」
『落ち着いていられるわけがないだろう!
ヴァイオリンが弾けない、禁止だと言われて、見たことがないほどに消沈していた!
もっと俺があいつに寄り添って、よくよく見ていてやれたら……っ』
「だから落ち着けと言ってる!!」
思わず、声を荒げた。
静の言っていることは、そのまま自分に跳ね返ってきたからだ。
6月。自分が連絡した時期ではないか。
あの時にすでにそういった状況になっていたのだとしたら。
煉矢はぐっとスマートフォンを握る手とは逆の手を強く握りしめた。
「乃亜が行きそうな場所を冷静に思い出せ!」
『だからお前に連絡したんだろうが!』
「どこが冷静だ、あいつが俺の住所を知るわけがないだろ?!
お前にだって住所を教えた覚えはないぞ俺は!」
『……っ、ああっ、くそ!』
「ともかくいったん冷静に思い返せ。
俺もすぐに出れるように支度する。
いったん切るがすぐに掛けるからその間に思い出しておけよ」
『っ、分かった……』
通話を一度切り、煉矢はスマートフォンを乱暴にベッドに投げ出す。
着替えをしてすぐに出れるように準備をしなければならない。
しかし、クローゼットに手を伸ばした手は止まる。
「っ、くそ!」
堪えようもなく、身の内の憤りを壁にたたきつけた。
ダンッ、と強い音が響く。
しかしそうでもしなければこらえようがなかった。
あの時、乃亜から受け取ったメッセージ。
明確な拒絶を示したそれは、あまりにも乃亜らしくないのだ。
___考えればわかったはずだ……あいつが、あんな言い方をする、その状況……!
その時にすでに痛みがあって、それでも無理に弾いていて
その最中に自分が連絡していたとしたら。
乃亜は自己評価も自己肯定感も著しく低い。
先のアメリカでの一件で、それはいくらか前向きになったと感じられていた。
しかしそれはヴァイオリンというものあってこそだ。
それを思うように弾けないとなっていたその矢先だったら。
自分がさらに、追い詰めた。
その結果が、あの拒絶。
煉矢は猛烈な後悔を感じながら壁を殴りつけた手を額に押し当てた。
閉じた瞼の裏に思い出されるのは、大切な、愛しい人の姿ひとつだ。
ヴァイオリンを奏でる乃亜の姿。
ステージ上で楽しく笑っている姿。
あの海岸沿いのベンチで、涙をこぼしながらも、
輝くような微笑みで、見つめてきた乃亜の姿。
それが一様に崩れていく。
煉矢は首を振り、自分を奮起させるように身支度を急いで整えた。
スマートフォンを手に取り、契約しているシェアカーを予約し終え、
静へと発信した。
間もなく静は出た。
声色は先ほどのような焦りはないが、ひどく弱弱しかった。
無理もないが、今は打ちひしがれている場合ではない。
「それでどこか心当たりはないのか?」
『いや、せいぜい、水野先生……ヴァイオリン教室の先生のところくらいしか……』
「乃亜はヴァイオリンに関して悩んでいたんだろう?
なら、おそらくヴァイオリン関連の場所はない」
『だが他に思いつく場所なんて……!』
「だから冷静になれ。お前がパニックでどうする。
いいからいったん思い返せ。ヴァイオリン以外で、あいつが行きそうな場所だ。
荷物を持って行っているといったな?
なら財布や定期も持ってる。行動範囲を考えろ」
『………、学校、いや、だが今は休みだ、いったところで』
「不安定で悩んでいたあいつが行きそうな場所は他にないのか?
知り合いや、友人、そういった場所は?」
『いや、特別な友人はましろくらいだが、ましろのところに行っていたら
俺に連絡があってもおかしくない。
第一、あいつの性格からして、ましろのところに行っても
迷惑をかけるなど考えるだろうし……」
それは確かにそうだろう。
仮に乃亜が自分の家の住所を知っていたとしても、
状況的にこちらに来るとは考えづらい。
沈黙が流れる。
静が電話口の向こうで必死に頭を回しているのが分かる。
1秒が恐ろしく長い中、煉矢は辛抱強く、静の反応を待った。
そして時間にして2,3分程度だろうが、ひどく長いそれを経て
はっと息を飲んだ声が聞こえた。
『昔いた施設だ、薬師先生のいる施設!!』
確かにその場所なら、煉矢も異論は思い浮かばない。
まだ何も解決していないし実際にいるかも分からない。
しかし煉矢はひとつ息を吐き出した。
「ならそこにお前はすぐに車で迎え。いいか、とにかく冷静にだ。
スビート違反で捕まるなどしょうもないことを犯すな。
乃亜のスマフォも持っていけ。
俺はあいつの学校の方に念のため車を回す。見つかったらすぐに連絡しろ」
『分かった。……煉矢、いつも悪いな』
「くだらないことを言ってる時間があるなら急げ」
そうして通話を終え、煉矢は家を出た。
近くにあるシェアカーのパーキングに急いで向かう。
予約した白い車に滑り込むように乗り込む。
夏休み中の学校に行くなど可能性はおそらく限りなく低い。
言ったところで無駄足になる可能性のほうが高い。
しかしそれでも。
___動いてなければ、気が狂いそうだ……。
自分の失敗のせいで、彼女を失うなどという、恐ろしいことを考えてしまう。
煉矢はただひたすらに、ハンドルに額を押し当て、乃亜の無事を祈った。
静かな住宅街の一角。
公園に隣接したその場所は白い壁と明るい緑色の門が特徴的だった。
広い敷地には小さいながらも園庭が広がり、
園庭の周囲は黒いフェンスで囲まれているものの、
緑色の人工芝と、フェンス周りを囲うように季節の花が植えられているため
圧迫感や暗さはない。
晴れた日には毎日のようにそこに住む子供たちの明るい笑い声と
世話をしているスタッフたちのにぎやかな声が響いている。
少々特殊な役割を持つ場所ではあるが、スタッフや子供たちの人柄もあり、
近隣住民たちには明るく受け入れられて久しい。
時刻は8時を少し過ぎた頃、長くそこに勤める金髪にツーブロックの男は、
やや眠そうに玄関先に足を向けていた。
黒のサルエルパンツに白いTシャツを着てゆったりと歩く姿は、
一見してとてもこういった施設の人間には見えない。
だが誰よりも子供たちのことを真摯に受け止め、心を救ってきたかは数知れない。
もっとも本人はそんなことを一切気にしていない。
夏休み中のお盆期間、子供たちはこの時期だけに許された朝寝坊を
思う存分満喫するのか未だに起きてこない。
しかしスタッフはそうもいかない。
施設の前に恒例となっている水まきを済ませようと
水をたっぷりと入れた緑のジョーロを片手に、大きな門の脇、
夜間休日用の入り口であるドアを引いた。
「……ん?」
ドアの横に誰かがいる。
大きな緑の門の横に寄り掛かって俯く姿。
一瞬混乱したが、その髪の色に気付かないはずはなかった。
「っ、乃亜? お前、乃亜か?」
「……薬師、先生……」
やはりそうだった。
薬師はあわてて駆け寄ろうとしたが手に持つジョーロが邪魔だ。
入口の中へとそれを投げるように置いて、
数年前にここを卒園したはずの彼女に駆けよる。
乃亜はこちらの姿をとらえ、壁に寄り掛かっていた身体を浮かし、
こちらに身体ごと向くが、様子がおかしいことにすぐに気付いた。
そもそもこんな時間帯、まだ早朝の時間に乃亜がいることがおかしい。
「どうしたんだよ、こんな時間に。
一人か?静はどうした?」
「……っ、せん、せ……、わたし……っ」
乃亜は静の名前を出した途端にびくりと身体を揺らし、
右手でつよく額を抑え込むようにして俯いた。
ただ事ではないことを察し、薬師は乃亜の肩に触れた。
「ああ、分かった。まずは話聞くから、中にはいれ。なっ」
「ご、ご、めんなさい……っ」
「なに言ってんだ。ここもお前の家だっつったろ。
家に帰ってきて謝ることなんかねーだろ、な?」
「っ……はい……」
俯く表情は見えない。
しかし額を抱えるようにしていた右手で目元を拭う様子から
泣いているのは明白だった。
薬師の促すままに、乃亜は施設の中へと入っていった。
久方ぶりの施設の空気。
優しいハーブの香りや、施設内の匂いは、乃亜にとってひどく馴染み深いものだ。
あの地獄のような場所から保護され、
最初はまた兄と離れ離れになることに恐怖さえ覚えたが、
薬師をはじめとしたスタッフたちや、ここで暮らす子供たちに救われ
やがて心を開き、少しずつその傷を癒した場所だ。
ここでは怖いことも痛いことも何一つなく、
心底穏やかな時間を過ごすことができた。
乃亜にとって、卒園した今でも、大切な場所だということは変わらない。
乃亜が通されたのは事務室の隣にある応接室だった。
明るい陽射しが入る広い窓、壁に飾られた大きな空の絵。
その絵はここの卒園生で、今はアート制作を生業にしている人が贈ったものだと聞いた。
明るい木目調のテーブルの上に、冷たい麦茶が置かれた。
その前にある白いソファに乃亜は腰かけ、
隣に麦茶を運んできた薬師が座った。
「さて、とりあえず、何でもいいから話してみろ。
ちぐはぐでも、支離滅裂でも、ぐっちゃぐちゃでもいい」
薬師はそういって乃亜の背中に手を置いた。
あたたかく大きな手。
恐怖に怯えて、声を殺して泣いていた夜に
抱き上げ、抱き締めて、さすってくれた手だ。
「……みんな、喜んで、くれたんです」
「おう」
「ヴァイオリンを弾いたら……笑って、喜んで、くれて……。
だから、同じ、ように弾きたかったのに……弾けなくなって……」
「怪我のせいでか?」
薬師は乃亜の左手のサポーターに気付いていた。
乃亜はゆっくりと首を振った。
「わからないです……どうして、前みたいに、弾けないのか……。
今でも、全然……。
だから、せめて、ちゃんと、上手く、弾きたいって……ずっと、練習して……。
ヴァイオリンがあれば、弾ければ、私でも、少しは……
私なんかにも、少しは、価値が、あるって……認められるような、気がして……」
先のコンクールでも、そしてアメリカでのイベントでもそうだった。
何の価値もないような気がしていた自分に、唯一、できた拠り所だった。
しかしそう思ったとたん、先の酷評が頭をよぎり、唇の裏を強くかんだ。
「……だから、手を、放したく、なかった……。
わるい、こ、に、戻り、たくなかった……っ、でも……!」
ぎゅっと自然と両手に力が入り、とたん左手が痛んだ。
右手でとっさに左手首を押さえる。
その痛みが、昨日の出来事を否応なく思い出させた。
震える声で名前を呼ばれ、血の気が引いたような顔でこちらを見ていた。
ヴァイオリンを自室に置くと言った時の兄の表情は、見たことがないほど鋭い視線だった。
「っ、さっさと捨てればよかったのに、馬鹿みたいにすがって、
私なんかのヴァイオリンに価値があるみたいに思い込んで、
そのせいで、っ、に、兄さん、に、あんな、迷惑かけて、
心配、させ、……っ、く、苦、ませ、て……っ!
私なんかの、せいで、兄さん、あんな……っ」
途中からもう上手く言葉が出てこない。
涙はとめどなく落ちてくるし、うまく思考も回らない。
乃亜はしゃくりあげながら必死に言葉を吐き出していく。
背中に触れる手がさするように上下に動く。
動かない左手の代わりに、右手の甲で涙をぬぐう。
けれど止まらなかった。
「私、なんか、にいさん……っ、兄さん、に、嫌われ、たら……っ、
悪い子、って、いわ、れ、たら……っもう、私……!」
「……乃亜、そいつはあり得ない話だぜ」
優しく諭すようにかけられた言葉に、ようやく乃亜は顔を上げ薬師の顔を見た。
真っ赤になった目や目元で見つめた薬師の顔は、
いつも大切なことを伝える時の笑みだった。
「お前がここにきたとき、静はまだ高校だったな。
時間も限られてるってのに、足しげくここに通ってよ。
持てる力も、知恵も、全部フル動員して、
お前を引き取ってったアイツの誇らしい顔は、俺は忘れられねぇよ」
「で、も……、わたし、そんな兄さんに、恩を仇で返すみたいに、迷惑、かけて……」
「関係ねぇさ。ちょっと迷惑かけたぐれぇで
お前を放り出すようなタマには見えなかったぞ、俺にはな」
「……」
「……ま、こればっかは静にしか、言えねぇ話か」
背中をさすっていた手で髪を撫でられる。
乃亜は涙は収まったものの、また俯いて視線を落とした。
薬師の言葉を疑う気はない。
けれど確信が持てない。
あんなに迷惑も心配もかけ、苦しませてしまったことが、心に強い重しをつけていた。
薬師は肩で息をし、立ち上がった。
「よし、ちょっと場所、移動するぜ」
「え……」
乃亜はそれを見上げると手を差し伸べられた。
戸惑いながらその手を右手でとり、子供の手をひくように、
部屋の外へと連れ出される。
懐かしい廊下。
壁にはいくつもの絵や工作で作ったものが飾られている。
写真もたくさんだ。
その中には、幼い頃の自分の写真も残っていた。
夜、どうしても眠れない中、こうして手を引いて、
夜の散歩だと、園庭に連れ出してくれたこともあった。
空には月が輝いていて、夜が怖いばかりでないと教えてくれたのはこの人だ。
朝、早く目が覚めた自分を連れて、水まきしようと明るい光の中に連れ出し、
もっと朝寝坊していてもいいと、考えられないことを言ってくれたのも。
煌めく水と、濡れた朝顔の光景は忘れられない。
少し離れた「家」と呼んでいた、子供たちの生活する場所から少し声がする。
子供たちが起きだしてきたのだろう。
「ほら、ここだ」
「……音楽室」
自分が最後、迎えに来た静と待ち合わせしたのもここだ。
最後にここで自分はヴァイオリンを弾いて待っていた。
薬師に促され中に入る。
少し傷ついたフローリングの向こう、ピアノをはじめとした楽器が並ぶ。
子供たち全員が入っても余裕があるくらいに広いその部屋。
乃亜はよくここにいた。
「次は、音楽でお前の気持ちを教えてくれ」
「え……でも、私……」
乃亜は自分の左手に目を向ける。
とてもこれではなにもできない。
しかし薬師はふっと笑い、腰に手を当てて言った。
「ンなもんいらねぇさ。
ガキのころはよく歌ってたろ?久しぶりに聞かせてくれ。
なんでもいいぞ?昔の歌でも、今好きな歌でも、なんでも」
「歌……」
幼い頃、確かにここでよく歌ったいたが、
今そうする意味が分からず戸惑う。
しかし薬師は微笑んだまま、黒板に背をつけて笑っている。
乃亜は少し迷いながらも、すうと息を吸い込んだ。
その歌は昔ここでよく歌っていた歌だった。
元をたどれば、【パッヘルベル:カノン】をモチーフにした曲らしく、
クラシックをよく聞くようになってから、確かにと納得した。
優しいメロディラインと歌詞。
遠い日、いつか過ぎ去った日を抱きながら、
遠くへ、未来へ、迷いながら、祈りながら、歩き続けていく。
そうして歌いきったとき、ぱちぱち、と薬師が拍手をしてくれた。
「昔からお前は本当に歌が上手かったな。
歌わせれば音程一つ外さない、楽器だってちょっとやり方教えりゃすぐに弾けちまう。
それだけじゃねぇ、歌ってるときや楽器に触ってるときは、ただ楽しそうだった。
だから分かった。
言葉にしなくたって、こいつは心底音楽が好きなんだってな」
「………好き?」
まったく想像していなかったというような顔で、
乃亜の瞳が徐々に大きくなっていく。
薬師はふっと笑い、背中を浮かし、乃亜の前に立ち、
乃亜と視線を合わせるよう、少し屈んで、乃亜の目を見た。
「なぁ、乃亜。さっき、言ったな。
さっさと捨てればよかった、馬鹿みたいにすがったってな。
あのころ、いや、もしかしたら今も、
好きや欲しいって思うことが悪いことのように感じるお前が
言葉にこそ出来なくても、心で求めちまってたのが音楽だ。
そして歌で、楽器で、ヴァイオリンで、お前は自分の感情を思い切り表していた。
自分の心が心底欲して、自分の心を思い切り表せられる。
そんな大事なモンを、捨てられるわきゃないんだよ」
その言葉に乃亜はいままでずっと心にあった空白に、
ストンとなにかが収まったような気がして、右手で胸に手を当てた。
「……好き?私が……音楽を、好き?」
朗らかに慈愛深く微笑む薬師の顔。
ここにいたころから変わった様子はない、恩師、否、父親の顔。
音楽に対して、ヴァイオリンに対しての感情がなんなのか、
乃亜にはずっとわからなかった。
否、本当は分かっていたのかもしれないが、見て見ぬふりをしていた。
だが、薬師の言葉は自分の気持ち以上に信じることができる。
乃亜は目を閉じ、触れた胸からあふれる、あたたかいものに、記憶を遡らせていく。
初めてここで音楽というものに触れた。
歌やヴァイオリン、ピアノ、ギター、様々な楽器を使って触れたそれ。
初めて歌を歌ったとき、最初は大きな声を出すのが怖かった。
けれど他の子供たちが大きな声で歌って、自分もそれに少しずつ倣っていった。
ビアノを弾くと皆が囲んで一緒に歌ってくれた。
ヴァイオリンを弾くと、みんなが驚いて、そして感激したように笑い、拍手してくれた。
その時の気持ち、それも、こんな風にあたたかかった。
乃亜は目を開ける。
生まれて初めて、それを自覚し、自然と、口元が上がり、微笑んでいく。
「……そう、ですね。私は……音楽が、ヴァイオリンが、好きです。
それを聞いて、笑顔でいてくれる人を見るのが、好きだったんですね……」
だから、あんなにも手放したくなかったのか。
初めて好きになったもの、大事なものだったから。
だから、弾けなくなったことに絶望したし、
だから、手放すときに心が震えたのか。
乃亜はそれにようやく、理解した。
たった一つの、好きを表現していたものだったからだ。
ずっと分からなかったことが、
明確な形となって心に落ちてきた。
ここしばらくずっと不明瞭だった視界が、少し晴れたような気がした。
微笑む乃亜の様子に、薬師はおだやかに笑って返す。
その笑みに心から安心感を覚え、安らぎさえ感じた。
そのとき、廊下を走る音がした。
子供の足音ではない。
薬師はさして驚いた様子はなく、ドアに目を向ける。
乃亜もそれにならって視線をむけると同時に、ドアが激しく開いた。
「乃亜!!」
「……兄さん……」
乃亜の姿を目に、静は飛び込むように音楽室に駆け込み、そのまま乃亜を抱きしめた。
乃亜はそれに目を見開く。抱きしめてくる静の身体は震えていた。
「心配した……っ、本当に……、本当に、無事でよかった……!」
「兄さん……」
絞り出すように告げる声。
乃亜はここにきて、自分がしでかしてしまったことに気付いた。
朝起きて、何も言わず、家を出てしまったのだから。
静にさらに心配をかけ、迷惑をかけてしまったと気づき、きゅっと眉を寄せる。
けれど、身勝手にも、嫌われていない、ということに少し安堵もした。
「ごめん、なさい……兄さん……」
「無事だったんだから、もういい……。
……薬師先生、ご連絡くださって、ありがとうございました」
「おう」
乃亜が薬師に目を向ける。
いつの間に、という視線だ。
薬師は気づかないうちに黒板に背を預けていたが、ふっと笑い肩をすくめた。
「お前を応接室に通して、茶ァ取りに行った時にな。
静の連絡先は知ってたし、念のためな。
……さて、と。んじゃ、乃亜、お前、どうする?」
「え……」
「今夏休みだろ?しばらくここにいたいんなら、構わねぇぞ」
それに乃亜は少し目を見開く。
ここにいていい。
そう言葉にされることにひどく安心感を覚えた。
自分を抱きしめていた静は離れ、肩に手を置いてくれているが
その手がぴくりと反応したことにも気づいた。
ここは自分にとって、少なくとも今は、どこよりも安心ができる場所だ。
けれど。
ちらと静を見る。
静はこちらに視線だけ向け、すぐにそれを逸らした。
「……乃亜、お前が望むなら、それでもいい」
いつもまっすぐに目を向けてくれていた兄が、
初めて自分から目を逸らした。
乃亜はそれに少し胸が締め付けられたような心地になるが
それもまた、自分が蒔いたことだ。
散々に勝手なことをし続けたためだ。
それでも、兄は自分を探して、ここにきてくれた。
先ほど部屋に駆け込んできてくれた様子が思い出される。
乃亜は薬師にまっすぐ告げた。
「……いえ、帰ります」
乃亜がそう告げると、静は少し驚いたようにこちらを見た。
ここでこの施設にいることは容易い。
けれど、それでは、今度こそ本当に、兄を裏切ってしまうような気がしたからだ。
「そうかい。
まぁ、またなにかあれば来い。
ここを出る時も言ったが、ここもお前の家なんだからな」
「はい。薬師先生、ありがとうございます。
……本当に、ありがとうございました」
自然と微笑み挨拶すると、それに静が目を見開くのが視界の端にうつる。
思い返してみても、この数か月間の自分は、ずっと迷いの中にいた。
けれど、好きという感情を自覚したからか、心は昨日よりはるかに落ち着いている。
散々勝手なことをした自分を兄がどう思っているのか分からない。
けれどそれも含めて、ちゃんと向き合わないといけない。
そんな思いを抱きながら、乃亜は静の手を握った。
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