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絶望の果ての追放
第1話:「お前は、この王宮の汚物だ」
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「……お前、自分が今、どんな匂いを発しているか分かっているのか?」
豪奢な装飾が施された王太子の私室。そこに響いたのは、愛の言葉ではなく、汚物を見るかのような冷徹な声だった。
この国の王太子、カイル・フォン・ルミナスは、鼻を白ハンカチで覆いながら、目の前に跪く私――エルゼを睨みつけている。
「申し訳、ございません……。ですが、これは王宮の瘴気を浄化した副作用で……」
「言い訳を聞きたいのではない。不愉快だと言っているんだ」
カイル様が椅子の背もたれに深く体を預けると、その背後から一人の少女が滑り出るように姿を現した。私の義理の妹、イザベルだ。
彼女からは、目が眩むほど華やかで甘い、百合の花のような香りが漂っている。
「お姉様、本当においたわしい……。宮廷調香師としての務めに執着するあまり、ご自身の身だしなみも忘れてしまうなんて。カイル様が、どれほどお鼻を痛めていらっしゃるかお分かりですか?」
イザベルはわざとらしく眉をひそめ、カイル様の肩にそっと手を置いた。カイル様はその手を愛おしそうに握り返す。その光景に、胸の奥が鋭利な刃物で削られるような痛みを覚えた。
私は、代々「香りの浄化」を担う家系に生まれた。
この国には、目に見えない人々の悪意や澱みが瘴気となって溜まる。それを特別な香合で吸着し、自らの体を経由して無害化するのが私の役目だ。
浄化の対価として、私の肌からは常に泥のような、あるいは何かが腐敗したような、重苦しい匂いが漂ってしまう。
でも、それはこの王宮の美しさを守るための、私にしかできない仕事。
婚約者であるカイル様だけは、その意味を理解してくれていると信じていた。
「エルゼ、もう良い。今日この時をもって、お前との婚約を破棄する。宮廷調香師の職も解任だ」
頭上で、何かが決定的に壊れる音がした。
「ま、待ってください……! 私がいなくなれば、この王宮の瘴気は誰が……」
「ふん、心配無用だ。お前の代わりは、より優れた才能を持つイザベルが務める。彼女の作る香りは、お前の不潔な匂いとは正反対の、真に聖なる香りだ」
カイル様の言葉に、イザベルが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
……嘘だ。
彼女に浄化の力なんてない。あれはただ、強い香料で鼻を誤魔化しているだけの「まやかし」だ。
それを指摘しようと口を開きかけたが、カイル様の次の言葉が私の声を奪った。
「お前は、この王宮の汚物だ。……見苦しい。今すぐ、私の視界から消えろ」
汚物。
愛していた人に投げかけられた、あまりにも残酷な拒絶。
私の体から漂うこの匂いは、彼が笑っていられるように、彼が健やかに眠れるようにと、必死に吸い込み続けた「守護の証」だったはずなのに。
ふらふらと立ち上がった私の手元には、一つの小さな瓶が握られていた。
今日、彼との記念日のために、心血を注いで作り上げた最高の香水。瘴気を吸い込む前の、私が持つ純粋な魔力だけを込めた、たった一瓶の贈り物。
(ああ、もう……届かないんだわ)
私は虚ろな瞳で、その瓶を見つめた。
イザベルとカイル様が嘲笑いながら私を見ている。
パリン、と。
乾いた音を立てて、結晶硝子の瓶が床に砕け散った。
中から溢れ出したのは、銀色の光を纏った、あまりにも清廉で、どこか泣きたくなるほど優しい花の香り。
カイル様が驚いたように目を見開く。
「なっ、今の香りは――」
「……これが、私があなたに捧げたかった、本当の私の心です」
足元に広がる銀色の液体を、私は振り返ることなく踏みつけた。
割れた硝子が靴底を切り、血が滲む。けれど、心の傷に比べれば、そんな痛みは何でもなかった。
「さようなら、カイル様。……望み通り、汚物は消えさせていただきます」
部屋を去る私の背中に、カイル様の「待て!」という声が聞こえた気がした。
けれど、それを聞き届ける耳はもう持っていない。
私は冷え切った自室に戻り、宮廷調香師の証である銀の徽章を机に置くと、古びたトランク一つだけを手に取った。
窓から見える王都の空は、これから訪れる悲劇を知る由もなく、ただ冷たく、どんよりと濁った匂いを放っていた。
豪奢な装飾が施された王太子の私室。そこに響いたのは、愛の言葉ではなく、汚物を見るかのような冷徹な声だった。
この国の王太子、カイル・フォン・ルミナスは、鼻を白ハンカチで覆いながら、目の前に跪く私――エルゼを睨みつけている。
「申し訳、ございません……。ですが、これは王宮の瘴気を浄化した副作用で……」
「言い訳を聞きたいのではない。不愉快だと言っているんだ」
カイル様が椅子の背もたれに深く体を預けると、その背後から一人の少女が滑り出るように姿を現した。私の義理の妹、イザベルだ。
彼女からは、目が眩むほど華やかで甘い、百合の花のような香りが漂っている。
「お姉様、本当においたわしい……。宮廷調香師としての務めに執着するあまり、ご自身の身だしなみも忘れてしまうなんて。カイル様が、どれほどお鼻を痛めていらっしゃるかお分かりですか?」
イザベルはわざとらしく眉をひそめ、カイル様の肩にそっと手を置いた。カイル様はその手を愛おしそうに握り返す。その光景に、胸の奥が鋭利な刃物で削られるような痛みを覚えた。
私は、代々「香りの浄化」を担う家系に生まれた。
この国には、目に見えない人々の悪意や澱みが瘴気となって溜まる。それを特別な香合で吸着し、自らの体を経由して無害化するのが私の役目だ。
浄化の対価として、私の肌からは常に泥のような、あるいは何かが腐敗したような、重苦しい匂いが漂ってしまう。
でも、それはこの王宮の美しさを守るための、私にしかできない仕事。
婚約者であるカイル様だけは、その意味を理解してくれていると信じていた。
「エルゼ、もう良い。今日この時をもって、お前との婚約を破棄する。宮廷調香師の職も解任だ」
頭上で、何かが決定的に壊れる音がした。
「ま、待ってください……! 私がいなくなれば、この王宮の瘴気は誰が……」
「ふん、心配無用だ。お前の代わりは、より優れた才能を持つイザベルが務める。彼女の作る香りは、お前の不潔な匂いとは正反対の、真に聖なる香りだ」
カイル様の言葉に、イザベルが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
……嘘だ。
彼女に浄化の力なんてない。あれはただ、強い香料で鼻を誤魔化しているだけの「まやかし」だ。
それを指摘しようと口を開きかけたが、カイル様の次の言葉が私の声を奪った。
「お前は、この王宮の汚物だ。……見苦しい。今すぐ、私の視界から消えろ」
汚物。
愛していた人に投げかけられた、あまりにも残酷な拒絶。
私の体から漂うこの匂いは、彼が笑っていられるように、彼が健やかに眠れるようにと、必死に吸い込み続けた「守護の証」だったはずなのに。
ふらふらと立ち上がった私の手元には、一つの小さな瓶が握られていた。
今日、彼との記念日のために、心血を注いで作り上げた最高の香水。瘴気を吸い込む前の、私が持つ純粋な魔力だけを込めた、たった一瓶の贈り物。
(ああ、もう……届かないんだわ)
私は虚ろな瞳で、その瓶を見つめた。
イザベルとカイル様が嘲笑いながら私を見ている。
パリン、と。
乾いた音を立てて、結晶硝子の瓶が床に砕け散った。
中から溢れ出したのは、銀色の光を纏った、あまりにも清廉で、どこか泣きたくなるほど優しい花の香り。
カイル様が驚いたように目を見開く。
「なっ、今の香りは――」
「……これが、私があなたに捧げたかった、本当の私の心です」
足元に広がる銀色の液体を、私は振り返ることなく踏みつけた。
割れた硝子が靴底を切り、血が滲む。けれど、心の傷に比べれば、そんな痛みは何でもなかった。
「さようなら、カイル様。……望み通り、汚物は消えさせていただきます」
部屋を去る私の背中に、カイル様の「待て!」という声が聞こえた気がした。
けれど、それを聞き届ける耳はもう持っていない。
私は冷え切った自室に戻り、宮廷調香師の証である銀の徽章を机に置くと、古びたトランク一つだけを手に取った。
窓から見える王都の空は、これから訪れる悲劇を知る由もなく、ただ冷たく、どんよりと濁った匂いを放っていた。
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