『無価値な置物』と捨てられた宮廷調香師~絶望の匂いしか知らない私が、盲目の辺境伯様に「君こそが光の香りだ」と抱きしめられるまで~

しょくぱん

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絶望の果ての追放

第4話:行き先は「死を待つ離宮」

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 降りしきる雨は、私の体温を無慈悲に奪っていく。
 全身を打つ雫は、イザベルが浴びせかけた毒々しい香水の匂いを洗い流してくれたけれど、代わりに私の肺の奥に溜まった、どす黒い瘴気しょうきの奔流を激しく暴れさせた。

 意識の輪郭が、雨に濡れた視界のように滲んでいく。
 泥濘に沈む私の指先に、冷たい誰かの靴が触れた。

「……死んでいるのか?」

 低く、地響きのように重厚な声。けれど、その響きの中には、不思議なほどに透き通った孤独が混じっている。
 私は鉛のように重い瞼を、震わせながら僅かに押し上げた。

 そこには、一人の男が立っていた。
 漆黒の外套を纏い、濡れた髪を無造作に流した姿。その目元には、皮で作られた厚手のが深く巻かれている。

「…………」

 声が出ない。ただ、私の鼻が、彼の放つ強烈な匂いを捉えた。
 それは、私がこれまで王宮で処理してきたどんな汚物よりも凄まじい、圧倒的なの腐臭。
 まるで、千の魔物が一度に朽ち果てたかのような、絶望の色をした黒い匂いだ。

 けれど。

(ああ……私と、同じ……)

 私は朦朧とする意識の中で、どこか安堵していた。
 彼から漂うその匂いは、決して邪悪なものではない。あまりにも巨大な魔力を持ちすぎたがゆえに、世界に拒絶され、内側から腐り落ちていく「哀しみ」の匂いだ。

 男――ジークヴァルトは、目が見えないはずなのに、的確に私の傍らに膝をついた。
 彼が私の肩に触れようとした瞬間、同行していたであろう従者の男が、悲鳴のような声を上げた。

「旦那様! いけません、おやめください! そのような行き倒れの女に触れれば、旦那様の『呪い』が伝染して死なせてしまいます!」

 呪い。
 ああ、やっぱりそうなのだわ。
 この人は、自分自身の力で、自分を蝕んでいる。

「構わん。この女からは、我らと同じ『終わり』の匂いがする」

 ジークヴァルト様の手が、私の冷え切った頬に触れた。
 その瞬間、彼の指先から流れ込んできたのは、狂おしいほどの熱量と、凍てつくような孤独。
 不思議なことに、私の肺で暴れていた瘴気が、彼の呪いと共鳴するようにして、一瞬だけ大人しくなった。

「……て、けて……」

 私は最期の力を振り絞って、彼の服の袖を掴んだ。
 どこでもいい。私を、誰も私を知らない場所へ連れて行って。
 私という「置物」が、ただの砂に還れる場所へ。

「……拾ってほしいというのか。この、死を待つだけの男に」

 ジークヴァルト様は自嘲気味に口角を上げたが、その手は優しく、そして力強く私の体を抱き上げた。
 従者が絶句する中、私は彼の胸の中に残る、微かなふゆの森のような香りを嗅ぎながら、深い闇の中へと落ちていった。

 ◇◇◇

 どのくらいの時間が経過しただろうか。
 次に目を覚ました時、私は柔らかなベッドの上にいた。

 天蓋を見上げると、そこには色褪せた重厚な刺繍が施されている。
 空気はひんやりと冷たく、そしてやはり、あの凄まじい「死の匂い」が充満していた。
 けれど、鼻が曲がるような不快感はない。
 ただ、胸が締め付けられるような、深い深い青色あおいろの静寂が、部屋中を支配している。

「……お目覚めですか」

 部屋の隅、影の中に座っていた人影が動いた。
 先ほどの従者だろうか。年老いた、だが背筋の伸びた老紳士が、盆を持って近づいてくる。

「ここは、どこ……?」
「ここはルミナス王国の北端、『死を待つ離宮』と呼ばれる、ジークヴァルト・フォン・アイゼンガルド辺境伯閣下の別邸でございます」

 辺境伯閣下。
 その名を聞いて、私は背筋に震えが走った。
 
 氷の魔力を操り、隣国との戦争で数多の敵を葬った英雄。
 しかし、その強すぎる魔力が自身の肉体を蝕み、視力と安らぎを奪われ、今や「歩く呪い」として王家からも疎まれている悲運の貴族。
 私と同じ――いや、私以上に、国に利用され、ボロボロになって捨てられた人。

「閣下が、あなたを連れ帰るよう命じられました。……閣下が人間に興味を示されたのは、実に三年ぶりのことですな」

 老紳士は「セバス」と名乗り、私に温かいスープを差し出した。
 一口飲むと、冷え切った内臓に熱が染み渡り、止まっていた涙が、不意にボロボロと溢れ出した。

 宮廷では、どんなに尽くしても、どんなに浄化をしても、向けられるのは蔑みの視線と「臭い」という罵倒だけだった。
 あんなに広い王宮に、私の居場所なんて、最初から一箇所もなかった。

「……私、もう、帰りたくないんです」
「左様でございますか。ならば、ここに居られればよろしい。ここは、世界から忘れられた場所。……あなたのような、行き場のない方には相応しいかもしれません」

 セバスさんの言葉は一見冷たいが、その実、とても優しかった。
 私は、トランクの中に残された、ボロボロになったレシピ帳の残骸を抱きしめた。
 破り捨てられ、泥にまみれた私の努力の結晶。
 
 イザベルに奪われた宮廷調香師の座。
 カイル様に叩きつけられた「汚物」という言葉。

 それらが、今はとても遠い世界の出来事のように感じられる。
 
 その時、部屋の重い扉が静かに開いた。
 入ってきたのは、目隠しをしたままのジークヴァルト様だ。
 彼は杖も使わず、まるですべてが見えているかのような足取りで、私のベッドの傍らまで歩み寄る。

「……目覚めたか、泥の匂いの娘」

 彼の言葉に、私はビクリと肩を揺らした。
 やっぱり、彼にも私が「臭い」と感じるのだろうか。
 
「閣下、失礼ですよ。彼女はまだ衰弱して……」
「嘘はつかん。セバス、お前にも分かるだろう。この女からは、死人のような、泥沼のような、救いのない匂いが漂っている」

 ジークヴァルト様は、感情の読めない声でそう告げた。
 私は絶望して俯いた。
 ああ、ここでも私は、疎まれる存在なのだわ。
 
 けれど、彼の次の言葉は、私の想像を絶するものだった。

「……だが、嫌いではない。その匂いは、誰かの痛みを代わりに背負った者だけが持つ、気高い『犠牲』の残り香だ」

 気高い、犠牲。
 
 生まれて初めて、私の仕事を肯定された。
 カイル様ですら一度も言ってくれなかった言葉が、私の凍てついた心を、音を立てて溶かしていく。

「名は?」
「……エルゼ。エルゼ・フォン・クロイツァーと申します」
「そうか。エルゼ。お前に一つ、提案がある」

 ジークヴァルト様は、目隠しをされた顔を私の方へ向け、その形の良い唇を僅かに動かした。

「俺の周囲に漂うこの腐臭……呪いの魔力を、お前のその『力』で抑え込むことはできるか? もしできるというのなら、お前をこの館の主として迎え入れよう」

 呪いの浄化。
 それは、国家レベルの瘴気を処理するよりも、遥かに困難で命懸けの仕事になるだろう。
 けれど、私の心に迷いはなかった。

「……はい。私の持てるすべてを懸けて、あなたをお守りします」

 私は、震える手でジークヴァルト様の大きな手を握った。
 彼の肌からは、相変わらず「絶望」の匂いがしている。
 けれど、その奥底に眠る、微かなひかりの種火を、私の鼻は確かに捉えていた。

 王宮から捨てられた「無価値な置物」と、世界から忌み嫌われた「呪いの王」。
 
 冷たい離宮の片隅で、二人の奇妙な生活が、ここから始まろうとしていた。
 外では依然として雨が降り続いていたが、私の胸の中には、小さな、本当に小さな希望という名の「香り」が、芽生え始めていた。
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