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親切な隣人
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隣の部屋に住む野村さんは、絵に描いたような「いい人」だった。
築四十年の古いアパート。防音性は皆無に等しく、生活音が筒抜けなのがこの物件の悩みだが、野村さんだけは違った。彼はいつも物静かで、廊下ですれ違えば「お仕事、お疲れ様です」と丁寧に頭を下げる。 一人暮らしの私を気遣って、たまに実家から送られてきたという果物を分けてくれることもあった。
ある夜、私が仕事で大きなミスをして、ひどく落ち込んで帰宅した時のことだ。 部屋で一人、誰にも聞かれないように声を殺して泣いていた。すると、壁の向こうから、トントン、と小さく控えめなノックの音が聞こえた。
「……大丈夫ですか? 辛いことがあったんですか?」
野村さんの穏やかな声だった。 このアパートの壁は薄い。隣で泣いていれば聞こえてしまうのだろう。私は恥ずかしさを覚えながらも、「すみません、大丈夫です」と返した。
「無理はしないでくださいね。私はいつでも、あなたの味方ですから」
その言葉に、私はどれほど救われただろうか。 それ以来、私が風邪を引いて咳き込めば「お大事に」と壁越しに声をかけてくれ、深夜にまで及ぶサービス残業から帰れば「遅くまで大変でしたね」と労ってくれた。 彼は、私の生活のすべてを優しく見守ってくれているようだった。
そんなある日、アパートの大家さんが掃除に来ていたので、私はお礼を言った。 「隣の野村さん、本当に親切な方ですね。いつも励ましてもらっているんです」
大家さんは、雑巾を持つ手を止めて、不思議そうな顔をした。 「……隣? 202号室のことかい?」
「はい、野村さんです」
「何を言ってるんだい。202号室は、半年前に前の住人が出ていってから、ずっと空き部屋だよ。 お化けでも出たかい?」
大家さんはガハハと笑って立ち去った。 私は呆然と立ち尽くした。じゃあ、あの優しい声は? 毎日届けてくれた果物は? 混乱しながら部屋に戻り、ふと、隣の部屋との境界である壁を眺めた。
「空き部屋……?」
確かめるのが怖かったが、それ以上に確かめずにはいられなかった。 私はベランダに出た。隣の部屋との仕切り板の隙間から、202号室の窓を覗き込む。 大家さんの言う通り、そこには家具一つなく、埃を被った畳が広がっているだけだった。
「……やっぱり、幽霊だったのかな」
幽霊だとしても、あんなに優しい人なら怖くない。私は少しだけ安心した。 しかし、部屋に戻ろうとした私の目に、あるものが飛び込んできた。
私の部屋の壁、ちょうど野村さんがいつも声をかけてくれる位置の、すぐ足元。 そこには、古いエアコンの配管用の穴が開いていた。
私は何かに取り憑かれたように、その穴に顔を近づけた。 穴は隣の部屋に繋がっているのではなく、床下へと続いていた。
暗い穴の奥から、カサリ、と音がした。 そして、あの穏やかで優しい声が、今までで一番近く、耳元で聞こえた。
「……大家さん、余計なこと言っちゃいましたね」
築四十年の古いアパート。防音性は皆無に等しく、生活音が筒抜けなのがこの物件の悩みだが、野村さんだけは違った。彼はいつも物静かで、廊下ですれ違えば「お仕事、お疲れ様です」と丁寧に頭を下げる。 一人暮らしの私を気遣って、たまに実家から送られてきたという果物を分けてくれることもあった。
ある夜、私が仕事で大きなミスをして、ひどく落ち込んで帰宅した時のことだ。 部屋で一人、誰にも聞かれないように声を殺して泣いていた。すると、壁の向こうから、トントン、と小さく控えめなノックの音が聞こえた。
「……大丈夫ですか? 辛いことがあったんですか?」
野村さんの穏やかな声だった。 このアパートの壁は薄い。隣で泣いていれば聞こえてしまうのだろう。私は恥ずかしさを覚えながらも、「すみません、大丈夫です」と返した。
「無理はしないでくださいね。私はいつでも、あなたの味方ですから」
その言葉に、私はどれほど救われただろうか。 それ以来、私が風邪を引いて咳き込めば「お大事に」と壁越しに声をかけてくれ、深夜にまで及ぶサービス残業から帰れば「遅くまで大変でしたね」と労ってくれた。 彼は、私の生活のすべてを優しく見守ってくれているようだった。
そんなある日、アパートの大家さんが掃除に来ていたので、私はお礼を言った。 「隣の野村さん、本当に親切な方ですね。いつも励ましてもらっているんです」
大家さんは、雑巾を持つ手を止めて、不思議そうな顔をした。 「……隣? 202号室のことかい?」
「はい、野村さんです」
「何を言ってるんだい。202号室は、半年前に前の住人が出ていってから、ずっと空き部屋だよ。 お化けでも出たかい?」
大家さんはガハハと笑って立ち去った。 私は呆然と立ち尽くした。じゃあ、あの優しい声は? 毎日届けてくれた果物は? 混乱しながら部屋に戻り、ふと、隣の部屋との境界である壁を眺めた。
「空き部屋……?」
確かめるのが怖かったが、それ以上に確かめずにはいられなかった。 私はベランダに出た。隣の部屋との仕切り板の隙間から、202号室の窓を覗き込む。 大家さんの言う通り、そこには家具一つなく、埃を被った畳が広がっているだけだった。
「……やっぱり、幽霊だったのかな」
幽霊だとしても、あんなに優しい人なら怖くない。私は少しだけ安心した。 しかし、部屋に戻ろうとした私の目に、あるものが飛び込んできた。
私の部屋の壁、ちょうど野村さんがいつも声をかけてくれる位置の、すぐ足元。 そこには、古いエアコンの配管用の穴が開いていた。
私は何かに取り憑かれたように、その穴に顔を近づけた。 穴は隣の部屋に繋がっているのではなく、床下へと続いていた。
暗い穴の奥から、カサリ、と音がした。 そして、あの穏やかで優しい声が、今までで一番近く、耳元で聞こえた。
「……大家さん、余計なこと言っちゃいましたね」
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