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深夜サービス
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午前三時の歌舞伎町。終電はとうに消え、路上にはゴミの袋と、酔い潰れた誰かの残骸、そして深夜特有の乾いた風が吹き抜けていた。
仕事のトラブルで飲み明かした俺は、千鳥足で駅に向かっていた。といっても、駅のシャッターは閉まっている。漫画喫茶か、それとも始発まで開いているカフェを探すつもりだった。
「お兄さん、いい店あるよ」
不意に声をかけられた。 見ると、街灯の死角に一人の男が立っていた。黒いタイトなスーツを着ているが、街に溢れているキャッチとはどこか雰囲気が違う。肌が異常に白く、まるで陶器のようだ。
「……いや、もう金ないから」 「金なんていらないよ。始発まで時間あるでしょ? サービスするからさ」
男は一歩も動かず、首だけをカクンと傾けて笑った。 その笑顔が、あまりに完璧で、左右対称すぎて、逆に不気味だった。無視して通り過ぎようとしたが、男は俺の耳元でこう囁いた。
「この先、行っちゃダメだよ。『赤い女』がいるから」
俺は足を止めた。 「……赤い女?」 「ああ。あの角を曲がったところに立ってる。目が合ったら終わりだ。悪いことは言わない、俺の店で隠れていきなよ」
男の指差す先、確かに二十メートルほど先の路地の角に、街灯に照らされた赤いシルエットが見えた。真っ赤なコートを着て、微動だにせずこちらを向いて立っている。 その不自然な立ち姿を見た瞬間、本能が警鐘を鳴らした。関わっちゃいけない。
「……わかった。あんたの店に行くよ」
俺は男に促されるまま、雑居ビルの地下へと続く階段を降りた。 看板も出ていない、鉄の扉だけの入り口。男が重い扉を開くと、中は意外にも普通のバーのようだった。ただ、客は一人もおらず、BGMすら流れていない。
「ここにいれば安心だ。何か飲むかい?」 「……水をくれ。あと、さっきの『赤い女』って何なんだ?」
男はグラスに水を注ぎながら、低い声で話し始めた。 「あれはね、この街に置いていかれた『怨み』の塊だよ。昔、ここで男に裏切られて殺された女がいてね……。彼女は自分を見捨てた男を探して、深夜の街を徘徊してる。目が合えば、心臓を素手で引き抜かれるって噂だ」
俺は水を一気に飲み干した。冷たい水が喉を通る感覚に、少しだけ冷静さを取り戻す。 「助かったよ。あんた、いい奴だな」 「いいってことさ。俺も、あいつには困ってるんだ。客をみんな持っていかれちゃうからね」
男はカウンター越しにクスクスと笑った。 しばらくして、俺はふと疑問に思った。なぜこの男は、こんな場所で店を開いているのか。そして、なぜあんなに外の様子に詳しいのか。
「……なあ、店主。あんたはいつからここで働いてるんだ?」
男はグラスを磨く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。 「いつからかな……。もう、自分の名前も忘れちゃったよ」
男がニチャア、と不自然に口を横に広げた。 その瞬間、俺は見てしまった。 男の磨いているグラスに、俺の姿が映っていないことに。
「……え?」
慌てて自分の手を見る。血が通っている感触はある。しかし、カウンターのステンレスの反射にも、壁の鏡にも、俺の姿だけが消えている。
「あーあ、気づいちゃった?」
男の声が、急に幾重にも重なったような不気味な響きに変わった。 「外にいた『赤い女』。あれ、ただの看板だよ。酔っ払いがよく見間違える、パチンコ屋の古い立て看板」
「じゃあ、なんで俺をここに……」
「看板を怖がって、自分から逃げ込んできてくれるのを待ってたんだ。ここはね、死んだ奴らが集まる場所じゃない。生きている奴を『こちら側』に引きずり込むための場所なんだよ」
男がカウンターを乗り越えて身を乗り出してきた。 彼の顔が、ぐにゃりと歪む。陶器のようだった白い肌が割れ、中から赤黒い無数の「手」が溢れ出してきた。
「お兄さん、この店の『究極の隠し味』はね、まだ温かい人間の絶望なんだ」
俺は必死にドアへ向かって走った。重い鉄の扉を体当たりで開け、階段を駆け上がる。 背後から、何十人もの笑い声が追いかけてくる。
ようやく地上に出ると、そこは先ほどの繁華街だった。 しかし、何かがおかしい。 さっきまでいたはずのゴミ袋も、看板も、街灯もない。 ただ、灰色の霧が立ち込める無限の更地が広がっていた。
振り返ると、今降りたはずの地下への階段も消えていた。 ただ一つ、遠くの方に、ぽつんと赤い光が見える。
それは、男が言っていた「赤い看板」ではなかった。 それは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる、本物の「赤い女」だった。
彼女の顔には目がなかった。 代わりに、そこには大きな「口」があり、歓喜に震えながらこう言った。
「やっと……こっちに……来たのね……」
深夜の街で声をかけてくる「親切な人」には、くれぐれもご注意ください。彼らが本当に避けさせようとしているのは、外の怪物ではなく、あなたの「生還」かもしれませんから。
仕事のトラブルで飲み明かした俺は、千鳥足で駅に向かっていた。といっても、駅のシャッターは閉まっている。漫画喫茶か、それとも始発まで開いているカフェを探すつもりだった。
「お兄さん、いい店あるよ」
不意に声をかけられた。 見ると、街灯の死角に一人の男が立っていた。黒いタイトなスーツを着ているが、街に溢れているキャッチとはどこか雰囲気が違う。肌が異常に白く、まるで陶器のようだ。
「……いや、もう金ないから」 「金なんていらないよ。始発まで時間あるでしょ? サービスするからさ」
男は一歩も動かず、首だけをカクンと傾けて笑った。 その笑顔が、あまりに完璧で、左右対称すぎて、逆に不気味だった。無視して通り過ぎようとしたが、男は俺の耳元でこう囁いた。
「この先、行っちゃダメだよ。『赤い女』がいるから」
俺は足を止めた。 「……赤い女?」 「ああ。あの角を曲がったところに立ってる。目が合ったら終わりだ。悪いことは言わない、俺の店で隠れていきなよ」
男の指差す先、確かに二十メートルほど先の路地の角に、街灯に照らされた赤いシルエットが見えた。真っ赤なコートを着て、微動だにせずこちらを向いて立っている。 その不自然な立ち姿を見た瞬間、本能が警鐘を鳴らした。関わっちゃいけない。
「……わかった。あんたの店に行くよ」
俺は男に促されるまま、雑居ビルの地下へと続く階段を降りた。 看板も出ていない、鉄の扉だけの入り口。男が重い扉を開くと、中は意外にも普通のバーのようだった。ただ、客は一人もおらず、BGMすら流れていない。
「ここにいれば安心だ。何か飲むかい?」 「……水をくれ。あと、さっきの『赤い女』って何なんだ?」
男はグラスに水を注ぎながら、低い声で話し始めた。 「あれはね、この街に置いていかれた『怨み』の塊だよ。昔、ここで男に裏切られて殺された女がいてね……。彼女は自分を見捨てた男を探して、深夜の街を徘徊してる。目が合えば、心臓を素手で引き抜かれるって噂だ」
俺は水を一気に飲み干した。冷たい水が喉を通る感覚に、少しだけ冷静さを取り戻す。 「助かったよ。あんた、いい奴だな」 「いいってことさ。俺も、あいつには困ってるんだ。客をみんな持っていかれちゃうからね」
男はカウンター越しにクスクスと笑った。 しばらくして、俺はふと疑問に思った。なぜこの男は、こんな場所で店を開いているのか。そして、なぜあんなに外の様子に詳しいのか。
「……なあ、店主。あんたはいつからここで働いてるんだ?」
男はグラスを磨く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。 「いつからかな……。もう、自分の名前も忘れちゃったよ」
男がニチャア、と不自然に口を横に広げた。 その瞬間、俺は見てしまった。 男の磨いているグラスに、俺の姿が映っていないことに。
「……え?」
慌てて自分の手を見る。血が通っている感触はある。しかし、カウンターのステンレスの反射にも、壁の鏡にも、俺の姿だけが消えている。
「あーあ、気づいちゃった?」
男の声が、急に幾重にも重なったような不気味な響きに変わった。 「外にいた『赤い女』。あれ、ただの看板だよ。酔っ払いがよく見間違える、パチンコ屋の古い立て看板」
「じゃあ、なんで俺をここに……」
「看板を怖がって、自分から逃げ込んできてくれるのを待ってたんだ。ここはね、死んだ奴らが集まる場所じゃない。生きている奴を『こちら側』に引きずり込むための場所なんだよ」
男がカウンターを乗り越えて身を乗り出してきた。 彼の顔が、ぐにゃりと歪む。陶器のようだった白い肌が割れ、中から赤黒い無数の「手」が溢れ出してきた。
「お兄さん、この店の『究極の隠し味』はね、まだ温かい人間の絶望なんだ」
俺は必死にドアへ向かって走った。重い鉄の扉を体当たりで開け、階段を駆け上がる。 背後から、何十人もの笑い声が追いかけてくる。
ようやく地上に出ると、そこは先ほどの繁華街だった。 しかし、何かがおかしい。 さっきまでいたはずのゴミ袋も、看板も、街灯もない。 ただ、灰色の霧が立ち込める無限の更地が広がっていた。
振り返ると、今降りたはずの地下への階段も消えていた。 ただ一つ、遠くの方に、ぽつんと赤い光が見える。
それは、男が言っていた「赤い看板」ではなかった。 それは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる、本物の「赤い女」だった。
彼女の顔には目がなかった。 代わりに、そこには大きな「口」があり、歓喜に震えながらこう言った。
「やっと……こっちに……来たのね……」
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