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第一章:氷に閉ざされた愛
第6話:消えたぬくもり
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「……っ、おい、アリア! 待てと言っているんだ!」
遠ざかっていく真夜中色のドレスの裾を、俺は掴むことすらできなかった。
王宮の床に膝をついたまま、俺は荒い呼吸を繰り返す。心臓が、まるで錆びついた金槌で叩かれているかのように重く、鈍い音を立てていた。
「レオン! しっかりなさい、なんて無様な姿なの!」
カトリーヌが俺の腕を掴み、無理やり引き起こそうとする。だが、その指先が触れた瞬間、俺はあまりの不快感に彼女の手を振り払ってしまった。
なぜだ。いつもなら、彼女の香水の香りは甘く、その贅沢な装いは俺の虚栄心を満たしてくれたはずなのに。今の彼女の接触は、まるで焼けた鉄を押し当てられたかのように忌々しく感じられた。
「……触るな」
「なんですって……!? この私に向かって!」
周囲の貴族たちの、刺すような視線が痛い。
囁き声が、毒のように鼓膜に染み込んでくる。
『英雄ともあろうお方が、公衆の面前で婚約破棄を言い渡されるなんて』
『あの報告書の内容……賭け事の話は本当なのかしら』
『見て、あんなに震えて。本当に魔物を一撃で倒した御仁なの?』
「黙れ……黙れ! アリアの奴め、あんな出鱈目を並べ立てて……! あんな女、すぐに泣きながら戻ってくるに決まっている!」
俺は虚勢を張って立ち上がった。
そうだ。あのアリアだぞ。
俺が少し優しく笑いかければ、頬を染めて俯き、俺の言うことなら何でも「はい」と答えてきた、あの退屈で地味な女だ。
十数年、俺の影のように後ろを歩いてきた女が、俺なしで生きていけるはずがない。
明日になれば、真っ青な顔をして「昨日はどうかしていました、許してください」と、この騎士団舎へ駆け込んでくる。
その時こそ、たっぷりとお仕置きをしてやればいい。跪かせて、俺の靴を舐めさせてから、辺境へ追い出してやる。
――だが。
騎士団舎の自室に戻った俺を待っていたのは、かつて経験したことのない異様な静寂だった。
「……おい、アリア。ハーブティーを淹れろ」
無意識に言葉が漏れた。
だが、返事はない。
いつもなら、俺が部屋に戻る時間に合わせて、彼女が完璧な温度で用意していたはずの、あの蜂蜜入りの茶はない。
暗い部屋の中に、冷え切った空気だけが溜まっている。
俺は苛立ち紛れに寝台に身を投げ出した。
「……くそっ、なんだ、この体は」
全身の節々が痛む。
いや、痛みというよりは、体の中から「芯」が抜き取られたような、底知れない倦怠感だ。
これまでは、どんなに激しい訓練の後でも、一晩眠れば翌朝には全身に力が漲っていた。
戦場で受けた傷だって、翌朝にはかさぶたになり、三日もすれば跡形もなく消えていた。
それが「天才」である俺の、特別な肉体なのだと信じて疑わなかった。
だが、今夜はどうだ。
昼間の訓練で負った、腕の小さな擦り傷。
いつもならとっくに乾いているはずのその傷口から、今もじわじわと血が滲み、シーツを汚している。
「……アリアがいれば、この程度の傷……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
あいつが何か呪文でも唱えていたのか?
いや、そんなはずはない。あいつはただ、俺の側にいて、甲斐甲斐しく世話を焼いていただけだ。
魔導師の鑑定でも、あいつの魔力は「平均以下」だと出ていた。
『聖女』だの『加護』だの、あいつが夜会でほざいた妄言は、俺を動揺させるためのハッタリに決まっている。
俺は目を閉じ、眠りに落ちようとした。
だが、眠れない。
寒いのだ。
暖炉には火が入っているはずなのに、体の芯から凍えるような冷気が這い上がってくる。
これまで俺の周りには、常に目に見えない「春の木漏れ日」のような温かさが漂っていた。
それが当たり前すぎて、気づかなかった。
あいつが隣に座っている時、あいつが俺の背中に触れている時。
そこには確かに、俺を優しく包み込むぬくもりがあった。
それが今、完全に消えていた。
「……明日だ。明日になれば、あいつは戻ってくる」
自分に言い聞かせるように、俺は毛布を頭から被った。
三銅貨の指輪を捨てたと言っていたが、あんな安物、また買ってやればいい。
「愛している」と一度言ってやれば、あいつはまた俺の足元に擦り寄ってくる。
あいつにとって、俺は唯一無二の初恋なんだ。
十数年の執着が、たった一晩で消えるはずがないだろう?
だが、暗闇の中で脈打つ傷口の疼きが、俺の言葉を否定するようにズキズキと響く。
翌朝。
期待に反して、アリアは現れなかった。
それどころか、俺の元に届けられたのは、シルフォード伯爵家からの公式な通知だった。
『当家令嬢、アリア・シルフォードは、昨夜をもって家を出ました。行き先は不明。今後、ヴァスティア殿との一切の接触を禁じます』
「……は?」
通知を持ってきた部下の前で、俺は呆然と声を漏らした。
家を出た? 行き先が不明?
あの大人しくて、自分一人では何もできなかった女が?
「団長、それよりも……本日の演習ですが、本当に参加されるのですか? 失礼ながら、お顔の色がひどく悪いようですが」
「うるさい! 俺を誰だと思っている! 英雄レオン・ヴァスティアだぞ!」
俺は怒鳴り散らし、無理やり立ち上がった。
力が、入らない。
いつもなら紙のように軽く感じたはずの愛剣が、まるで巨大な岩のように重く、俺の右腕を引きちぎらんばかりに重力を主張している。
演習場へ向かう道すがら、俺は何度も足がもつれそうになった。
空気が薄い。心臓が痛い。
そして何より、周囲の騎士たちの視線が、昨日までのような「崇拝」から「不審」へと変わり始めているのが分かった。
「……あいつ、どこへ行った」
胸の中に、得体の知れない不安の影が、黒いシミのように広がっていく。
アリアがいない。
ただそれだけのことが、これほどまでに俺の「世界」を歪ませるとは思わなかった。
いや、認めない。
あいつは俺の所有物だ。俺を愛するための道具だ。
どこへ逃げようと、必ず引きずり戻してやる。
そして、俺のいない孤独の恐ろしさを骨の髄まで教えてやるんだ。
俺は震える手で剣の柄を握りしめ、歪んだ笑みを浮かべた。
自分の肉体が、すでに崩壊を始めていることにも気づかずに。
遠ざかっていく真夜中色のドレスの裾を、俺は掴むことすらできなかった。
王宮の床に膝をついたまま、俺は荒い呼吸を繰り返す。心臓が、まるで錆びついた金槌で叩かれているかのように重く、鈍い音を立てていた。
「レオン! しっかりなさい、なんて無様な姿なの!」
カトリーヌが俺の腕を掴み、無理やり引き起こそうとする。だが、その指先が触れた瞬間、俺はあまりの不快感に彼女の手を振り払ってしまった。
なぜだ。いつもなら、彼女の香水の香りは甘く、その贅沢な装いは俺の虚栄心を満たしてくれたはずなのに。今の彼女の接触は、まるで焼けた鉄を押し当てられたかのように忌々しく感じられた。
「……触るな」
「なんですって……!? この私に向かって!」
周囲の貴族たちの、刺すような視線が痛い。
囁き声が、毒のように鼓膜に染み込んでくる。
『英雄ともあろうお方が、公衆の面前で婚約破棄を言い渡されるなんて』
『あの報告書の内容……賭け事の話は本当なのかしら』
『見て、あんなに震えて。本当に魔物を一撃で倒した御仁なの?』
「黙れ……黙れ! アリアの奴め、あんな出鱈目を並べ立てて……! あんな女、すぐに泣きながら戻ってくるに決まっている!」
俺は虚勢を張って立ち上がった。
そうだ。あのアリアだぞ。
俺が少し優しく笑いかければ、頬を染めて俯き、俺の言うことなら何でも「はい」と答えてきた、あの退屈で地味な女だ。
十数年、俺の影のように後ろを歩いてきた女が、俺なしで生きていけるはずがない。
明日になれば、真っ青な顔をして「昨日はどうかしていました、許してください」と、この騎士団舎へ駆け込んでくる。
その時こそ、たっぷりとお仕置きをしてやればいい。跪かせて、俺の靴を舐めさせてから、辺境へ追い出してやる。
――だが。
騎士団舎の自室に戻った俺を待っていたのは、かつて経験したことのない異様な静寂だった。
「……おい、アリア。ハーブティーを淹れろ」
無意識に言葉が漏れた。
だが、返事はない。
いつもなら、俺が部屋に戻る時間に合わせて、彼女が完璧な温度で用意していたはずの、あの蜂蜜入りの茶はない。
暗い部屋の中に、冷え切った空気だけが溜まっている。
俺は苛立ち紛れに寝台に身を投げ出した。
「……くそっ、なんだ、この体は」
全身の節々が痛む。
いや、痛みというよりは、体の中から「芯」が抜き取られたような、底知れない倦怠感だ。
これまでは、どんなに激しい訓練の後でも、一晩眠れば翌朝には全身に力が漲っていた。
戦場で受けた傷だって、翌朝にはかさぶたになり、三日もすれば跡形もなく消えていた。
それが「天才」である俺の、特別な肉体なのだと信じて疑わなかった。
だが、今夜はどうだ。
昼間の訓練で負った、腕の小さな擦り傷。
いつもならとっくに乾いているはずのその傷口から、今もじわじわと血が滲み、シーツを汚している。
「……アリアがいれば、この程度の傷……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
あいつが何か呪文でも唱えていたのか?
いや、そんなはずはない。あいつはただ、俺の側にいて、甲斐甲斐しく世話を焼いていただけだ。
魔導師の鑑定でも、あいつの魔力は「平均以下」だと出ていた。
『聖女』だの『加護』だの、あいつが夜会でほざいた妄言は、俺を動揺させるためのハッタリに決まっている。
俺は目を閉じ、眠りに落ちようとした。
だが、眠れない。
寒いのだ。
暖炉には火が入っているはずなのに、体の芯から凍えるような冷気が這い上がってくる。
これまで俺の周りには、常に目に見えない「春の木漏れ日」のような温かさが漂っていた。
それが当たり前すぎて、気づかなかった。
あいつが隣に座っている時、あいつが俺の背中に触れている時。
そこには確かに、俺を優しく包み込むぬくもりがあった。
それが今、完全に消えていた。
「……明日だ。明日になれば、あいつは戻ってくる」
自分に言い聞かせるように、俺は毛布を頭から被った。
三銅貨の指輪を捨てたと言っていたが、あんな安物、また買ってやればいい。
「愛している」と一度言ってやれば、あいつはまた俺の足元に擦り寄ってくる。
あいつにとって、俺は唯一無二の初恋なんだ。
十数年の執着が、たった一晩で消えるはずがないだろう?
だが、暗闇の中で脈打つ傷口の疼きが、俺の言葉を否定するようにズキズキと響く。
翌朝。
期待に反して、アリアは現れなかった。
それどころか、俺の元に届けられたのは、シルフォード伯爵家からの公式な通知だった。
『当家令嬢、アリア・シルフォードは、昨夜をもって家を出ました。行き先は不明。今後、ヴァスティア殿との一切の接触を禁じます』
「……は?」
通知を持ってきた部下の前で、俺は呆然と声を漏らした。
家を出た? 行き先が不明?
あの大人しくて、自分一人では何もできなかった女が?
「団長、それよりも……本日の演習ですが、本当に参加されるのですか? 失礼ながら、お顔の色がひどく悪いようですが」
「うるさい! 俺を誰だと思っている! 英雄レオン・ヴァスティアだぞ!」
俺は怒鳴り散らし、無理やり立ち上がった。
力が、入らない。
いつもなら紙のように軽く感じたはずの愛剣が、まるで巨大な岩のように重く、俺の右腕を引きちぎらんばかりに重力を主張している。
演習場へ向かう道すがら、俺は何度も足がもつれそうになった。
空気が薄い。心臓が痛い。
そして何より、周囲の騎士たちの視線が、昨日までのような「崇拝」から「不審」へと変わり始めているのが分かった。
「……あいつ、どこへ行った」
胸の中に、得体の知れない不安の影が、黒いシミのように広がっていく。
アリアがいない。
ただそれだけのことが、これほどまでに俺の「世界」を歪ませるとは思わなかった。
いや、認めない。
あいつは俺の所有物だ。俺を愛するための道具だ。
どこへ逃げようと、必ず引きずり戻してやる。
そして、俺のいない孤独の恐ろしさを骨の髄まで教えてやるんだ。
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