さようなら、私の初恋

しょくぱん

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第一章:氷に閉ざされた愛

第5話:夜逃げではなく、旅立ち

 王宮の夜会会場は、眩いばかりの魔導灯の光と、着飾った貴族たちの喧騒に包まれていた。
 今夜は、王国の英雄レオン・ヴァスティアと、シルフォード伯爵令嬢アリアの婚約内定を祝う公式夜会。

 会場の入り口で私を待っていたレオンは、いつになく上機嫌だった。
 新調したと思われる、金糸がふんだんに施された騎士礼装を纏い、周囲の令嬢たちに傲岸不遜な笑みを振り撒いている。

「遅いぞ、アリア。僕を待たせるとは……」

 私を見たレオンの言葉が、途中で止まった。
 彼は、信じられないものを見るかのように、私を凝視している。

 今夜の私は、彼が求めた「地味で目立たない姿」ではない。
 光沢を抑えた深い真夜中色ミッドナイト・ブルーのドレス。無駄な装飾を削ぎ落としたそれは、回収した魔力によって内側から発光する私の肌を、残酷なまでに美しく引き立てていた。
 首元には何もつけず、ただ耳元にだけ、小さな氷の結晶のようなピアスを光らせている。

「……随分と、雰囲気が変わったな。まあいい、少しは英雄の隣に相応しい格好になったようだ」

 レオンは鼻を鳴らし、私の手を取った。
 その瞬間。彼が「っ」と、微かに顔を顰めたのを私は見逃さなかった。
 私の肌に触れたことで、彼に残っていたわずかな『加護の残滓』が、持ち主である私へと強制的に引き寄せられたのだ。
 彼にとっては、体中の熱を奪われるような不快な冷たさだったはずだ。

「さあ、行きましょうか、レオン様」

 私は微笑み、彼にエスコートされて会場の中央へと進んだ。
 そこにはすでに、カトリーヌ公爵令嬢が勝ち誇ったような笑みを浮かべて待ち構えていた。
 彼女の指には、あのサファイアサファイアが毒々しく輝いている。

 楽団の演奏が止まり、注目が集まる。
 レオンは私の腰を引き寄せ、わざとらしく大きな声で話し始めた。

「皆様、今夜お集まりいただいたのは他でもない。私とアリア・シルフォードの……」

 レオンがそこまで言った時、私は彼の手を、静かに、けれど拒絶の意志を込めて振り払った。

「――いいえ。お話しするのは、私のほうからにさせていただきますわ」

 静まり返る会場。レオンの顔が、驚きと怒りで赤く染まる。
「何を言っている、アリア! 控えろと言っただろう!」

 私は彼を無視し、扇子を広げて優雅に一歩前へ出た。
 そして、胸元から一通の書面を取り出す。

「レオン・ヴァスティア様。本日、この場をもちまして、私アリア・シルフォードは貴方との婚約内定をに戻させていただきます」

 会場に、爆弾が落ちたような衝撃が走った。
 貴族たちのざわめきが波のように広がる。

「……は? 何を、ふざけたことを……!」
「ふざけてなどおりませんわ。理由は、こちらの書面に記した通り。貴方が私の初恋を『賭け事の対象』にし、三銅貨の石ころで私を嘲笑っていたこと……。そして、公爵令嬢と不適切な関係にあること。すべて調査済みです」

 私は、砕け散った水晶の「代わり」として用意した、調査報告書をレオンの胸元に叩きつけた。
 彼が真っ青な顔でそれを受け取る。

「あ、アリア、これは違う! あれはただの冗談で……!」
「冗談で私の十数年を汚したのですか? ならば、私も冗談でお返ししましょう」

 私は声を一段低くし、彼だけに聞こえる温度で囁いた。

「貴方のその力、地位、名誉。すべて『地味な女』の加護が作り上げた砂上の楼閣でした。……もう、魔法は解けましたわよ。レオン様」

「なっ……がはっ!?」

 レオンが突如、胸を押さえてその場に膝をついた。
 顔からは血の気が引き、脂汗がダラダラと流れ落ちる。
 魔力を回収し、さらに彼が先ほど食べた「最後の晩餐」に含まれていた魔力のくさびが、彼の体内で暴れ始めたのだ。

 彼はもう、重い甲冑を支えることすら困難になるだろう。
 剣を振れば腕が痺れ、傷を負えば治らず、常に死者のような倦怠感に苛まれる。
 それが、私が彼に与える「罰」の第一歩。

「何をしているの、レオン! 立ちなさい!」
 カトリーヌが駆け寄るが、レオンは彼女の手を借りても立ち上がることができない。
 その無様な姿を、王都中の貴族たちが冷ややかな目で見下ろしている。

「皆様、お騒がせいたしました。私はこれにて、失礼させていただきます」

 私は完璧なカーテシーを披露すると、一度も後ろを振り返らずに出口へと向かった。
 背後でレオンが「待て! アリア!」と叫ぶ声がしたが、その声は以前のような力強さを失い、ひどく掠れていた。

 王宮の門を出ると、そこにはセバスが用意した馬車が待機していた。
 荷物はすべて積み込まれ、私の新たな人生への準備は整っている。

「お嬢様、お疲れ様でございました」
「ええ。……清々しいわ、セバス」

 私は馬車に乗り込み、窓から遠ざかる王宮を見つめた。
 これは逃亡ではない。
 私は、自分の価値を理解しない場所を、自らの意志で切り捨てたのだ。

「行きましょう。テオドール帝国へ。……私の新しい初恋を、探しに」

 馬車が夜の帳の中を走り出す。
 背後に残してきたのは、崩れゆく英雄の神話と、焼き捨てた過去。
 アリア・シルフォードとしての物語はここで一度終わり、明日からは、誰にも縛られない一人の聖女としての旅が始まる。
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