私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん

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第2章:自分を迎えに行く旅

第十二話:名もなき街の、小さな居場所

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 シオンの家で過ごすようになって二週間。包帯の下の傷は薄皮が張り、私の身体は驚くほどの速さで生気を取り戻していった。誰かの「穢れ」を吸い取らなくていいということが、これほどまでに肉体を軽くするのかと驚く毎日だった。

「いつまでも、この家で食っちゃ寝しているわけにもいかんだろう」

 ある朝、シオンが不愛想に一通の紹介状を差し出してきた。
 行き先は、街の坂の上にある「公立レムルシア図書館」。

「俺の知り合いが館長をしている。人手が足りないそうだ。君は文字が読めるし、本の扱いも丁寧だろう。……少しは外の空気を吸ってこい」

 それは、シオンなりの自立への促しだった。私は緊張で震える手で紹介状を受け取り、彼が用意してくれた新しい、けれど落ち着いた濃紺のワンピースに袖を通した。

 初めて一人で歩く、隣国の街。
 石畳の道、行き交う人々、陽気な市場の掛け声。
 誰一人として、私を「ローラン伯爵家のスペア」として見る者はいない。私はただの「髪の色の薄い、少し痩せた娘」として、風景の中に溶け込んでいた。

 図書館は、静寂の神殿のようだった。
 高い天井まで続く書架には、この世界の知恵が詰め込まれた本がぎっしりと並んでいる。
 館長の初老の女性、マルタさんは、私の手にある古い傷跡を一瞥したが、何も追求しなかった。ただ、優しく微笑んで私の肩を叩いた。

「いい手だわ。本を慈しめる人の手ね。アリアさん、今日からここの修繕係をお願いするわ」

 私の仕事は、破れた頁を糊で繋ぎ、擦り切れた表紙を直すこと。
 地下の小さな作業室。そこには、紙とインクと、古い糊の匂いが満ちていた。
 実家の屋敷のような、誰かの悪意や不満が渦巻く淀んだ空気はどこにもない。ただ、静かに流れる時間と、知識への敬意だけがある。

 私は慎重に、破れた頁に筆で糊を乗せていく。
 指先を動かすたび、かつて絵を描いていた時の感覚が、遠い記憶の底から呼び覚まされるようだった。

「……綺麗」

 修繕を終えた一冊の本。
 バラバラになりかけていた物語が、私の手によって再び一つの形を取り戻す。
 それは、ボロボロだった私自身が、シオンやこの場所によって繋ぎ止められていく過程と重なって見えた。

 お昼休み、私は街の広場が見えるベンチで、シオンが持たせてくれたサンドイッチを広げた。
 中には、彼が「苦いから嫌いだ」と言ったあの葉野菜が、細かく刻まれてハムと一緒に挟まれていた。
 一口食べると、適度な苦味がハムの脂を中和して、驚くほど調和の取れた味がした。

(あの方は、わざと……)

 彼もまた、自分自身の「苦い過去」を、こうして日常の中に馴染ませて生きているのだろうか。
 
 夕暮れ時、仕事を終えて外に出ると、空は燃えるような茜色に染まっていた。
 かつて母に焼かれた、あの「空の絵」と同じ色。
 けれど今の私は、それを悲しいとは思わなかった。
 
 明日もまた、ここに来る場所がある。
 「アリアさん」と呼んでくれる人がいる。
 そして、帰れば「飯だ」と言ってくれる、不器用な男が待っている。

 私は一歩、しっかりと石畳を踏みしめて歩き出した。
 ここは、私の知らない、私のための世界。
 身代わりではない、一人の人間としての時間が、静かに、けれど確かに刻まれ始めていた。
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