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しおりを挟む玄関の戸が開く音がしたと思ったら、中にいる紫乃に声をかけることもなく、廊下を渡ってくる足音が聞こえた。
キヨはもちろん瑛久でさえ玄関先で中に向かって声をかける。
(いったい誰なの)
怯える紫乃の前に現れたのは、初対面の時のように、流行りの洋装に身を包んだ鈴子だった。
「あの、なにか──」
「私は別に用なんてないけど、お兄さまに言われてきたのよ」
「瑛久さまから……?」
「『瑛久さま』?ちょっと、やめてちょうだい、気持ち悪い!」
『おまえごときが兄の名を気安く呼ぶな』
鈴子の表情には、そんな感情がありありと浮かんでいた。
なぜ、名前を呼ぶことすら許されないのか。
問い質したい気持ちに駆られたが、そもそも瑛久の名前をどう呼ぶべきか、本人に確認したわけでもない。
なにも言えず押し黙る紫乃に、鈴子はふんと鼻を鳴らした。
「ねえ、お茶も出してくれないの?座布団は?」
「は、はい。今すぐ」
紫乃は、押し入れに仕舞われている座布団を出そうと、慌てて立ち上がった。
「わざわざ出さなくても、それでいいわ」
鈴子が指差したのは、いつも瑛久が座る位置に置いてあった座布団。
鈴子は紫乃の返事をまたず、そこに座った。
「ねえ。あなた、お兄さまとはもう寝たの?」
「あの、そういったことはまだ……」
「やっぱりね。そんなことだと思ったわ」
鈴子は紫乃の頭のてっぺんから足の爪先まで、ジロジロと不躾な視線を向けてきた。
「そんな身体じゃ、お兄さまが欲情しないのも無理ないわね」
暗に貧相な身体だと言われ、恥ずかしさで顔に熱が集中する。
元々発育は悪い方ではなかったが、母の死後、食事の回数を減らされ、成長期に十分な栄養が取れなかった。
だから胸はまな板のようにぺたんこで、腰回りの女性らしい肉付きもほとんどない。
「妾っていうからにはてっきり『男を惑わす魔性の女』みたいなのが来ると思ったのに、これじゃ拍子抜けよね」
「……申し訳ありません」
「まあなんにせよ、妾があなたみたいな女だって知ったら、蒔子お姉さまも少しは安心するわね。今はあなたがきたことで少し拗れてるけど、二人はもともと仲睦まじい夫婦だったんだから」
蒔子──会ったことはもちろん、姿を見かけたことすらない瑛久の正妻。
瑛久が祭りに連れて行ってくれないのは当たり前だ。
三年に一度開かれるという今年の本祭りも、瑛久は蒔子と見に行くのだろう。
これまでもこれからも、瑛久とともに堂々と外を歩けるのは蒔子だけ。
「そうだわ!蒔子お姉さまにあなたを会わせればいいのよ」
名案が浮かんだとばかりに、鈴子はポンと手を打った。
いったい何を言い出すのか。
自分の母と父の正妻である君江の仲は、思い出す限り、身震いするほど険悪だった。
紫乃がこの家にきたことで、水無瀬家の人間を不愉快な気持ちにさせていることは、もう十分承知している。
だからせめて、これ以上誰も刺激しないように、ひっそりと静かに暮らしたい。
鈴子たちだって、その方がいいだろう。
それなのに、どうしてわざわざ余計な波風を立てようとするのか。
紫乃には理解できなかった。
「あ、あの……」
「お姉さまに聞いてみないとなんとも言えないけれど、心づもりだけはしておいてよね」
まるで、自分たちに従うのが当然だとでもいうような傲慢さに押し切られ、紫乃は何も言えなくなってしまった。
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