【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第一章 春の御殿にて、風は微笑む

花の宴、香煙にまぎれて

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 春爛漫。
 紅梅の花が散り、桜の蕾がほころびかけるころ、宮中では年に一度の盛大な宴が催される。

 「香を焚きしめ、楽の音を響かせ、春を寿ぐ」

 ——そう題されたその宴は、帝が直々にお出ましになる晴れの儀。

 女房たちにとっては、一年で最も華やかで、最も神経をすり減らす日でもある。
 もちろん、藤原梓乃にとっても例外ではなかった。

「姉さま、そこ! そこ、もう少し左です!」

「はいはい、左ですね。あら、右じゃありませんの?」

「違います! あっ、それ香炉です、倒れます倒れます!」

 朝から千鳥の悲鳴が響いていた。
 宴の準備のため、女房たちは大広間の花の間に集められている。
 床には鮮やかな絹の敷物、几帳には金糸で縫い取られた花鳥。
 香の煙がほのかに漂い、まるで夢の中のような光景だ。

 その中央で、梓乃はというと——。

「まあ、華やかですねえ。まるで花の国のよう」

「姉さま、感想よりも作業です!」

「そうでしたわ」

 ゆるりとした調子で香炉を運ぶ梓乃。
 その姿を見て、周囲の女房たちはひそひそと笑った。

「ほら、あの藤原の娘……」

「“帝の御前に出る宴”だというのに、まるで野に咲く花みたいね」

「まあ、悪く言えば緊張感がないとも」
 
 だが、不思議とその空気が嫌味にならないのが梓乃の不思議だった。
 ふわりとした笑顔に、皆どこか力が抜けてしまうのだ。

 やがて、雅楽の音が静かに流れ、帝が姿を現された。
 金糸の袍、清らかな白の下衣。
 その歩み一つで、空気が変わる。

 女房たちは一斉に頭を下げた。
 梓乃もあわてて膝を折る。
 だが、裾を引きずりながらの所作にはまだ慣れない。
 
「姉さま、香炉、持ったまま——!」
 
「え?」

 ぱた、と。
 香炉の縁が揺れた。
 香の粉が風に舞い上がる。

「あらあら、もったいない!」

 思わず香炉を押さえようとして、梓乃は前のめりに。
 その先にいたのは——。
 帝の御衣の裾。

「きゃっ」

 掴んだ。

 ──沈黙。

 場の空気が、音を失ったように凍りつく。
 香の煙だけが、すうっと天井へと昇っていった。

「……っ、帝の御衣を!」

「なんという無礼!」

「退下させなさい!」

 女官たちの声が一斉に上がる。
 
 千鳥は真っ青になって口をぱくぱくさせた。

「姉さまっ、手を……手を離してぇぇっ!」

「え? ああ、失礼いたしました」

 梓乃は慌てて手を離し、深く頭を下げた。

「お衣の裾が、危ううございましたので……思わず」
 
 その穏やかな声に、帝はふっと目を細められた。
 
「……危うう、とな?」

「はい。香炉が倒れかけておりましたので」

 帝は少しの間、彼女を見つめた。
 そして、静かに笑われた。

「よい。香炉を救おうとしたのだな。面白い娘だ」
 
 その笑みは春の日差しのように柔らかく、広間の空気が一変する。
 女官たちは再びざわめいた。
 
「……帝がお笑いに?」

「面白い娘、だそうですわ」

「もしかして、寵愛を……?」
 
 綾女がその声を耳にして、ゆるやかに扇を開いた。
 目元に浮かんだ微笑みは、まるで金箔を薄く張ったように冷たい。

「帝が笑われるのも、珍しいこと。——あの方、どうやら“特別”のようですわね」

 宴の終わり。
 女房たちはそれぞれの持ち場を片づけ、千鳥は大慌てで梓乃の袖を引いた。

「姉さまっ、どうしてあんなことを!」

「まあ、裾が倒れそうでしたから」

「帝の裾ですよ!?」

「ええ、ですから、倒れてしまったら香の粉がこぼれますもの」

「……姉さまの感覚、ほんとうに都では通じません!」
 
 千鳥がぷりぷり怒っても、梓乃はのんびり微笑んでいる。
 
「まあ、どうにかなるでしょう」

「なりません!」
 
 そのやり取りを遠くから眺めながら、綾女はそっと唇を歪めた。

「……帝のご視線を受けた女、ね。おっとり顔で、なかなかの曲者」
 
 その夜、宮中には早くも噂が広がっていた。

「帝が、あの藤原の娘に……?」

「宴の場で微笑まれたとか!」

「手を、取られたとか!」
 
 事実はまるで違うのに、噂というものは面白いほど花開く。
 梓乃本人はというと、香炉の煤を拭きながら、しみじみと呟いていた。

「帝のお衣、柔らかくて良い香りがしましたねえ」
 
「姉さま、それ感想にしては不敬です!」

「まあ、そうでしたか?」

 春の宵、香の煙の向こうで、千鳥の悲鳴と笑い声が交錯した。

 そして、その日の宴こそが——
  “帝の寵愛を受けた女”という、とんでもない誤解の幕開けとなったのである。
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