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第一章 春の御殿にて、風は微笑む
春まだ浅く、霞の宮にて
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春まだ浅い都の朝。霞の中に金の御殿がぼんやりと浮かび、鶯の声が遠くで鳴いた。
藤原梓乃(しの)は、牛車の窓からその光景を見上げていた。
——まさか、わたくしが宮中に上がる日が来ようとは。
旅装のままの衣に、少し風の香りをまとう。
梓乃は、その名に都の由緒を冠する藤原氏の出ながら、両親が地位や権力に興味を持たず、ひっそりと田舎に隠棲していたため、生粋の田舎育ちであった。
そんな彼女が女房として召し上げられたのは、たった一通の手紙のせいだった。
「お願い、梓乃。どうか代わりに勤めて——」
駆け落ちを決行した友人・沙夜からの泣きつきの文。
そのお人好しな性格が、まさかこんな大騒ぎを呼ぶとは、当の本人も思いもしなかった。
「まあまあ、見てください! あれが紫宸殿ですわ!」
案内を務める若い女房・千鳥が、ぱっと手を広げる。
その声に梓乃はゆるりと頷いた。
「まあ、きらびやかですねえ。あんなに光る金具、磨くのもたいへんそうです」
「姉さま、そこですか!?」
初対面のときから千鳥は驚いてばかりである。
彼女は都生まれの快活な娘で、梓乃を「姉さま」と慕ってくれていた。
「ほかの女房方は皆、顔をこわばらせておりましたのに……姉さまだけ、まるで散歩にでも来たようで」
「だって、緊張しても畳が柔らかくなるわけではありませんもの」
「……姉さま、それは名言かもしれません」
千鳥が吹き出すと、梓乃もほほ笑んだ。
こののんびりした空気こそ、彼女の魅力であり、同時に周囲を困惑させる要因でもある。
その日の夕刻。
女房たちは香の調合の実技を命じられた。
梓乃は、香炉の前に座り、慎重に香材を選んでいく。
彼女は香の知識こそ学んだことはなかったが、香を合わせること自体は幼い頃からの日課だった。
野山で摘んだ草花や、拾い集めた木の実を乳鉢ですり潰し、自分だけの香を作る時間が何より好きだったのだ。
出来上がった香を嗅ぐと、なぜか皆が柔らかな笑顔になった。
それが、梓乃にとっての喜びだった。
まわりの女房たちは美しい所作で香を合わせていくのに、梓乃だけは額に汗をにじませていた。
「……ええと、これと、これを少しずつ……あら、くしゃみが」
ふわりと舞った粉が鼻をくすぐり、「くしゅん」と小さなくしゃみが漏れた。
煙が立ちのぼり、調合が乱れる。周囲の女房たちがざわめく。
「まあ、田舎の娘に香の道など——」
「ほら、綾女さまがご覧になっておられるわ」
視線の先にいたのは、帝の寵姫付きの上級女房・綾女。
その笑みは優雅だが、どこか冷たい光を宿していた。
「まあ、珍しいわね。鼻で香を合わせる方があるとは」
「す、すみません、失敗してしまって……」
「いえ。どんな香りになるのか、楽しみですわ」
綾女の声には柔らかな毒があった。
梓乃は困ったように微笑みながら、焦る気持ちを抑え、指先に意識を集中した。
調合台の香材の一つ一つに語りかけるように、心を込めて火箸を動かす。
幼い頃、野花で香を作っていた時と同じように。
すると——。
ふわり、と。
桜の蕾のように淡く甘い香りが、静かに広がった。
濃すぎず、淡すぎず、春の風にのるような香り。
その場の空気が、一瞬でやわらかくなった。
「まあ……」
「なんて優しい香……」
女房たちが思わず息をのむ。綾女の表情にも一瞬、動揺が走った。
梓乃はきょとんとした顔で、煙の行方を見つめていた。
「うまくいった、のかしら。よかった……」
まるで何事もなかったかのようにほほ笑むその姿に、
綾女は扇を軽く閉じて、唇の端を上げた。
——この田舎娘、気に入らない。
その夜、千鳥が顔を出し、梓乃の隣に座った。
「姉さま、今日は大成功でしたね! あの綾女さまの眉がぴくりと動きましたよ!」
「ええ? そうでしたか? あら、あの方、きっとお顔の筋が冷たい風で……」
「違います! 姉さまが香で一目置かれたんです!」
千鳥の目がきらきらと輝いている。
梓乃は苦笑しつつ、香炉を見つめた。
「……でもね、千鳥。香は気を張るより、心を鎮めるものですの。慌てても香の煙は急いでくれませんもの」
「……姉さま、それ、また名言です」
二人の笑い声が、夜の廊を柔らかく満たした。
その音を、廊下の向こうで一人の男が立ち止まり、ふと耳にした。
冷ややかな眼差しを持つ中納言家の長男・宗雅。
彼はふと足を止め、静かな微笑をわずかに浮かべた。
——なんとも、妙な空気だ。
それが、彼と梓乃の最初の出会いだった。
藤原梓乃(しの)は、牛車の窓からその光景を見上げていた。
——まさか、わたくしが宮中に上がる日が来ようとは。
旅装のままの衣に、少し風の香りをまとう。
梓乃は、その名に都の由緒を冠する藤原氏の出ながら、両親が地位や権力に興味を持たず、ひっそりと田舎に隠棲していたため、生粋の田舎育ちであった。
そんな彼女が女房として召し上げられたのは、たった一通の手紙のせいだった。
「お願い、梓乃。どうか代わりに勤めて——」
駆け落ちを決行した友人・沙夜からの泣きつきの文。
そのお人好しな性格が、まさかこんな大騒ぎを呼ぶとは、当の本人も思いもしなかった。
「まあまあ、見てください! あれが紫宸殿ですわ!」
案内を務める若い女房・千鳥が、ぱっと手を広げる。
その声に梓乃はゆるりと頷いた。
「まあ、きらびやかですねえ。あんなに光る金具、磨くのもたいへんそうです」
「姉さま、そこですか!?」
初対面のときから千鳥は驚いてばかりである。
彼女は都生まれの快活な娘で、梓乃を「姉さま」と慕ってくれていた。
「ほかの女房方は皆、顔をこわばらせておりましたのに……姉さまだけ、まるで散歩にでも来たようで」
「だって、緊張しても畳が柔らかくなるわけではありませんもの」
「……姉さま、それは名言かもしれません」
千鳥が吹き出すと、梓乃もほほ笑んだ。
こののんびりした空気こそ、彼女の魅力であり、同時に周囲を困惑させる要因でもある。
その日の夕刻。
女房たちは香の調合の実技を命じられた。
梓乃は、香炉の前に座り、慎重に香材を選んでいく。
彼女は香の知識こそ学んだことはなかったが、香を合わせること自体は幼い頃からの日課だった。
野山で摘んだ草花や、拾い集めた木の実を乳鉢ですり潰し、自分だけの香を作る時間が何より好きだったのだ。
出来上がった香を嗅ぐと、なぜか皆が柔らかな笑顔になった。
それが、梓乃にとっての喜びだった。
まわりの女房たちは美しい所作で香を合わせていくのに、梓乃だけは額に汗をにじませていた。
「……ええと、これと、これを少しずつ……あら、くしゃみが」
ふわりと舞った粉が鼻をくすぐり、「くしゅん」と小さなくしゃみが漏れた。
煙が立ちのぼり、調合が乱れる。周囲の女房たちがざわめく。
「まあ、田舎の娘に香の道など——」
「ほら、綾女さまがご覧になっておられるわ」
視線の先にいたのは、帝の寵姫付きの上級女房・綾女。
その笑みは優雅だが、どこか冷たい光を宿していた。
「まあ、珍しいわね。鼻で香を合わせる方があるとは」
「す、すみません、失敗してしまって……」
「いえ。どんな香りになるのか、楽しみですわ」
綾女の声には柔らかな毒があった。
梓乃は困ったように微笑みながら、焦る気持ちを抑え、指先に意識を集中した。
調合台の香材の一つ一つに語りかけるように、心を込めて火箸を動かす。
幼い頃、野花で香を作っていた時と同じように。
すると——。
ふわり、と。
桜の蕾のように淡く甘い香りが、静かに広がった。
濃すぎず、淡すぎず、春の風にのるような香り。
その場の空気が、一瞬でやわらかくなった。
「まあ……」
「なんて優しい香……」
女房たちが思わず息をのむ。綾女の表情にも一瞬、動揺が走った。
梓乃はきょとんとした顔で、煙の行方を見つめていた。
「うまくいった、のかしら。よかった……」
まるで何事もなかったかのようにほほ笑むその姿に、
綾女は扇を軽く閉じて、唇の端を上げた。
——この田舎娘、気に入らない。
その夜、千鳥が顔を出し、梓乃の隣に座った。
「姉さま、今日は大成功でしたね! あの綾女さまの眉がぴくりと動きましたよ!」
「ええ? そうでしたか? あら、あの方、きっとお顔の筋が冷たい風で……」
「違います! 姉さまが香で一目置かれたんです!」
千鳥の目がきらきらと輝いている。
梓乃は苦笑しつつ、香炉を見つめた。
「……でもね、千鳥。香は気を張るより、心を鎮めるものですの。慌てても香の煙は急いでくれませんもの」
「……姉さま、それ、また名言です」
二人の笑い声が、夜の廊を柔らかく満たした。
その音を、廊下の向こうで一人の男が立ち止まり、ふと耳にした。
冷ややかな眼差しを持つ中納言家の長男・宗雅。
彼はふと足を止め、静かな微笑をわずかに浮かべた。
——なんとも、妙な空気だ。
それが、彼と梓乃の最初の出会いだった。
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