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第二章 風花の離宮にて、静けさを知る
追われる花、流される風
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春の霞が、まだ残る野をやわらかく包んでいた。
牛車の車輪が、ぬかるんだ道をゆっくりと進んでいく。
「姉さま、本当にこんなところに住むんですか……?」
御簾のすき間から外をのぞいた千鳥の声が、どこか泣きそうに響いた。
「ええ。帝のお言葉に背くわけには参りませんもの」
梓乃は穏やかに答え、膝の上で香袋を撫でる。
彼女の指先からは、かすかに梅と白檀の香が漂った。
「……でも、あの綾女様が何か吹き込んだに決まってます! 離宮なんて、要するに島流しですよ!」
「まあまあ。島でも離宮でも、屋根があって、風が通るなら十分ではありませんか」
「姉さまはほんとうに……!」
千鳥はぷくりと頬を膨らませる。
だが、その頬の陰に、再会の安堵がうっすら滲んでいた。
梓乃が都を去ったあと、心配で眠れなかった千鳥は、こっそり後を追ってきたのである。
「どうせ叱られるなら、一緒に叱られたい」と言い放ち、帝の使者を呆れさせたという逸話つきだ。
やがて、風花の離宮が姿を現した。
「まあ……これはまた、見事に時の流れを受け入れたお屋敷ですね」
瓦はところどころ落ち、蔦が柱を這い、池は濁って蛙が声を上げている。
長年使われぬまま放置された建物は、まるで古びた香炉のように、静かに眠っていた。
「見事どころか、廃墟じゃありませんか!」
千鳥は悲鳴を上げる。
「蜘蛛の巣、草ぼうぼう……あっ、何か動きました!」
「まあまあ、虫たちも先住民ですから」
梓乃は笑いながら裾をたくし上げ、庭に足を踏み入れた。
「姉さま、そんなところ歩いたらお着物が!」
「汚れても洗えばよいでしょう? 千鳥、見てくださいな」
梓乃は荒れ果てた庭の一角を指さす。
そこには、小さな菜の花が群れをなし、風に揺れていた。
「まあ……ここは夢の素材ですね」
「夢というより、どう見ても廃墟です!」
千鳥が嘆くと、梓乃はふふ、と声を立てて笑った。
「夢というのは、手をかけてこそ花開くものですよ」
そう言って、袖をまくると草を抜き、落ち葉を集めはじめた。
日が暮れるころには、屋敷の前庭にだけ、ふわりとした清風が通うようになっていた。
翌朝。
梓乃は、割れた香炉の欠片を見つけて磨いていた。
「姉さま、そんなもの、もう使えませんよ」
千鳥がため息をつく。
「いいえ、香は入れ方次第でいくらでもよみがえります。ほら、菜の花の花びらをひとひら――」
そう言って、香炉の中に花びらを落とした。
淡い煙が立ちのぼり、光をまとってゆらめく。
「誰も褒めてくださらなくても、よい香りは心を和ませますね」
梓乃は目を細め、静かに微笑んだ。
その香りに包まれながら、千鳥の頬からふと力が抜けていく。
「……姉さまって、なんだか、風みたいですね」
「まあ、風ですか。掴めないし、止まりませんね」
「でも、あったかいです」
その言葉に、梓乃は少しだけ照れて笑った。
数日後。
離宮の庭はすっかり様変わりしていた。
草が刈られ、花がいけられ、軒先には新しい簾が掛けられている。
「姉さま、やればできるものですね!」
「できぬことなど、最初から数えませんもの」
梓乃は軽やかに答え、庭の中央に立った。
そのとき、雲の切れ間から光が差し込む。
一面の菜の花が、黄金の波のようにきらめいた。
風が吹き、梓乃の黒髪がさらりと揺れる。
その瞬間、千鳥は息を呑んだ。
まるで、彼女の髪までもが金に染まり、春そのものが形をとったかのようだった。
「……きれい」
「え?」
「いえ、なんでもありません!」
千鳥は慌てて顔を背ける。
梓乃は首をかしげ、笑みを浮かべた。
「この離宮も、まんざら捨てたものではありませんね」
そう言って、香炉の煙に指をかざした。
その煙はふわりと形を変え、桜色の光の中に溶けていった。
夜、ふたりで夕餉をとっていると、千鳥がぽつりとつぶやいた。
「姉さま、都が恋しくありませんか?」
「ええ、少しだけ。でも――」
梓乃は湯呑を見つめる。
「心が静かに呼吸できる場所を見つけました。都では、風の音も聞こえませんでしたから」
千鳥はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「……じゃあ、ここで新しい風を起こしましょう」
「まあ、それは頼もしい風ですね」
二人の笑い声が、春の夜気に溶けていく。
離宮の灯が、遠く山の端でまたたいた。
梓乃の目の奥に、柔らかな光が宿る。
どんな嵐に巻き込まれても、この人は決して折れない。
千鳥はそう思いながら、そっと目を閉じた。
そして――風花の離宮に、静かで確かな“再生”の時が流れ始めた。
牛車の車輪が、ぬかるんだ道をゆっくりと進んでいく。
「姉さま、本当にこんなところに住むんですか……?」
御簾のすき間から外をのぞいた千鳥の声が、どこか泣きそうに響いた。
「ええ。帝のお言葉に背くわけには参りませんもの」
梓乃は穏やかに答え、膝の上で香袋を撫でる。
彼女の指先からは、かすかに梅と白檀の香が漂った。
「……でも、あの綾女様が何か吹き込んだに決まってます! 離宮なんて、要するに島流しですよ!」
「まあまあ。島でも離宮でも、屋根があって、風が通るなら十分ではありませんか」
「姉さまはほんとうに……!」
千鳥はぷくりと頬を膨らませる。
だが、その頬の陰に、再会の安堵がうっすら滲んでいた。
梓乃が都を去ったあと、心配で眠れなかった千鳥は、こっそり後を追ってきたのである。
「どうせ叱られるなら、一緒に叱られたい」と言い放ち、帝の使者を呆れさせたという逸話つきだ。
やがて、風花の離宮が姿を現した。
「まあ……これはまた、見事に時の流れを受け入れたお屋敷ですね」
瓦はところどころ落ち、蔦が柱を這い、池は濁って蛙が声を上げている。
長年使われぬまま放置された建物は、まるで古びた香炉のように、静かに眠っていた。
「見事どころか、廃墟じゃありませんか!」
千鳥は悲鳴を上げる。
「蜘蛛の巣、草ぼうぼう……あっ、何か動きました!」
「まあまあ、虫たちも先住民ですから」
梓乃は笑いながら裾をたくし上げ、庭に足を踏み入れた。
「姉さま、そんなところ歩いたらお着物が!」
「汚れても洗えばよいでしょう? 千鳥、見てくださいな」
梓乃は荒れ果てた庭の一角を指さす。
そこには、小さな菜の花が群れをなし、風に揺れていた。
「まあ……ここは夢の素材ですね」
「夢というより、どう見ても廃墟です!」
千鳥が嘆くと、梓乃はふふ、と声を立てて笑った。
「夢というのは、手をかけてこそ花開くものですよ」
そう言って、袖をまくると草を抜き、落ち葉を集めはじめた。
日が暮れるころには、屋敷の前庭にだけ、ふわりとした清風が通うようになっていた。
翌朝。
梓乃は、割れた香炉の欠片を見つけて磨いていた。
「姉さま、そんなもの、もう使えませんよ」
千鳥がため息をつく。
「いいえ、香は入れ方次第でいくらでもよみがえります。ほら、菜の花の花びらをひとひら――」
そう言って、香炉の中に花びらを落とした。
淡い煙が立ちのぼり、光をまとってゆらめく。
「誰も褒めてくださらなくても、よい香りは心を和ませますね」
梓乃は目を細め、静かに微笑んだ。
その香りに包まれながら、千鳥の頬からふと力が抜けていく。
「……姉さまって、なんだか、風みたいですね」
「まあ、風ですか。掴めないし、止まりませんね」
「でも、あったかいです」
その言葉に、梓乃は少しだけ照れて笑った。
数日後。
離宮の庭はすっかり様変わりしていた。
草が刈られ、花がいけられ、軒先には新しい簾が掛けられている。
「姉さま、やればできるものですね!」
「できぬことなど、最初から数えませんもの」
梓乃は軽やかに答え、庭の中央に立った。
そのとき、雲の切れ間から光が差し込む。
一面の菜の花が、黄金の波のようにきらめいた。
風が吹き、梓乃の黒髪がさらりと揺れる。
その瞬間、千鳥は息を呑んだ。
まるで、彼女の髪までもが金に染まり、春そのものが形をとったかのようだった。
「……きれい」
「え?」
「いえ、なんでもありません!」
千鳥は慌てて顔を背ける。
梓乃は首をかしげ、笑みを浮かべた。
「この離宮も、まんざら捨てたものではありませんね」
そう言って、香炉の煙に指をかざした。
その煙はふわりと形を変え、桜色の光の中に溶けていった。
夜、ふたりで夕餉をとっていると、千鳥がぽつりとつぶやいた。
「姉さま、都が恋しくありませんか?」
「ええ、少しだけ。でも――」
梓乃は湯呑を見つめる。
「心が静かに呼吸できる場所を見つけました。都では、風の音も聞こえませんでしたから」
千鳥はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「……じゃあ、ここで新しい風を起こしましょう」
「まあ、それは頼もしい風ですね」
二人の笑い声が、春の夜気に溶けていく。
離宮の灯が、遠く山の端でまたたいた。
梓乃の目の奥に、柔らかな光が宿る。
どんな嵐に巻き込まれても、この人は決して折れない。
千鳥はそう思いながら、そっと目を閉じた。
そして――風花の離宮に、静かで確かな“再生”の時が流れ始めた。
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