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第二章 風花の離宮にて、静けさを知る
静かな庵に、灯るぬくもり
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その朝、離宮の庭には薄桃色の花びらがひらひらと舞っていた。
春の風がそっと縁側をなで、梓乃は香の煙をたゆたわせながら、静かに茶を点てていた。
鳥のさえずり。湯のたぎる音。
——この穏やかさこそ、追放の身にしては贅沢というものだろう。
そこへ、控えていた侍女の千鳥が、息せき切って駆け込んでくる。
「梓乃さまっ、たいへんですっ!」
「まあ、どうなさいました、そんなに慌てて」
「中納言家の長男、宗雅様が……っ! 突然お越しになられました!」
梓乃は茶杓を静かに置いた。
宗雅——帝の腹心として知られる冷徹な貴公子。人を見下ろすような眼差しで、常に隙のない男。
「おや、それはまた……春の客にしては、ずいぶん風当たりが強そうですね」
「そ、そんな悠長なことを……! “帝の寵愛を受けて追放された女”という噂を聞いて、確かめに来たそうでございます!」
千鳥の言葉に、梓乃はくすりと笑った。
「噂というものは、春の霞よりも流れやすいものですわ。では、お迎えの支度をいたしましょう。お茶菓子は桜餅で」
「……は、はいぃっ!」
慌てふためく千鳥を見送りながら、梓乃はそっと衣の裾を整えた。
“帝の寵愛を受けて追放された女”——なんと都合のいい呼び名だろう。
実際のところ、彼女はただ「政治の均衡のため」に宮を離れただけだったのだが、噂好きな貴族たちは、真実よりも甘い虚構を好む。
宗雅が姿を現したのは、それからほどなくしてのことだった。
青磁色の直衣をまとい、整った顔立ちに影を宿した青年。
庭の花びらさえ、彼の一歩に息を呑むかのように揺れた。
「お初にお目にかかります、中納言家の宗雅にございます。帝のご命により、この離宮の様子を視察いたします」
梓乃はにこやかに一礼した。
「ようこそお越しくださいました。粗末な離宮ではございますが、どうぞおくつろぎくださいませ。茶をお持ちいたしましょう」
「結構です。長居をするつもりはありませんので」
きっぱりと断つ声音。
梓乃は、まるでそれが春の風の一吹きであるかのように、にこりと微笑んだ。
「まあ、それは残念。せっかく千鳥が腕によりをかけたお菓子を用意しておりましたのに」
宗雅は眉をひそめる。
この女——噂に聞いた妖艶な誘惑者ではない。
むしろ、どこか拍子抜けするほど、おっとりしている。
「君が……例の女か」
「ええ、例の女でございます」
間髪入れずの返答に、宗雅の口元がぴくりと動いた。
そして次の瞬間——
「ぷっ……はは……っ」
あろうことか、氷の貴公子と呼ばれている宗雅が吹き出したのである。
あまりの意外さに、千鳥が「ひぃっ」と変な声をあげた。
「まあ……宗雅様がお笑いに?」
「失礼。まさか本人の口から“例の女”などという言葉が出るとは思わなかったので」
「言葉は時に最も手軽な武器になりますもの。笑ってくださるなら、本望でございますわ」
その飄々とした調子に、宗雅は再び目を細めた。
噂にあった“妖女”像はどこにもない。
目の前にいるのは、ただ柔らかく微笑み、相手の剣を受け流す女。
「……貴女は、何を考えている」
「お茶の湯加減を、でございます」
宗雅、沈黙。
その間に、千鳥が緊張のあまり手を滑らせ、茶器を宗雅の袖にこぼした。
「ああああっ、申し訳ありません! 宗雅様っ!」
「いや、構わぬ」
冷たい声が返るが、その顔にはわずかな戸惑いが見えた。
梓乃はすっと立ち上がり、手ぬぐいを差し出した。
「まあ、濡れても乾けば大丈夫です。それより、袖の香が変わってしまうかもしれませんね。……新しい香をおつけしましょうか?」
「……いや、それには及ばぬ」
「そう? 残念ですわ。宗雅様には、沈丁花の香りが似合いそうなのに」
またしても唐突な言葉に、宗雅は思わず彼女を見つめた。
梓乃はただ、にこりと、春の陽のように穏やかに微笑んでいる。
その笑顔に、胸の奥がふとざわめいた。
この女、緊張というものを知らぬのか……。
その日の夕刻。宗雅は報告書を書こうとして、筆を止めた。
“離宮に不穏の兆しなし。女、特筆すべき異常なし。”
それで十分のはずだ。
だが、気づけば筆は勝手に動き、こう書き加えていた。
——「ただし、何かに化けそうな気配あり」
宗雅は苦笑し、紙を裏返して火にくべた。
梓乃の笑顔が、なぜか煙の向こうでゆらめく。
「……面倒な女に出会ってしまったかもしれぬな」
そう呟いた声を、春風がひっそりとさらっていった。
春の風がそっと縁側をなで、梓乃は香の煙をたゆたわせながら、静かに茶を点てていた。
鳥のさえずり。湯のたぎる音。
——この穏やかさこそ、追放の身にしては贅沢というものだろう。
そこへ、控えていた侍女の千鳥が、息せき切って駆け込んでくる。
「梓乃さまっ、たいへんですっ!」
「まあ、どうなさいました、そんなに慌てて」
「中納言家の長男、宗雅様が……っ! 突然お越しになられました!」
梓乃は茶杓を静かに置いた。
宗雅——帝の腹心として知られる冷徹な貴公子。人を見下ろすような眼差しで、常に隙のない男。
「おや、それはまた……春の客にしては、ずいぶん風当たりが強そうですね」
「そ、そんな悠長なことを……! “帝の寵愛を受けて追放された女”という噂を聞いて、確かめに来たそうでございます!」
千鳥の言葉に、梓乃はくすりと笑った。
「噂というものは、春の霞よりも流れやすいものですわ。では、お迎えの支度をいたしましょう。お茶菓子は桜餅で」
「……は、はいぃっ!」
慌てふためく千鳥を見送りながら、梓乃はそっと衣の裾を整えた。
“帝の寵愛を受けて追放された女”——なんと都合のいい呼び名だろう。
実際のところ、彼女はただ「政治の均衡のため」に宮を離れただけだったのだが、噂好きな貴族たちは、真実よりも甘い虚構を好む。
宗雅が姿を現したのは、それからほどなくしてのことだった。
青磁色の直衣をまとい、整った顔立ちに影を宿した青年。
庭の花びらさえ、彼の一歩に息を呑むかのように揺れた。
「お初にお目にかかります、中納言家の宗雅にございます。帝のご命により、この離宮の様子を視察いたします」
梓乃はにこやかに一礼した。
「ようこそお越しくださいました。粗末な離宮ではございますが、どうぞおくつろぎくださいませ。茶をお持ちいたしましょう」
「結構です。長居をするつもりはありませんので」
きっぱりと断つ声音。
梓乃は、まるでそれが春の風の一吹きであるかのように、にこりと微笑んだ。
「まあ、それは残念。せっかく千鳥が腕によりをかけたお菓子を用意しておりましたのに」
宗雅は眉をひそめる。
この女——噂に聞いた妖艶な誘惑者ではない。
むしろ、どこか拍子抜けするほど、おっとりしている。
「君が……例の女か」
「ええ、例の女でございます」
間髪入れずの返答に、宗雅の口元がぴくりと動いた。
そして次の瞬間——
「ぷっ……はは……っ」
あろうことか、氷の貴公子と呼ばれている宗雅が吹き出したのである。
あまりの意外さに、千鳥が「ひぃっ」と変な声をあげた。
「まあ……宗雅様がお笑いに?」
「失礼。まさか本人の口から“例の女”などという言葉が出るとは思わなかったので」
「言葉は時に最も手軽な武器になりますもの。笑ってくださるなら、本望でございますわ」
その飄々とした調子に、宗雅は再び目を細めた。
噂にあった“妖女”像はどこにもない。
目の前にいるのは、ただ柔らかく微笑み、相手の剣を受け流す女。
「……貴女は、何を考えている」
「お茶の湯加減を、でございます」
宗雅、沈黙。
その間に、千鳥が緊張のあまり手を滑らせ、茶器を宗雅の袖にこぼした。
「ああああっ、申し訳ありません! 宗雅様っ!」
「いや、構わぬ」
冷たい声が返るが、その顔にはわずかな戸惑いが見えた。
梓乃はすっと立ち上がり、手ぬぐいを差し出した。
「まあ、濡れても乾けば大丈夫です。それより、袖の香が変わってしまうかもしれませんね。……新しい香をおつけしましょうか?」
「……いや、それには及ばぬ」
「そう? 残念ですわ。宗雅様には、沈丁花の香りが似合いそうなのに」
またしても唐突な言葉に、宗雅は思わず彼女を見つめた。
梓乃はただ、にこりと、春の陽のように穏やかに微笑んでいる。
その笑顔に、胸の奥がふとざわめいた。
この女、緊張というものを知らぬのか……。
その日の夕刻。宗雅は報告書を書こうとして、筆を止めた。
“離宮に不穏の兆しなし。女、特筆すべき異常なし。”
それで十分のはずだ。
だが、気づけば筆は勝手に動き、こう書き加えていた。
——「ただし、何かに化けそうな気配あり」
宗雅は苦笑し、紙を裏返して火にくべた。
梓乃の笑顔が、なぜか煙の向こうでゆらめく。
「……面倒な女に出会ってしまったかもしれぬな」
そう呟いた声を、春風がひっそりとさらっていった。
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