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第二章 風花の離宮にて、静けさを知る
月明かりの余韻にて
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その夜、離宮の庭は白い月光に染められていた。
昼間、梓乃のもてなしを受けた広間の障子がうっすらと光を透かし、
虫の声が静かに夜気を満たしている。
宗雅は帳台の上で筆を取っていた。
昼のうちにまとめた報告書はすでに封じてある。
だが、どうにも心が落ち着かない。
筆の先が紙の上で無意味に踊り、墨が小さな円を描いた。
「まったく……」
思わずため息がもれた。
この離宮には何もない。
政治の陰も、陰謀の臭いも、甘い罠の気配すらない。
あるのは、風の音と、のんきな女の笑みばかりだ。
梓乃——。
宗雅は無意識にその名を口の中で転がした。
都では「帝の寵愛を奪い、追放された妖女」と噂されている女。
だが実際に会ってみれば、妖艶どころか、拍子抜けするほど淡々としている。
こちらが冷たく突き放しても、まるで柳の枝のようにするりと受け流す。
「“例の女でございます”……とは、よくもまあ言ったものだ」
宗雅の口元が、またかすかにほころんだ。
あの瞬間、自分が笑ったことがいまだに信じられない。
いつから人前で笑うことを忘れていたのだろう。
笑えば隙が生まれる。隙を見せれば、誰かがそこを突く。
そう教えられて育ってきた。
けれど彼女の前では、笑ってしまった。
それも、あまりに自然に。
「……あの女、何者だ」
宗雅は立ち上がり、障子を開けた。
月が庭の池面に揺れている。
風が吹き抜け、沈丁花の香がほのかに漂った。
梓乃が言っていた。「宗雅さまには沈丁花の香りが似合いそう」と。
なぜそんなことを言ったのか。
他意などないとわかっているのに、胸の奥に小さな波紋が広がる。
彼女の笑みは、柔らかい。
けれど、ただ穏やかなだけではない。
どこか、すべてを見透かすような眼差しをしていた。
あの目で見つめられると、自分の鎧が音もなくほどけていくような——そんな感覚に陥る。
「……厄介だな」
思わず呟いた声が、夜気に吸い込まれる。
風に揺れる竹の葉が、さらさらと囁いた。
遠くから、笑い声が聞こえる。
廊下の向こうで、梓乃と千鳥が話しているらしい。
『——宗雅様、お怖いお方かと思いましたけれど、意外にお優しいのですね』
『まあ、千鳥。あの方は、ただ少し表情をしまい込んでおられるだけよ』
『しまい込む……ですか?』
『ええ。きっと、笑う場所を忘れておられるのね』
宗雅は思わず、障子越しに息を止めた。
あの穏やかな声が、まるで月光に溶けるように響く。
笑う場所を、忘れている。
その言葉が胸に残る。
いつの間にか、指先が筆を探していた。
——“笑う場所を忘れた男に、月はまだ微笑むだろうか。”
無意識に書きつけた一文を見て、宗雅は自分で苦笑した。
まるで詩人のまねごとではないか。
だが、その苦笑もまた、どこか懐かしい。
風がまた吹いた。
池の面に波紋が広がり、沈丁花の香が濃くなる。
宗雅は、ふと天を仰いだ。
都にいるころは、月など見上げたこともなかった。
仕事と策略と噂の渦の中で、夜はただの闇でしかなかった。
けれど今、こうして見上げる月は、不思議とやさしい。
「……まったく、どうしてこうも調子が狂うのか」
ぼやきながらも、頬が緩むのを止められなかった。
あの女の笑顔が、頭の中で離れない。
明日、また会えば、あの調子でにこにこと茶をすすめるのだろう。
そう思うだけで、なぜか胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
宗雅は筆をしまい、灯を消した。
夜の闇が静かに帳台を包む。
それでも、彼の胸の中には、かすかな灯がともっていた。
それはまだ恋とは呼べぬほど小さな光。
けれど、確かにそこに——芽生えはじめていた。
昼間、梓乃のもてなしを受けた広間の障子がうっすらと光を透かし、
虫の声が静かに夜気を満たしている。
宗雅は帳台の上で筆を取っていた。
昼のうちにまとめた報告書はすでに封じてある。
だが、どうにも心が落ち着かない。
筆の先が紙の上で無意味に踊り、墨が小さな円を描いた。
「まったく……」
思わずため息がもれた。
この離宮には何もない。
政治の陰も、陰謀の臭いも、甘い罠の気配すらない。
あるのは、風の音と、のんきな女の笑みばかりだ。
梓乃——。
宗雅は無意識にその名を口の中で転がした。
都では「帝の寵愛を奪い、追放された妖女」と噂されている女。
だが実際に会ってみれば、妖艶どころか、拍子抜けするほど淡々としている。
こちらが冷たく突き放しても、まるで柳の枝のようにするりと受け流す。
「“例の女でございます”……とは、よくもまあ言ったものだ」
宗雅の口元が、またかすかにほころんだ。
あの瞬間、自分が笑ったことがいまだに信じられない。
いつから人前で笑うことを忘れていたのだろう。
笑えば隙が生まれる。隙を見せれば、誰かがそこを突く。
そう教えられて育ってきた。
けれど彼女の前では、笑ってしまった。
それも、あまりに自然に。
「……あの女、何者だ」
宗雅は立ち上がり、障子を開けた。
月が庭の池面に揺れている。
風が吹き抜け、沈丁花の香がほのかに漂った。
梓乃が言っていた。「宗雅さまには沈丁花の香りが似合いそう」と。
なぜそんなことを言ったのか。
他意などないとわかっているのに、胸の奥に小さな波紋が広がる。
彼女の笑みは、柔らかい。
けれど、ただ穏やかなだけではない。
どこか、すべてを見透かすような眼差しをしていた。
あの目で見つめられると、自分の鎧が音もなくほどけていくような——そんな感覚に陥る。
「……厄介だな」
思わず呟いた声が、夜気に吸い込まれる。
風に揺れる竹の葉が、さらさらと囁いた。
遠くから、笑い声が聞こえる。
廊下の向こうで、梓乃と千鳥が話しているらしい。
『——宗雅様、お怖いお方かと思いましたけれど、意外にお優しいのですね』
『まあ、千鳥。あの方は、ただ少し表情をしまい込んでおられるだけよ』
『しまい込む……ですか?』
『ええ。きっと、笑う場所を忘れておられるのね』
宗雅は思わず、障子越しに息を止めた。
あの穏やかな声が、まるで月光に溶けるように響く。
笑う場所を、忘れている。
その言葉が胸に残る。
いつの間にか、指先が筆を探していた。
——“笑う場所を忘れた男に、月はまだ微笑むだろうか。”
無意識に書きつけた一文を見て、宗雅は自分で苦笑した。
まるで詩人のまねごとではないか。
だが、その苦笑もまた、どこか懐かしい。
風がまた吹いた。
池の面に波紋が広がり、沈丁花の香が濃くなる。
宗雅は、ふと天を仰いだ。
都にいるころは、月など見上げたこともなかった。
仕事と策略と噂の渦の中で、夜はただの闇でしかなかった。
けれど今、こうして見上げる月は、不思議とやさしい。
「……まったく、どうしてこうも調子が狂うのか」
ぼやきながらも、頬が緩むのを止められなかった。
あの女の笑顔が、頭の中で離れない。
明日、また会えば、あの調子でにこにこと茶をすすめるのだろう。
そう思うだけで、なぜか胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
宗雅は筆をしまい、灯を消した。
夜の闇が静かに帳台を包む。
それでも、彼の胸の中には、かすかな灯がともっていた。
それはまだ恋とは呼べぬほど小さな光。
けれど、確かにそこに——芽生えはじめていた。
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