【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

文字の大きさ
7 / 25
第二章 風花の離宮にて、静けさを知る

月明かりの余韻にて

しおりを挟む
 その夜、離宮の庭は白い月光に染められていた。
 昼間、梓乃のもてなしを受けた広間の障子がうっすらと光を透かし、
 虫の声が静かに夜気を満たしている。

 宗雅は帳台の上で筆を取っていた。
 昼のうちにまとめた報告書はすでに封じてある。
 だが、どうにも心が落ち着かない。
 筆の先が紙の上で無意味に踊り、墨が小さな円を描いた。

「まったく……」

 思わずため息がもれた。
 この離宮には何もない。
 政治の陰も、陰謀の臭いも、甘い罠の気配すらない。
 あるのは、風の音と、のんきな女の笑みばかりだ。

 梓乃——。

 宗雅は無意識にその名を口の中で転がした。
 都では「帝の寵愛を奪い、追放された妖女」と噂されている女。
 だが実際に会ってみれば、妖艶どころか、拍子抜けするほど淡々としている。
 こちらが冷たく突き放しても、まるで柳の枝のようにするりと受け流す。

「“例の女でございます”……とは、よくもまあ言ったものだ」

 宗雅の口元が、またかすかにほころんだ。
 あの瞬間、自分が笑ったことがいまだに信じられない。
 いつから人前で笑うことを忘れていたのだろう。
 笑えば隙が生まれる。隙を見せれば、誰かがそこを突く。
 そう教えられて育ってきた。

 けれど彼女の前では、笑ってしまった。
 それも、あまりに自然に。

「……あの女、何者だ」

 宗雅は立ち上がり、障子を開けた。
 月が庭の池面に揺れている。
 風が吹き抜け、沈丁花の香がほのかに漂った。

 梓乃が言っていた。「宗雅さまには沈丁花の香りが似合いそう」と。
 なぜそんなことを言ったのか。
 他意などないとわかっているのに、胸の奥に小さな波紋が広がる。

 彼女の笑みは、柔らかい。
 けれど、ただ穏やかなだけではない。
 どこか、すべてを見透かすような眼差しをしていた。
 あの目で見つめられると、自分の鎧が音もなくほどけていくような——そんな感覚に陥る。

「……厄介だな」

 思わず呟いた声が、夜気に吸い込まれる。
 風に揺れる竹の葉が、さらさらと囁いた。
 遠くから、笑い声が聞こえる。
 廊下の向こうで、梓乃と千鳥が話しているらしい。

『——宗雅様、お怖いお方かと思いましたけれど、意外にお優しいのですね』

『まあ、千鳥。あの方は、ただ少し表情をしまい込んでおられるだけよ』

『しまい込む……ですか?』

『ええ。きっと、笑う場所を忘れておられるのね』

 宗雅は思わず、障子越しに息を止めた。
 あの穏やかな声が、まるで月光に溶けるように響く。

 笑う場所を、忘れている。
 その言葉が胸に残る。
 いつの間にか、指先が筆を探していた。

 ——“笑う場所を忘れた男に、月はまだ微笑むだろうか。”

 無意識に書きつけた一文を見て、宗雅は自分で苦笑した。
 まるで詩人のまねごとではないか。
 だが、その苦笑もまた、どこか懐かしい。

 風がまた吹いた。
 池の面に波紋が広がり、沈丁花の香が濃くなる。
 宗雅は、ふと天を仰いだ。

 都にいるころは、月など見上げたこともなかった。
 仕事と策略と噂の渦の中で、夜はただの闇でしかなかった。
 けれど今、こうして見上げる月は、不思議とやさしい。

「……まったく、どうしてこうも調子が狂うのか」

 ぼやきながらも、頬が緩むのを止められなかった。
 あの女の笑顔が、頭の中で離れない。
 明日、また会えば、あの調子でにこにこと茶をすすめるのだろう。
 そう思うだけで、なぜか胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。

 宗雅は筆をしまい、灯を消した。
 夜の闇が静かに帳台を包む。

 それでも、彼の胸の中には、かすかな灯がともっていた。
 それはまだ恋とは呼べぬほど小さな光。
 けれど、確かにそこに——芽生えはじめていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

幸せのテーブル〜限界集落でクールな社長に溺愛されて楽しく暮しています〜

ろあ
キャラ文芸
職場に馴染めなかった二十三歳の蒔菜。 上司たちに嫌味を言われるようになり、心が疲れてしまい、退職を決意する。 退職後、心を癒やすために地図で適当に選んだところに旅行へ出掛けるが、なんとそこは限界集落だった。 そこで財布をなくしたことに気づき、帰る手段がなくなってしまう。 絶望した蒔菜の前に現れたのは、クールな社長の聖だった。 聖は蒔菜を助けて、晩御飯に手料理を振る舞う。 その料理は、何を食べても美味しくないと鬱々していた蒔菜にとって心が温まるものだった。 それがきっかけでふたりは仲良くなり、恋人へ……。 命の恩人である聖の力になるために、蒔菜は彼の会社で働き、共に暮らすことになる。 親には反対されたが、限界集落で楽しく暮らしてみせると心の中で誓った。 しかし、限界集落に住む村長の娘は、都会から引っ越してきた蒔菜を認めなかった。 引っ越せとしつこく言ってくる。 村長に嫌われてしまったら限界集落から追い出される、と聞いた蒔菜はある作戦を実行するが……―― 溺愛してくる聖と居候のバンドマンに支えられて、食事を通して、変わっていく。 蒔菜は限界集落で幸せを掴むことができるのか……!?

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

とっていただく責任などありません

まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、 団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。 この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!? ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。 責任を取らなければとセルフイスから、 追いかけられる羽目に。

生きるために逃げだした。幸せになりたい。

白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。 2020/9/19 第一章終了 続きが書け次第また連載再開します。 2021/2/14 第二章開幕 2021/2/28 完結

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

閉じ込められた未亡人は、当主となった義息と契約する。

黒蜜きな粉
恋愛
借金の肩代わりとして後妻に入った私は、 妻と呼ばれながら屋敷の離れで「いないもの」として暮らしていた。 ある雪の日、夫が事故死したと告げられる。 だが、葬儀に出ることすら許されず、私は部屋に閉じ込められた。 新たに当主となった継子は言う。 外へ出れば君は利用され奪われる、と。 それが保護であり、同時に支配なのだと理解したとき、 私はその庇護を条件付きの契約に変えることを選ぶ。 短いお話です。 ※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。

あやかしが家族になりました

山いい奈
キャラ文芸
★お知らせ いつもありがとうございます。 当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。 ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 母親に結婚をせっつかれている主人公、真琴。 一人前の料理人になるべく、天王寺の割烹で修行している。 ある日また母親にうるさく言われ、たわむれに観音さまに良縁を願うと、それがきっかけとなり、白狐のあやかしである雅玖と結婚することになってしまう。 そして5体のあやかしの子を預かり、5つ子として育てることになる。 真琴の夢を知った雅玖は、真琴のために和カフェを建ててくれた。真琴は昼は人間相手に、夜には子どもたちに会いに来るあやかし相手に切り盛りする。 しかし、子どもたちには、ある秘密があるのだった。 家族の行く末は、一体どこにたどり着くのだろうか。

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

処理中です...