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第四章 都からの手紙
金泥の文(ふみ)
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宗雅の傷が癒え、離宮にようやく穏やかな日差しが戻ったころ。
南の庭では薄紅の山茶花が咲き、風にそよぐたび、花弁がふわりと畳に散った。
そんなある日の昼下がり――。
千鳥が息を切らせて駆け込んできた。
「姉さまっ! 都から……都から、勅書が!」
手には金泥の封蝋が輝く巻紙。
白磁のような紙地に流れる筆跡は、帝自らの筆と一目で分かった。
梓乃は、そっと手を伸ばしてそれを受け取った。
陽の光にかざすと、金の文字がきらめき、まるで春の水面のように揺れて見える。
「まあ……きらびやかすぎて、私にはまぶしいですわ」
穏やかに微笑む梓乃の横で、千鳥は胸を震わせた。
「そんなこと言ってる場合じゃありません! 姉さまの名誉が戻るんですよ!」
彼女は涙ぐみながら、勅書の内容を早口で読み上げる。
『真実、明らかとなりぬ。
藤原梓乃、無実。
ただちに都へ戻り、旧位に復せよ。』
金泥の筆跡が、梓乃の名をまるで花のように浮かび上がらせる。
その輝きは、彼女のこれまでの苦難を労うようでもあった。
「姉さま……よかった、本当によかった!」
千鳥は泣き笑いの顔で梓乃の手をぎゅっと握った。
だが、その手を包む梓乃の指は、どこかひんやりとしていた。
「千鳥。私は……嬉しくないわけではないのよ。ただ――」
梓乃はゆっくりと目を伏せる。
「宮中に戻れば、また誰かの詮索の目を気にして、無粋な噂に立たぬよう、己の心を殺して息を潜めてしまうでしょう。ここでは、この離宮の風や花の香りが、私の張り詰めた心を解き、人の心はようやく柔らかくなるのです。この、誰にも侵されない静かな時間を手放すことを、少し……惜しいと思ってしまうのです」
その声は、風に紛れるほど静かだった。
けれど宗雅の胸の奥には、不意に痛みのようなざわめきが走った。
「……君は、どちらを選ぶ?」
宗雅が低く問う。
梓乃は振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。
「選ぶ、ですか?」
「都へ戻るのか。この離宮に残るのか」
宗雅は視線を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめた。
梓乃は少し考え、遠く庭の池を見やった。
冬を越した水面に、小さな梅の影が揺れている。
「……もう少し、こちらにいさせてください」
「理由を、聞いてもいいか」
「都では、風が冷たいのです。礼儀や形に縛られて、人の心が凍ってしまう。けれどこの離宮では、風が肌にやさしい。宗雅様や千鳥と過ごすうちに、私の中の氷が少しずつ解けていくのを感じました」
宗雅は一瞬、言葉を失った。
胸の奥に、暖かなものが広がっていく。
「……それは、こちらこそ同じだ」
静かな声で、宗雅は言った。
「君が来てから、この屋敷の空気が変わった。人の声が増え、笑いが絶えず、夜の灯が明るくなった。……そして、私自身も、何かがほどけていくようだ」
千鳥はそんな二人を見て、きょとんとした顔をしたが、すぐに「あの、あの! 荷造りはどうしましょう!?」と慌てだした。
「姉さまの装束、宮中用に仕立て直さないと! ああ、筆も香袋も……!」
廊下をばたばたと駆け回る千鳥。
宗雅が思わず苦笑する。
「慌てるな。まだ“少し”残るそうだ」
「“少し”と仰って、またいつの間にか半年くらい経ってたりして……」
千鳥のつぶやきに、梓乃は思わず吹き出した。
その笑顔に、宗雅はふと息を呑む。
陽の光を受けた頬が柔らかく染まり、まるで春告げの花のようだった。
――あの日、熱に浮かされた夜。
ぼんやりと見た微笑みと、寸分違わぬ、いや、それ以上に輝かしい笑顔だった。
宗雅はその一瞬、心の奥底で確信した。
この胸を焦がす熱の正体を。
それは、紛れもなく恋であった。
けれど口には出せない。
勅書の金泥が、二人のあいだに見えない境を描いている。
彼女が再び都に戻れば、この静かな日々は夢になる。
宗雅はふっと目を細め、光を見上げた。
「……金の文字より、風の匂いの方が君には似合うな」
「まあ、そんなことを仰って。帝に聞かれたら叱られますよ」
「聞かれねば、よい」
穏やかなやりとりに、千鳥が「もう、お二人とも!」と頬をふくらませた。
笑い声が廊下に響き、庭の鳥が一斉に飛び立つ。
外では、春を告げるように梅の花びらが風に舞った。
金泥の文は机の上に置かれたまま、やわらかな光を反射している。
梓乃はふと、その封を見つめた。
そして、そっと指先で撫でる。
「……いつか、もう少し強くなれたら。あの都の風にも負けない心を、持てるようになるでしょうか」
宗雅は答えず、ただその横顔を見つめ続けた。
やがて夕暮れ。
西の空に朱が差し、金泥の文はその光を受けて静かに輝いた。
梓乃は窓辺に立ち、そっと目を細める。
「……都も、今ごろ同じ夕焼けでしょうか」
「いや」
宗雅が言った。
「都の空は、これほど澄んではおるまい」
その声に、梓乃は小さく笑った。
「では、もう少しこの澄んだ空の下で、風を感じてまいります」
宗雅は頷き、ただ一言だけ返した。
「……好きにするといい」
その言葉の奥に、どれほどの想いが隠れていたのか。
梓乃はまだ、知らない。
南の庭では薄紅の山茶花が咲き、風にそよぐたび、花弁がふわりと畳に散った。
そんなある日の昼下がり――。
千鳥が息を切らせて駆け込んできた。
「姉さまっ! 都から……都から、勅書が!」
手には金泥の封蝋が輝く巻紙。
白磁のような紙地に流れる筆跡は、帝自らの筆と一目で分かった。
梓乃は、そっと手を伸ばしてそれを受け取った。
陽の光にかざすと、金の文字がきらめき、まるで春の水面のように揺れて見える。
「まあ……きらびやかすぎて、私にはまぶしいですわ」
穏やかに微笑む梓乃の横で、千鳥は胸を震わせた。
「そんなこと言ってる場合じゃありません! 姉さまの名誉が戻るんですよ!」
彼女は涙ぐみながら、勅書の内容を早口で読み上げる。
『真実、明らかとなりぬ。
藤原梓乃、無実。
ただちに都へ戻り、旧位に復せよ。』
金泥の筆跡が、梓乃の名をまるで花のように浮かび上がらせる。
その輝きは、彼女のこれまでの苦難を労うようでもあった。
「姉さま……よかった、本当によかった!」
千鳥は泣き笑いの顔で梓乃の手をぎゅっと握った。
だが、その手を包む梓乃の指は、どこかひんやりとしていた。
「千鳥。私は……嬉しくないわけではないのよ。ただ――」
梓乃はゆっくりと目を伏せる。
「宮中に戻れば、また誰かの詮索の目を気にして、無粋な噂に立たぬよう、己の心を殺して息を潜めてしまうでしょう。ここでは、この離宮の風や花の香りが、私の張り詰めた心を解き、人の心はようやく柔らかくなるのです。この、誰にも侵されない静かな時間を手放すことを、少し……惜しいと思ってしまうのです」
その声は、風に紛れるほど静かだった。
けれど宗雅の胸の奥には、不意に痛みのようなざわめきが走った。
「……君は、どちらを選ぶ?」
宗雅が低く問う。
梓乃は振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。
「選ぶ、ですか?」
「都へ戻るのか。この離宮に残るのか」
宗雅は視線を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめた。
梓乃は少し考え、遠く庭の池を見やった。
冬を越した水面に、小さな梅の影が揺れている。
「……もう少し、こちらにいさせてください」
「理由を、聞いてもいいか」
「都では、風が冷たいのです。礼儀や形に縛られて、人の心が凍ってしまう。けれどこの離宮では、風が肌にやさしい。宗雅様や千鳥と過ごすうちに、私の中の氷が少しずつ解けていくのを感じました」
宗雅は一瞬、言葉を失った。
胸の奥に、暖かなものが広がっていく。
「……それは、こちらこそ同じだ」
静かな声で、宗雅は言った。
「君が来てから、この屋敷の空気が変わった。人の声が増え、笑いが絶えず、夜の灯が明るくなった。……そして、私自身も、何かがほどけていくようだ」
千鳥はそんな二人を見て、きょとんとした顔をしたが、すぐに「あの、あの! 荷造りはどうしましょう!?」と慌てだした。
「姉さまの装束、宮中用に仕立て直さないと! ああ、筆も香袋も……!」
廊下をばたばたと駆け回る千鳥。
宗雅が思わず苦笑する。
「慌てるな。まだ“少し”残るそうだ」
「“少し”と仰って、またいつの間にか半年くらい経ってたりして……」
千鳥のつぶやきに、梓乃は思わず吹き出した。
その笑顔に、宗雅はふと息を呑む。
陽の光を受けた頬が柔らかく染まり、まるで春告げの花のようだった。
――あの日、熱に浮かされた夜。
ぼんやりと見た微笑みと、寸分違わぬ、いや、それ以上に輝かしい笑顔だった。
宗雅はその一瞬、心の奥底で確信した。
この胸を焦がす熱の正体を。
それは、紛れもなく恋であった。
けれど口には出せない。
勅書の金泥が、二人のあいだに見えない境を描いている。
彼女が再び都に戻れば、この静かな日々は夢になる。
宗雅はふっと目を細め、光を見上げた。
「……金の文字より、風の匂いの方が君には似合うな」
「まあ、そんなことを仰って。帝に聞かれたら叱られますよ」
「聞かれねば、よい」
穏やかなやりとりに、千鳥が「もう、お二人とも!」と頬をふくらませた。
笑い声が廊下に響き、庭の鳥が一斉に飛び立つ。
外では、春を告げるように梅の花びらが風に舞った。
金泥の文は机の上に置かれたまま、やわらかな光を反射している。
梓乃はふと、その封を見つめた。
そして、そっと指先で撫でる。
「……いつか、もう少し強くなれたら。あの都の風にも負けない心を、持てるようになるでしょうか」
宗雅は答えず、ただその横顔を見つめ続けた。
やがて夕暮れ。
西の空に朱が差し、金泥の文はその光を受けて静かに輝いた。
梓乃は窓辺に立ち、そっと目を細める。
「……都も、今ごろ同じ夕焼けでしょうか」
「いや」
宗雅が言った。
「都の空は、これほど澄んではおるまい」
その声に、梓乃は小さく笑った。
「では、もう少しこの澄んだ空の下で、風を感じてまいります」
宗雅は頷き、ただ一言だけ返した。
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その言葉の奥に、どれほどの想いが隠れていたのか。
梓乃はまだ、知らない。
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