【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第四章 都からの手紙

風花の庭にて

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 夕暮れの光が庭をやわらかく包み込み、風が梢を揺らした。
 山茶花の花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちる。

 梓乃はその中を、ゆっくりと歩いていた。
 手にしているのは一本の筆。
 ――宗雅が昼の文書仕事のあと、机の端に置き忘れたものだ。

(筆の先まで、きちんと整っているのね……)

 筆軸には宗雅の名を表す「宗」の字が、控えめに刻まれていた。
 彼の几帳面な性格が、その細工ひとつにも滲んでいる。

「都では、もう宗雅様のように穏やかに話してくださる方も、いないでしょうね」

 梓乃は小さくつぶやいた。

 都の人々の会話はいつも、どこかに刃が潜んでいる。
 褒め言葉も裏を返せば探り合い。
 だからこそ、言葉を選び、息をひそめて生きねばならない。

 けれど――この離宮では。

「本当の声で、笑うことができたのです」

 指先に触れる筆の感触が、彼女の胸の奥をくすぐる。
 風が吹き、花の香がほのかに流れた。

 風花――山茶花と梅がまじるこの季節の風を、宗雅がそう名づけてくれた。

(……あの方は、今、どこでこの風を感じているのでしょう)

 ふと、背後で衣擦れの音がした。
 振り返ると、宗雅が廊下の影から姿を現した。
 淡い紫の直衣に、風が裾を揺らしている。

「こんな時間まで庭に?」

「ええ。考えごとをしておりました」

 宗雅は彼女の手にある筆に気づき、苦笑した。

「……それは、私の忘れものだな」

「やはり、宗雅様のものでしたのね」

 梓乃はそっと筆を掲げ、光に透かして見せる。

「丁寧に手入れされていて、まるで持ち主そのもののようです」

 宗雅は少し肩をすくめて、柔らかに笑った。

「几帳面と言われれば聞こえはいいが、ただの小心者かもしれん」

「そうでしょうか。私には、まっすぐで誠実な方に見えます」

 その言葉に、宗雅は一瞬だけ視線を逸らした。
 沈黙がふたりの間を満たす。

 やがて、宗雅が小さく息を吐いた。

「……君がいなくなったら、この離宮はまた静まり返るな」

「静かであることは、悪くありませんよ」

 梓乃は笑いながらも、胸の奥にかすかな痛みを覚えた。

 宗雅は、目を細めた。


「……だが、君の声のない静けさは、少し寂しい」

 その一言が、胸の奥に響いた。
 あたたかく、けれど切ない響き。

 梓乃は、そっと袖の中から小さな香壺を取り出した。

「これを……」

「香?」

「はい。都に戻っても、この香を焚けば、風花の香りを思い出せます」

 香壺の蓋を開けると、ほのかな白梅と沈香の香りが立ちのぼる。
 宗雅はその香りを吸い込み、静かに目を閉じた。

「……忘れられると思うか?」

 低い声が、風の音に紛れる。
 梓乃は少し頬を染めて、唇に笑みを浮かべた。

「忘れられないように、いたずらをしておきます」

 宗雅が眉を上げる。

「いたずら?」

「ええ。たとえば、香の中にほんの少し、別の花の香りを混ぜてあります」

「別の……?」

「桜です。春が来たら、その香りが顔を出します。そのとき宗雅さまはきっと、“ああ、あの人の香りだ”と気づかれるでしょう」

 宗雅は一瞬、言葉を失ったようだった。
 やがて小さく笑みを洩らす。

「……まるで術のようだな」

「いいえ、香は人の心を結ぶものです。言葉にできない想いを、香りに託すだけのこと」

 その声には、わずかに震えがあった。
 それを宗雅は聞き分け、手を伸ばした。

「梓乃」

 呼び名に、梓乃の肩がわずかに揺れる。

「はい」

「都へ行っても、君らしく笑って欲しい」

「……努力いたします」

「努力ではなく、願いとして。私は――君の笑顔が好きだ」

 言葉が風に散る。
 沈黙。
 梓乃の瞳が大きく揺れた。

 宗雅は続けようとして、しかし、喉の奥で言葉を飲みこんだ。
 金泥の文の重みが、ふたりの間にそっと影を落とす。

 梓乃はゆっくりと頭を下げた。

「宗雅様……ありがとうございます。この離宮で過ごした日々は、私の宝です。風も、花も、そして――」

 視線が彼に触れる。
 けれど、続く言葉は風にさらわれた。

 宗雅は香壺を胸に抱き、静かにうなずいた。

「……この香を焚くたび、君を思い出そう」

「そのときは、どうか少しだけ笑ってくださいね。風花は、笑顔の人にしか咲かない花ですから」

 宗雅は思わず微笑した。

「君は、本当に……困った人だ」

「ふふ。香に託した“いたずら”は、もう効きはじめたようですね」

 そう言って、梓乃は軽く裾を翻し、庭の方へ歩き出した。
 夕陽が彼女の袖を金色に染め、風に乗って髪がふわりと舞う。
 宗雅はただ、その背を見送った。

 胸の奥で、ひとつの言葉が生まれかけて――

 けれど、それを声にすることはできなかった。

(もし、もう少し早く気づいていたなら)

 沈む陽が山の端にかかる。
 風花がまたひとひら、宗雅の肩に落ちた。

 香壺を開くと、微かな桜の香りが混ざっていた。
 宗雅は思わず笑い、指でその香をすくい取る。

「……忘れられそうにないな」

 遠く、廊下の向こうで梓乃の姿が消える。
 風が通り抜け、庭の花々をやさしく揺らした。

 その風の中に、確かに彼女の香りが残っていた。
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